2020 12/22
著者に聞く

『北朝の天皇』/石原比伊呂インタビュー

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は建武の新政を行うが、のち足利尊氏と対立。尊氏が新天皇を擁立して京都に幕府を開いたため(北朝)、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れ、自らの正統性を主張した(南朝)。幕府に奉じられた北朝天皇家は、無力な傀儡(かいらい)だったとの見方があるが、内実はどうだったのか。『北朝の天皇 「室町幕府に翻弄された皇統」の実像』を著した石原比伊呂さんに話を聞いた。

――先生のご専門は。

石原:日本中世史です。特に室町時代の公武関係です。幕府と朝廷、武士と公家、将軍と天皇の関係と言った方がわかりやすいかもしれません。

――これまで南朝を扱った著作はたくさん出ていますが、書名に「北朝」と付く本は少ないように思われます。どうしてだと思われますか。

石原:本書冒頭でも述べたように、戦前以来「善玉の南朝vs悪玉の北朝」ではなく、「善玉の南朝vs悪玉の足利家」という構図でこの時代は描かれてきました。南朝の敵役とはいえ天皇家であることに違いはなく、しかも血縁的には近代天皇家の先祖にあたりますから、足利家の向こう側に北朝を置くことで影を薄くして、北朝天皇家に「悪玉」のレッテルを貼らずに済むようにしてきたことの結果だと思われます。

――「はじめに」で「中世天皇家の生命力を描写していきたい」とお書きです。室町時代の天皇家は無力だった印象があり、「生命力」があったとは意外でした。

石原:本来、「無力」であることと「生命力」に比例関係はありません。むしろ「細く長く」という事態が往々にして発生します。結果として生き残ったのだから、その厳然たる事実を前提にすれば、「生命力」のある存在として北朝天皇家を描き出すより他ないということになります。

――なるほど。とはいえ、経済的には困窮していたのでは?

足利義満が建てた金閣(鹿苑寺。左)と義政が建てた銀閣(慈照寺)

石原:室町時代のうちでも義満(3代将軍)や義政(8代将軍)の時代はそうでもなかったと思います。収入源が荘園からの収益ではなく、足利家からの献金に代わりましたが、それだけの話とも言えます。統治行為を足利家が肩代わりしてくれるので支出も減っており、「食べるに困る」というようなことはなかったと思われます。ただ、足利家からの献金に代わる収入源を見つけられなかった戦国期(応仁の乱以降)は困っていたと思われます。

――天皇家や将軍家にまつわる生々しいエピソードの数々に驚きました。ああしたエピソードが過去の記録に残っているのですね。

石原:室町時代は、天皇だけでなく公家社会全体が将軍家に依存していましたので、天皇家と将軍家の関係性は、当時の貴族にとっても他人事ではありませんでした。貴族や大寺社の高僧は、常に両者の関係を注視していたと言えます。それゆえ、細かなところまで彼らの日記に残されることが多いです。

――伏見宮貞成(さだふさ)親王に興味を持ちました。北朝天皇家の本家筋にもかかわらず皇位から遠ざかっていた伏見宮家ですが、当主の貞成親王は巧みに立ち回り、やがて長男の彦仁は後花園天皇として即位します。多くの子宝に恵まれ、長生きした人物でもありました。

石原:貞成親王は『看聞日記(かんもんにっき)』という日記を残しており、そこから大変に魅力的な人柄がうかがい知れます。本来、公家社会の人物による日記とは儀礼のマニュアルを書いて子孫に伝えるためのものでしたので、儀礼の式次第が延々と書き連ねられるという、現代人からすれば無味乾燥なものです。ただし、時代が下るにつれてそれ以外のことも書くようになりました。貞成親王の日記はそのなかでも特に好奇心旺盛な内容が含まれますので、記主本人の個性が際立ちます。ただ、学界では貞成親王のことを「好奇心旺盛な好々爺」といった人物像で描きがちですが、個人的には「ニコニコしているが目の奥は笑っていない人」という印象もあります。

