- 2020 02/13
- 私の好きな中公新書3冊
加藤秀俊『社会学 わたしと世間』
長谷川堯『建築有情』
佐伯彰一・芳賀徹編『外国人による日本論の名著 ゴンチャロフからパンゲまで』
書棚の中公新書の背表紙を眺めると、名詞のみの潔いタイトルが数多く並んでいることに気づく。本を売ることを狙いとしたアジテーション風のタイトルが付けられることが多々ある新書業界の風潮とは一線を画し、1語か2語による名詞のみの潔いタイトルの中公新書は毅然としている。そこからは、各々の分野やテーマの定番たらんとする気概が感じられる。
そのような硬派な中公新書のなかで、今回選んだ3冊は異色かもしれない。どれも軽妙で独特な「距離」感をまとっている。その「距離」感は、社会学
1冊目は、加藤秀俊の『社会学』である。社会学は、「連字符社会学」と呼ばれるように、都市社会学、家族社会学、環境社会学など、〇〇社会学というかたちで、対象ごとに制度化されている。
ほかには、〇〇に人物名が入るタイプもある。見田宗介であれば、見田社会学のように。こちらは、学会などからは「距離」をとり、独特な切り口から紡ぎ出される、名人芸的な社会学で、時代診断を得意としている。書店に並ぶ本や雑誌などで発表される機会が多いため、専門外の人にとっての社会学者のイメージはこちらが過半を占めるだろう。
加藤氏は、これまで『空間の社会学』『「東京」の社会学』『食の社会学』など、「〇〇の社会学」というタイトルを持つ、数多の著作を出版してきた。本書では、私小説というジャンルがあるように、加藤氏なりの「私社会学」、すなわち加藤社会学の語り口に触れることができる。加藤社会学は、業界用語から「距離」をとり、世間話の延長として、生き生きとした社会という「現実」を語る。連字符社会学とは異なり、親しみやすい口語体の文章のなかで、社会学をはじめとする古典のエッセンスが軽やかに紹介される。その一方で、「曖昧な社会」を捉えようとする「社会学の曖昧さ」についても考えさせられる。
2冊目は、長谷川堯『建築有情』。「有情」は、「無情」の対義語だ。長谷川氏は、「建築は単に物質の集成体であるだけでなく、そのなかに作る者のあるいは使う者のそれぞれの立場から寄せられる感情とか内面的脈動の相関物である」という意味で、「建築有情」という言葉を用いている。
本書は、文化財などを除き、「現に実際に使われているような、いわば生きた建築そのもの」への関心が低いという前提に立ち、日本の近代建築史のほとんどが「作る側」から書かれてきたことへの問題視から出発している。実際、建築史や建築論の多くは、建築の教育を受けてきた専門家、つまり「作る側」の視点から書かれ、世間における建築への関心の低さや建築の無名性、すなわち一般の人びとの建築への「距離」の遠さが意識されることは滅多にない。
それに対し、文学部卒であり、いわゆる建築の学校教育を受けていない長谷川氏は、建築への「距離」の遠さを織り込んだうえで、「生きた建築」の機微を、目次にもなっている「開口」「暖炉」「硝子」などのエレメントやディテールの記述を並べることによって、まるで1冊の本がひとつの建築として立ち上がるように描いている。
「作る側」の論理を軽視し、「使う側」に安住するのではない。むしろ、「作る側」と「使う側」の両極を行き来する。それにより、本書では、物質の集成体の次元を超え、建築が主人公となって語りかけてくるような読書体験を味わえる。
3冊目は、『外国人による日本論の名著』を挙げたい。中公新書は、桑原武夫編『日本の名著』を第1弾として、1962年に創刊された。『日本の名著』が明治から戦中までの日本人――福沢諭吉から丸山眞男まで――によって書かれた「近代の思想」50冊を集めた解題であるのに対し、本書はその反転バージョンだといえる。
開国前夜から日本が経済大国となった1980年代までの、外国人によって書かれた「日本論」42冊の解題であり、書き手の国籍、性別、分野は多岐にわたる。それぞれはコンパクトだが、時系列で並べられることで、完全な外側でも内側でもない異邦人の視点からみた日本社会像が、時代や書き手ごとの日本との「距離」によって、さまざまな相貌を呈して浮かび上がってくる。
原著や訳書への導きの糸として読むことはもちろん、本書以降の時代における外国人による日本論を付け加えるとすれば、と想像を膨らませながら読むのも面白いだろう。私の場合、本書の枠組みを自分の研究対象に置き換え、「外国人による東京論の名著」の系譜をまとめてみたい誘惑にかられる。