2021 02/17
私の好きな中公新書3冊

ノンフィクションとフィクションの間/かげはら史帆

武田徹『現代日本を読む―ノンフィクションの名作・問題作』
廣野由美子『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義』
馬部隆弘『椿井文書―日本最大級の偽文書』

 わたしの人生初の単著は「歴史ノンフィクション」と銘打たれて世に出た。しかし正直に告白すると、わたし自身はノンフィクションというジャンルに明るいわけではなかった。書店の「ノンフィクション」の棚の前に行くと、そこには「フィクションではない」という条件下のありとあらゆる本がデコボコと並んでいる。なるほど、はぐれものの拙著に似合いの場所だ。ほっとしたものの、やっぱりよくわからない。......ノンフィクションって、何?

 『現代日本を読む―ノンフィクションの名作・問題作』は、その謎に対する明快な答えを与えてくれる本ではない。ノンフィクションとは、「ノンフィクションって、何?」という自問自答のなかにこそ成立しているジャンルなのだ。ある作品がノンフィクションを志向するとき、そこにはフィクションとの慎重な線引きがあり、アカデミズムとの微妙な距離があり、報道との根本的な使命の違いがある。この本は、それらの隣接ジャンルとの比較を通して、「ノンフィクションって、何?」という問いを投げかけていく。
 とくに印象的なのは、日本を代表するノンフィクション作家、沢木耕太郎の葛藤に迫った第3章。事実のみに徹しようとすると表現が貧しくなってしまう──そんなノンフィクションならではの困難に立ち向かい、新たな表現手法を探し続ける姿には畏敬の念を抱かずにはいられない。(本コラムのタイトルは、この第3章の章題を借用した)

 著者の武田徹氏はあとがきでこう述べている。「語り手の構想力に依存する構図自体は(ノンフィクションも)フィクションの物語と変わらない」──言い換えれば、ノンフィクションを書く/読む際にも、ひとは少なからずフィクションの技法を援用している。ではその技法にはどんなものがあるのか。『批評理論入門』は19世紀初頭の小説『フランケンシュタイン』を、「ストーリーとプロット」「間テクスト性」といった15の小説技法、「フェミニズム批評」「新歴史主義」といった13の批評技法でもって分析する。『フランケンシュタイン』は登場人物の書簡を織り交ぜた小説であり、その構造分析は、ノンフィクション作品の書き方/読み方にも大いに役立つ。

 さて、ノンフィクションであってもフィクションであっても、参考資料を扱う際にはその真偽は無視できない。『椿井文書―日本最大級の偽文書』は、江戸時代に「中世の史料」として世に流布した偽文書「椿井文書」について解説した本。興味深いのは、この偽文書の内容や成立過程もさることながら、なぜニセモノとわかっている史料を今日なお排除できないのかという問題に迫っている点だ。このテーマは、拙著であつかったベートーヴェンの史料の改竄問題にもつながり、門外漢ながらとても興味深く読んだ。
 世に知られざる問題や事件が、1冊の本の形になって、新書の棚、あるいはノンフィクションの棚に置かれる。その意味と価値を信じさせてくれる快著といえるだろう。

かげはら史帆(かげはら・しほ)

1982年、東京郊外生まれ。一橋大学大学院言語社会研究科修士課程修了。著書『ベートーヴェンの愛弟子 フェルディナント・リースの数奇なる運命』(春秋社)、『ベートーヴェン捏造 名プロデューサーは嘘をつく』(柏書房)。ほか音楽雑誌、文芸誌、イベントプログラム、ウェブメディアにエッセイ、書評などを寄稿。