2018 12/26
著者に聞く

『日本の公教育』/中澤渉インタビュー

教育をめぐる議論は、ややもすると感情論や自身の経験談などに陥りがちだ。そのため、日本の教育システムにどのような課題があるのかは見えにくくもなっている。また、不正入試と文部科学省のスキャンダルなどで、教育行政への不信感も高まっている。この錯綜した状況について、著書『日本の公教育 学力・コスト・民主主義』の内容も踏まえながら、教育社会学者の中澤渉さんに話をうかがった。

――前著『なぜ日本の公教育費は少ないのか』(勁草書房)は、副題の通り「教育の公的役割を問いなおす」狙いがあったと思います。次作となる本書の執筆動機をお教えいただけますか。

教育関係者の間では、日本の教育の私費負担が重いことはよく知られていました。「公教育費を増やせ」という主張も、昔からあります。しかし、「公教育費を増やせ」と言い続けて変わらなかった結果が、今の状態です。だから、なぜその状況は変わらなかったのかを考察する必要があると思いました。

公教育費負担の対GDP比や、全財政に占める比率は少ないことが指摘されているのに、文教関係費の増加や、大学進学への経済援助を支持する人々は、国際比較をすると相対的に少ないのが日本の特徴です。その理由の一つは、教育の公共性という視点が弱いからだと思います。さらに、実際に教育費を負担している当事者を除けば、この問題への関心も薄いのかもしれません。

このことから、学校教育の社会的意義を見直す機会が必要なのではないか、と考えました。私たちは学校教育から一定の利益を受けているはずですが、それに自覚的ではありません。だから過剰な学校叩きが行われ、不要な改革が進行してしまう。日本の教育システムが持っていた既存のメリットすら破壊されてしまうのではないか、という危機感もありました。そのため教育システム全体を俯瞰して考察できるような本を出せれば、と思ったのです。

――教育社会学という分野にどうして関心を持ったのか、その理由をお教えください。

一般に教育を専門にする人は、学校が好きだとか、教育を通して役立ちたいなどと考えている人が多いように思いますが、私の場合、あまりあてはまりません。

本書の執筆動機と反対になるようですが、私はもともと、学校的なものだとか、大仰な教育論に馴染めず、学校や教育に対して、冷めた目で見ていました。当初は、好きでもない学校や教育を専門にしようとは考えていませんでしたが、教育を社会現象として捉えて、実証分析を行う教育社会学の存在を知り、この分野であれば自分のもつ違和感を言葉にできるのではないかと考えました。ですから、私の関心は、あくまで教育にかかわる現象の実証的理解であって、今後の教育のあり方を論じることにはありません。本書のはしがきでも触れていますが、そのスタンスを共有せずに本書を手にすると、多分肩透かしを食らった読後感が残ると思います。

社会制度や組織は、正負それぞれの顔を持っています。私の出発点は、教育システムの負の側面への着目でしたが、単に否定すればいいというものでもありません。本書では、バランスをとる意味でも、既存の教育システムの社会的機能を見直すことに重点を置いています。

――本書ではエビデンスに注目が集まり、教育政策にも影響が大きくなっていることが論じられています。今後この動きはどうなるとお考えでしょうか。

政策がエビデンスに基づいているのか怪しい、というのは教育に限った話ではありません。ただ、教育は誰もが経験しているので、自らの経験が真実と感じられるし、また意見も言いやすいのでしょう。それで教育の専門ではないが、社会的影響のある人が審議会などに入り、個人的経験や思いつき的な意見を発して、それが政策に影響を与えてしまう。そういう形で、専門的な知見が軽視されやすい、という側面はあるかもしれません。

とはいえ、最近は実証分析に基づく研究が多く出版されていますし、研究の進歩は目覚ましく、エビデンス自体の質も上がっているので、方向性としては「エビデンス重視」で進むでしょう。ただ、統計的分析が進歩しても、それで教育問題が解決するわけではありません。

分析結果は、今後の教育のあり方や政策的判断の判断材料にはなり得ますが、あるべき教育の姿を決めるわけではありません。望ましい教育は何か、という問いは、科学的な解釈とは別次元の問いです。現実の教育は、価値判断と切り離せません。ですから、エビデンスばかり先行して、教育の方向性を考える議論まで「科学的ではないから」といって軽視されてはなりません。その点で、私は思想、哲学、歴史などの人文科学の重要性は、むしろ高まっていると感じます。

またエビデンスとなるデータをとって、分析すること自体、コストがかかります。最近は、エビデンスが流行と化していて、よくわからない調査も跋扈し、現場を疲弊させています。教育は、資源の裏付けのないまま、理想論先行で改革に踏み切り、現場が混迷に陥ることがよくありますが、できる範囲のことを無理なくやる姿勢も重要だと思います。