――個人的に思い入れのある登場人物がいましたら。

石原:自分の研究が軌道に乗るきっかけは足利義持(4代将軍)に関する論文でしたので、義持や同世代の後小松天皇に思い入れもありますが、最近は足利義尚(9代将軍)が気になっています。本書ではあまり前面に押し出しませんでしたが、足利家と天皇家の関係性の行き詰まりを体現するような生き方をしたのが義尚だと思っているので、今後、考察を深めていきたいです。

――足利義尚ですか。酒に溺れて若死にしたとも伝わります。そう言えば「飲酒」に関する叙述が多かった気がしますが、なぜなのでしょうか。

石原:本来、記録上に残される酒宴というのは儀礼の一部、現代で言うところの晩餐会ですので、それに関する記述が記録史料に残されていたとしても、内容は無味乾燥だったりします。にもかかわらず義政の時代あたりから、ごくプライベートな宴席の記事も増えてきます。それまではあまり見られなかったような記事が増えてくるということは、そこに時代を解きほぐす鍵があるということですので、注目することも自然と多くなったということかと思います。

――和歌、蹴鞠、音楽、能など、さまざま文化・芸能の話も出てきます。

石原:文化や芸能というのは、儀礼的な年中行事と個人的な娯楽の中間に位置します。ゆえに、そこには参加者の政治的な立ち位置や振る舞いが表現されると同時に、個人的な嗜好や性向も垣間見えます。本書で描いたように、室町時代における将軍家と天皇家の公的な関係性というのは当主同士の個人的(=私的)な関係に大きく影響されながら維持されたものですので、公私の中間にある文化や芸能というのは両者のあり方を分析する格好の素材とも言えます。

――今回の執筆したことで、新しい発見はありましたか。

石原:本書では特に後半における主役が後土御門(ごつちみかど)天皇となるような構成になりましたが、実はこれまで後土御門天皇を主な登場人物とする学術論文は書いたことがありません。なので、執筆にあたって改めて史料に目を通したのですが、関連史料を読めば読むほど、「ずいぶんずけずけと自己主張する人だなぁ」という印象を抱くようになりました。足利義尚とも同時代人ですし、2人の生き様を両睨みしながら、今後、検討を深めていきたいと思うようになりました。

――出版後、周囲の反響はいかがですか。

石原:普段からお付き合いのある同僚や研究仲間からは「石原先生の肉声が聞こえるような気がしました」とか、「いつもの石原節が冴えていて、スピード感をもって読めました」といったお手紙やメールを頂戴しました。

――そうでしたか。SNSなどでも「わかりやすい」「面白い」といった感想が見られました。執筆にあたって心がけていることがありましたら。

石原:こちらとしては特に意識してわかりやすくしたというのではなく、自分にとって最も書きやすい書き方をしたらこうなった、という感じです。むしろ学術論文を書くときの方が「それっぽい言葉遣いや単語選びをしなければならない」と思って苦労したりします。本書中では、現代にひきつけた例を多用しましたが、それは読者にわかりやすく説明するためではなく、そうしないと自分が理解できないので、自分のために咀嚼(そしゃく)した結果をそのまま記したことによるものです。なので、強いて言えば、自分が読み返したときにストレスなく読めるかどうかを意識していると言えばしているかもしれません。

――今後の取り組みのご予定は。

石原:研究者による作業として、「論文を書く」→「論文集を出す」→「一般向けの著書としてかみ砕いて社会に還元する」という理念的なサイクルがあると考えているので、さしあたり当面は「論文を書く」「論文集を出す」の作業に注力し、縁がありましたら、再び「一般向けの著書としてかみ砕いて社会に還元する」にも挑戦してみたいなという思いがあります。

――ありがとうございました。

石原比伊呂(いしはら・ひいろ)

1976年生まれ。青山学院大学大学院博士課程修了。博士(歴史学・青山学院大学)。現在、聖心女子大学現代教養学部准教授。専門は日本中世史(中世後期公武関係論)。著書に『室町時代の将軍家と天皇家』『足利将軍と室町幕府』など。