2020 08/07
著者に聞く

『百年戦争』/佐藤猛インタビュー

百年戦争のヒロイン、ジャンヌ・ダルクの騎馬像はフランス各地に建つ。左はオルレアンのマルトロワ中央広場、右はパリのピラミッド広場。

フランスを主戦場として英仏が攻防を繰り広げた百年戦争(1337~1453)。誰もがその名を知る戦いだが、肝心の中身となると「たしかジャンヌ・ダルクが活躍したはずだけど……」といった断片的知識にとどまるのではないだろうか。『百年戦争 中世ヨーロッパ最後の戦い』でこの長くて複雑な戦いを描き切った佐藤猛さんに話を聞いた。

――先生のご専門は。

佐藤:ヨーロッパ中世が終わる頃、14~15世紀フランスの政治史・制度史です。パリを拠点とする王権が大小様々な地方をどのように治めたかについて研究してきました。諸侯と呼ばれる、王に次ぐ地位や支配権を持った貴族層に関心があります。各地に代々根を張る諸侯とともに、時代を経るごとに王族出身の諸侯が多くなります。

イングランド王家は11世紀から13世紀にかけてフランス北西部からブリテン島に渡っており、もともとはフランス王に臣従する諸侯家門の一つでした。両王の関係は、国際関係と見えなくもないですが、フランス王国の中央と地方の関係とも捉えることができます。その関係のもつれが百年戦争へと発展します。

――今回、執筆依頼を受けてどのように感じましたか。

佐藤:ヨーロッパ中世は百年戦争の時代に終わるといわれています。100年強のあいだで英仏は大きく変貌しました。戦争前、主従関係を結んでいた英仏両王ですが、戦争終結後のフランス王は絶対王政の手前におり、イギリスでも薔薇戦争(1455~85)を経て集権化が進みました。また戦前、ダンテの『新曲』が先鞭をつけたルネサンスは、大ペストの時代に現世を謳歌するボッカッチョ『デカメロン』を生み、終戦直前にダ・ヴィンチが誕生します。長く変化に富んだ時代をいかに伝えるべきかと、何か重いものを感じていました。

――執筆にあたって苦労した点は。

南仏アヴィニョンに残る教皇宮殿跡と著者

佐藤:「百年」と言いましても、英仏の正規軍が絶えず戦っていたわけではありません。ちょくちょく休戦協定や平和条約が結ばれています。戦闘期間は意外と短かったため、戦闘や戦場だけの記述ですと、時代と地域のバランスが悪くなります。戦争の歴史的意義を論じることもできません。そこで背景の記述が重要となりますが、これをどの程度盛り込むかで苦労しました。戦争の原因だけでなく、兵法や正戦思想、のちに黒死病と呼ばれるペスト大流行、税制度、ローマとアヴィニョンへの教会大分裂と再統一、王の病や内戦、ビザンツ帝国からの十字軍要請など。百年戦争は様々な現象と絡んでおり、書き漏らした出来事がなければよいのですが……。

――新型コロナウイルスが猛威をふるい、スペイン風邪流行など過去の事例から教訓を得ようとする動きが見られました。中世のペスト大流行はどのような影響をもたらしたのでしょうか。

佐藤:色々あると思いますが、長・短の影響を分け、関連づけて考えることが大事だと思います。例えば1348年、ペスト感染者の大量死は短期的には都市と農村に人手不足と物価騰貴をもたらしました。中期的には、地代収入の減少や廃村など領主支配に打撃を与えます。しかし長期的に見ると、人口減少は1300年頃から始まっていました。ペストがこれを加速させます。そうした中で感染者の罪の告白を聴き、臨終に立ち会った多くの司祭が命を落とします。ここで、古代以来の教義を継承してきた聖職者の世代交代が起こり、イギリスではウィクリフなどの教会批判が登場しました。その流れはのちに宗教改革となって爆発します。

――ジャンヌ・ダルクは非常に有名ですが、当時から人気があったのでしょうか。

1979年、処刑地ルーアンに建てられた聖ジャンヌ・ダルク教会の祭壇

佐藤:たしかに、攻囲戦を戦ったオルレアンでは解放祭が始まり、処刑地のルーアンでは彼女の復活の噂が流れます。同時代のパリにも多くの情報が伝わりました。しかし、時が経つと称賛や崇拝ばかりでなく、イギリスの劇作家シェイクスピアやフランスの啓蒙思想家ヴォルテールは彼女を粗野で無知蒙昧な乙女と描きます。

そうした状況はフランス革命期に一変しました。革命期のある議員は、ジャンヌが生きていたらバスティーユの襲撃に参加しただろうと述べ、ナポレオンは世論を味方につけるために彼女をフランス独立の象徴として扱います。その後、ジャンヌは共和政や愛国心が語られるたびにそのシンボルとして担ぎ出され、現在の人気と知名度につながります。

――個人的に思い入れのある登場人物がいましたら。

佐藤:フランス王のシャルル7世(在位1422~61)でしょうか。フランスが百年戦争に勝利した時の王です。王家の5番目の男子として生まれたので、将来の王としては期待されませんでした。兄たちの死によって王太子になりましたが、翌年パリを追われ、その後フランス王位はイングランド王家に渡ります。ジャンヌに見守られて王に即位しましたが、彼女の処刑後は異端者に助けられた王だとささやかれながらも、軍を率いて英軍を追い詰めました。そして百年戦争への勝利後、シャルルはジャンヌの復権、つまり異端宣告の取消に成功します。この時、彼は自身の半生をどう振り返ったのか。とても気になっています。

――今後の取り組みのご予定をうかがえますか。

アンジュー地方の中心都市アンジェに建つマルグリット像

佐藤:戦争終結については、英軍が1453年、北仏のカレーを除いて全面撤退したと英側から説明されています。ここに至る過程を、改めて仏側から検討し始めています。シャルル7世はその10年ほど前に休戦協定を結んだ時、自分の娘ではなく、義弟アンジュー公の娘マルグリット(1430~82)をイングランド王に嫁がせました。戦前より英仏王家間で慣例だった王女の嫁入りではなく、用意された持参金も少なかったことは、英仏関係の重大な変化を示すと考えています。ちなみに、マルグリットは渡英時、長い船旅の疲れで体に発疹が出るほど体調を崩しますが、百年戦争の終盤から薔薇戦争では、夫ヘンリー(6世、在位1422~61、70~71)と息子エドワード(1453~71)を力強く支えます。

今回の著書では国境・臣民・祖国など、大きな構造面から百年戦争を捉えましたが、今後はシャルルやマルグリットといった個人を通して戦争を見たいと考えています。

佐藤猛(さとう・たけし)

1975年、北海道生まれ。北海道大学文学部西洋史学専攻卒業。同大学大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。日本学術振興会特別研究員(PD)、アンジェ大学文学・言語・人文学部客員研究員などを経て、現在、秋田大学教育文化学部准教授。著書に『百年戦争期フランス国制史研究――王権・諸侯国・高等法院』(北海道大学出版会,2012年)。