2020 11/27
著者に聞く

『ヒトラーの脱走兵』/對馬達雄インタビュー

南ドイツ・フライブルクにて

戦後ドイツに残されたナチスドイツに関する「最後のタブー」が脱走兵です。この問題について、日本で初めて紹介する『ヒトラーの脱走兵』を刊行した對馬達雄さんにお話を伺いました。

――ナチスドイツにおける脱走兵は、他国の脱走兵とどう違うのですか。

對馬:まず、脱走は文字通り死を覚悟した行動であったことです。脱走はどの国の軍隊でも絶対的に否定されますが、ナチスドイツの軍法では、原則死刑と極端に厳格に定められ、軍法会議もその厳格な執行機関となりました。この点で、たとえば敵対国アメリカ軍の場合、脱走兵が逮捕されても、彼らに矯正の余地が残されていたのとは対照的です。

また、とくに東部戦線に代表されるように、侵略と民族殲滅という想像を絶した非道な戦闘となっていたことから、応召した兵士たちが、“祖国を守るため”とかの戦争の大義を見出せなかったことも特徴的です。そのため戦争への疑問が深まりました。こうしたことが米英軍隊とは段違いの脱走兵を生み、また極端に苛酷な処罰となったのです。

――それらの脱走兵はどうなったのでしょうか。

對馬:裁判記録を見ますと、脱走罪は最も破廉恥な許しがたい行動とされ、捕まった脱走兵たちはほぼ例外なく死刑判決となっています。その場合もただ銃殺刑にするのではなく、味方の盾になる懲罰部隊に編入させ、戦闘力として利用することが、とくに東部戦線で敗色が濃くなった頃から多くなっています。この懲罰部隊で生き残るのは数パーセントでした。

しかも、かろうじて生き延び戦後をむかえても、彼らは依然犯罪者であり、公的な補償や年金支給からも排除され、国家、社会から無視されつづけました。

――對馬先生がナチスドイツの脱走兵を知ったのは何がきっかけでしたか。なぜそのことを前著『ヒトラーに抵抗した人々』の次に執筆しようと思ったのですか。

對馬:『ヒトラーに抵抗した人々』で描いた、ナチ体制に同調しない無名市民には、脱走兵たちを救援し、匿うという行動もありました。ユダヤ人救援だけではありません。脱走兵を自分たちの同志だと認めていたからです。実際、彼らと行動を共にする脱走兵たちも存在しました。

ですから、脱走兵には「もう一つの」ヒトラーに抵抗した人々という性格もありました。前作でこのことに言及する余裕がなかったので、改めて脱走兵の問題を詳しく著そうと思っていました。

――本書の主人公バウマン氏に会ったときのことを教えてください。

對馬:私がバウマン氏と話し合えたのは2016年10月15日午後2時過ぎのことでした。すでに94歳という高齢でしたので、彼の健康を気遣う「全国協会」のクネーベルさんからは、電話で「今日午前中病院に行ってきたばかりだから、面談があまり長い時間にならないように」と、助言されていました。

バウマン氏はひとりアパート3階の自宅で私を待っていました。補助の歩行器具を使用していましたが、元気そうな様子で、自分で私に紅茶をいれ、もてなしてくれました。某紙に寄稿した脱走兵の名誉回復にかんする拙文とそのドイツ語訳をバウマン氏に差し上げ、私の質問に応えるという形で話し合いましたが、眼光が鋭くなり、非常にシャープな語り口になったのがつよく印象に残っています。

またかねてより私がいだいていた疑問、つまり彼が人生を立て直し、20年にもおよぶ復権活動へと駆り立てたものは何かということには、はっきりとは答えませんでした。失礼だと思いながらも、彼の亡き妻ヴァルトラウトへの「贖罪」ということばを彼に向けたのですが、肯定も否定もしませんでした。

推測ですが、妻の死後、晩年まで毎週自転車ででかけ墓前で話しかけていたことからすると、もはや贖罪というレベルではなく、亡き妻との心の対話が彼の行動をしっかり支えていたのではないか、そう思っています。

もちろん、同じく脱走し懲罰部隊に編入されて死んだ同郷の友オルデンブルクや、深く敬愛していたルカシッツの不当な死を証明し汚名を雪ぐという信念が、彼をつき動かしていたことは確かでしょう。それがさらに年月を重ねるにつれ、復権活動そのものの意味をより深く考え、かつ意味づけるようになったのではないかと思います。本書で言及した、時期の異なる三度の公聴会でのバウマン氏の発言内容の変化にそれがみてとれるのではないでしょうか。

はじめは40分程度ということでしたが、話がはずんで結局1時間半余りお邪魔しました。そのあとバウマン氏に別れを告げると、戸口まで見送りをしてくれましたが、そのときにかけられた「2年前だったらあなたを送って行けたのだが」ということばに、彼の豊かな人間力を感じました。

