2020 06/12
私の好きな中公新書3冊

学び続けるための杖/牟田都子

瀬田貞二『幼い子の文学』
笹原宏之『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』
長谷川鑛平『本と校正』 

目録の校正が好きだった。

出版社で校正者として働きはじめてからの数年間は、雑用のような仕事がほとんどだった。書籍を一冊任されるほどの実力もないから当然だ。その中で、年に一度改訂される新書の目録の仕事はひそかな楽しみだった。品切れになったタイトルを外し、新たに刊行されたタイトルを追加する。書名、著者名、ISBN、定価といった各項目を現物と見比べ、誤りがないか確認する。

時間のかかる地道な作業だが、目録には、幕の内弁当のように情報が詰め込まれたオンライン書店のwebページにない魅力があった。わずか数行の内容紹介が想像力をかき立てる。著者別・分野別の索引は、今後自分がいかなる学びの入り口に立とうとも、先人の遺した知の遺産を杖として歩むことができるのだという安心感を抱かせてくれる。巻末の既刊全点リストが年々伸びてゆくのは「知」が蓄積されてゆくさまを可視化しているようだった。

いまでこそ新書と銘打つ叢書は多いが、既刊が2000点を超える歴史を持つとなれば限られてくる。1962年創刊の中公新書もそのひとつである。

『幼い子の文学』は『ナルニア国ものがたり』『指輪物語』をはじめ数々の児童文学の翻訳で知られる著者が、最晩年に行った講義をまとめた一冊。知名度に反して人前で話すことは「まず皆無」であったという著者が「驚くべきことに」引き受けた講座は、児童図書館員を対象としたものだった。自宅の一室を「ささやかな図書館」として開放し、「児童図書館の充実を望んで」いたという著者には、図書館の未来への思いがあったのだろう。叶うなら彼の図書館論をもっと読んでみたかった。

仕事柄避けて通ることのできない「漢字」には苦手意識があった。正しく理解していないという後ろめたさがあったのだ。たとえば東京メトロ有楽町線の「麴町駅」では、構内に「麴町」と「麹町」という2種類の表示が混在している。「麴」と「麹」、どちらが「正しい」駅名なのだろうか。

『謎の漢字』は「正しい漢字と間違った漢字がある」というのは「思い込み」だという。「正しさ」とは「どこかで誰かが決めたもの」にすぎないというのだ。そして、先のような混乱が起きる理由を、パソコンやスマートフォン上で漢字を使うために制定されたJIS(日本産業規格)成立の歴史を追いながら解説していく。自らもJIS漢字や常用漢字の制定・改正に携わってきた著者の論述には、膨大な文献調査に裏打ちされた説得力がある。

長谷川鑛平『本と校正』の帯には「中央公論社前校閲部長」とある。中公新書創刊の翌年に、同職を定年で退いているからだ。新たな叢書の立ち上げを見届けて退職、今度は書く側に回った。

50年以上前の本だが、いま読んでも古びていない。校正といえば原稿と校正刷(ゲラ)を見比べて原稿通りにゲラの誤りを正す「引き合わせ」が主だった時代に、ゲラを通読して疑問や指摘を出す「素読み」の大切さを説き、複数の視点から内容を検討するために「目を変える」重要性を述べる。「機械的」な統一に対しては「文章というもの、あるいはその文字づかい、漢字づかい、かなづかいを、或る程度的確に感じわけるだけの感受力と包容力は、身につけてほしい」と警鐘を鳴らす。

校正者は「謙虚でなければならない。いかなる場合にも、公平を失ってはならない。しかし、卑屈になることはない」とはまさにこの職業の核心をとらえた言葉だと感じる。「昨今は、校正刷りになってから、それをまるで草稿かなぞのように直してくる人が多い」というぼやきにも、時代を越えて共感する同業者は多いのではないだろうか。巻末に黒/朱2色刷の「校正練習問題」付。

牟田都子(むた・さとこ)

1977年、東京都生まれ。校正者。関わった本に『本を読めなくなった人のための読書論』(若松英輔、亜紀書房)、『ブスの自信の持ち方』(山崎ナオコーラ、誠文堂新光社)、『ブードゥーラウンジ』(鹿子裕文、ナナロク社)、『NHK出版 学びのきほん はみだしの人類学 ともに生きる方法』(松村圭一郎、NHK出版)、『ヤクザときどきピアノ』(鈴木智彦、CCCメディアハウス)ほか。共著に『本を贈る』(三輪舎)。2020年に、校正についての単著を亜紀書房より刊行予定。