――執筆にあたっての苦労を教えてください。

對馬:バウマン氏から復権活動のスクラップブックを戴いたときから、彼を軸に著そうと考えていました。ドイツには年代を追う形の小伝があるだけでしたから。

ところが実際にバウマン氏について記そうとすると、ナチスドイツで少年期を過ごし、脱走兵となって九死に一生を得て終戦をむかえた時期、元脱走兵として迫害され、せっかく得た妻子をも犠牲に絶望的な人生を過ごした時期、平和運動と脱走兵の復権に人生の目的を見いだし行動する時期、さらに復権活動が支援を得てついに成就するまでの時期、というように4段階、ナチス期から現代ドイツまでほぼ1世紀にわたっています。どの時期を欠いても、彼の行動を語るには不足で、復権成就にいたるまでの長大な現代史を包摂した叙述とならざるをえなかったのです。

また、復権にはおのずと司法と立法が関わります。とくに難儀したのは、私の調べたかぎり日本の軍事史研究では、ナチス軍司法の領域はまったく手付かずであったことです。当然のことですが、軍司法について一から学ぶ作業を始めました。用語などについて自分の理解に不安がつきまといましたが、どうにかバウマンたちの復権活動が、捏造された軍司法の真相を糾す研究活動と軌を一にして展開する過程を、具体的に述べることができました。その意味で、本書が学的性格を失わず、読者に読んでもらえることを嬉しく思っています。

――本書を読んでいて、非常に長期間の悪戦苦闘が続き、政治などの外的条件にも翻弄され、まさに「最後の」タブーであると感じましたが、なぜこんなに長引いたのでしょうか。

對馬:まず一つに、戦後、ナチス体制については否定しても、その最重要組織=国防軍の兵士の軍規違反、とりわけ、脱走や戦時反逆などの行為を絶対的に拒否することが久しく社会通念となっていたことです。これを支えているのが、従軍世代の「自分たちは命がけで戦闘したのに、彼らは我々を裏切った卑怯者だ」という意識です。ですから、世代交代がすすむまで、軍法に違反した彼らへの迫害がつづいたし、再軍備を旧国防軍からの補充に求めた連邦政府も、彼らを依然犯罪者として無視したのです。バウマンたちが1990年になってからようやく名誉回復のための「全国協会」を立ち上げたのも、こうした世代交代をみすえていたからです。

二つには、ナチス司法の当事者たちが戦後も居座り、しかも軍司法(軍法会議)の実態をごまかし正当性を捏造したこと、それがドイツ社会で維持されてきたことです。戦後司法界や保守政治家たちもその支持者でした。

三つには、このことと関わって、事実の歪曲を糾すナチス軍司法の歴史研究が1980年代末まで欠如していたことです。

一方、元脱走兵の迫害を不当とする考えが支持されるようになるのは、こうした軍司法の研究が実を結んできたからです。もちろんそれが人々に共有され、世論を動かすには時間がかかります。先駆的なメッサーシュミットとヴュルナーの研究(1987年)から連邦議会の決議に大きな影響を与えたヴェッテたちの『最後のタブー』(2007年)の調査研究まで、20年も要しています。さらに最終的に解決を見たのはその2年後のことです。

私はこの間、バウマンが「不法国家の悪法は法たりえない」と訴えつづけた司法、連邦議会の動静を、基本的に、過去の事実の確認と実証のための不断の「知の闘争」であったと、考えています。そして最終的には、政治家たちも党利党略や政争をのりこえ、歴史的事実とあるべき国家の姿に真摯に向き合ったということです。「知」を尊重する歴史的伝統とそれを生みだす風土があるからでしょう。

――最後に読者に伝えたいことがありましたらお話し下さい。

對馬:本書の主人公バウマンはじつに波乱万丈の人生を全うしました。絶望の人生を立て直して平和運動に参加し、さらに復権活動に邁進するのは70歳になろうというときです。「尊厳なくしてひとは生きられない」を胸に、その活動は20年以上も続きます。彼の強靭な生き方は誰もができることだとは思いません。

しかしバウマンという人間の不屈の生き方に焦点をあてた本書から、現代において勇気をもって生きる意味をぜひ感じとってほしい。これほど不安に満ち溢れ、また同調圧力のつよい今という時代において、老若を問わず誰もが生きる苦しみを背負っているからです。

對馬達雄(つしま・たつお)

1945年青森県生まれ.東北大学大学院教育学研究科博士課程中途退学.教育学博士(東北大学,1984年).秋田大学教育文化学部長,副学長等を歴任.秋田大学名誉教授.専攻・ドイツ近現代教育史,ドイツ現代史.
主著『ヒトラーに抵抗した人々』(中公新書,2015年),『ディースターヴェーク研究』(創文社,1984年),『ナチズム・抵抗運動・戦後教育――「過去の克服」の原風景』(昭和堂,2006年),『ドイツ 過去の克服と人間形成』(編著書,昭和堂,2011年).訳書『反ナチ・抵抗の教育者――ライヒヴァイン1898―1944』(ウルリヒ・アムルンク著,昭和堂,1996年)など.