――第5章では、教育と日本型雇用システムにも触れています。現状の問題をご指摘いただけますか。

経済界で発生した問題の原因は教育システムにあり、教育改革をすれば解決するのではないか、という発想は、アメリカにおいて顕著で、教育福音(education gospel)とよばれています。社会的背景は異なりますが、日本も似たようなところがありますね。

バブル崩壊以降、日本経済は不調続きで、日本的経営・雇用システムの限界はあちこちで指摘されています。もちろん、日本の教育にも問題はたくさんあります。ただ、教育のパフォーマンスについていえば、公費の投入が少ないことを鑑みても、日本は優れているというエビデンスを無視すべきではありません。もちろん、そこで測られているパフォーマンスが、産業界で必要な能力をどこまで反映しているのか、そもそも産業界の意向を反映させるべきなのか、という問いは残りますが、少なくとも示されている結果は、日本にとって悪いとは言えません。

一方で、日本企業の生産性は国際的にも低く、以前まで世界をリードしてきた企業の経営不振、不正行為などの不祥事がしばしば報道されています。私には、高度なパフォーマンスを保持しているはずの人材を生かせないのは、むしろ経営の在り方や、日本企業・社会の組織文化にあると考えるのが、自然な発想に思えます。そこへの真摯な反省や分析を後回しにして、教育改革を行っても、問題が解決するとは思えません。

さらに言えば、学校教育で、社会問題すべてを解決できるわけではありません。自分が学生であった何十年も前の学校や大学の状況を前提に、無責任な提言を行う人が後を絶ちませんが、産業界が変化しているように、教育現場も変わっているのです。実情を踏まえない無責任な提言は、無用な混乱を招き、これまであった日本の学校の長所すら損なうことになりかねません。

――2018年は、文部科学省で事件やスキャンダルもありました。現在の教育行政をどのように見ておられますか?

教育現場はずっと改革続きで、文科省は改革することで自分の存在意義をアピールし、財源確保しようとしているのか、改革が自己目的化しているように見えます。その点で、教育行政の問題は、文科省だけに起因するわけではありません。

いずれにせよ、教育改革の議論は、新しいことをしているように見えて、以前からある議論を蒸し返しているだけ、ということがよくあります。入試制度改革の議論が典型的です。何か特別な思いを持った人が政策立案に絡んで突飛な提案をし、その検証を行うこともなく混乱しているうちに、また別の教育に物申したい人が出てきて何かする、という繰り返しです。

新しい制度が導入されれば、その定着と、成果が出るまでには時間がかかります。しかし、それを待つこともなく、次々に何かを変えていて収拾がつかなくなっています。今の大学、特に国立大学は、脆弱化する財政的基盤に、そういう混乱が追い打ちをかけて、衰退の一途を辿っています。その中で、あのようなスキャンダルが出てしまうと、やっていられないと現場の不信感が高まるのは当然でしょう。

前著でも示しましたが、日本政府への国民からの信頼度は高くありません。文科省に限らず、ここ最近の政府の動きは、国民から信頼を得ようという意志があるのかも疑わしく見えます。

――『日本の公教育』と併読すると良いような一般書はありますか?

教育福音を批判するものとしては、本書でも引用しているラバレー(D. Labaree)の翻訳が出ましたので、それがお薦めです(『教育依存社会アメリカ 学校改革の大義と現実』岩波書店・2018年、倉石一郎・小林美文訳、なお、著者の表記は『日本の公教育』では「ラバリー」としている)。

もう少し手に入れやすく、読みやすいものとしては、内田良(2015)『教育という病-子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』(光文社新書)があります。

――今後の研究テーマやご関心についてお教えください。

教育費の負担に関する人々の意識は、何に由来するのか、これをもう少し丁寧に、国際比較や歴史をたどることで明らかにしたいと思っています。よく教育改革批判において、新自由主義のもとで自己責任論が浸透して問題だ、というストーリーが語られますが、私は若干懐疑的です。

というのも、日本の教育現場では、個人の才能の違いは大した違いはなく、努力すればできるようになるという能力観があって、成績の違いも、本人の努力の結果、つまり自己責任だと、長い間言われ続けてきました。これは一つの自己責任論だと思います。この能力観が、戦後日本の教育の発展に果たした影響については、中公新書の苅谷剛彦(1995)『大衆教育社会のゆくえ 学歴主義と平等神話の戦後史』をご覧いただくといいでしょう。

この能力観や平等観の果たした機能には功罪ありますが、いずれにせよ、教育を個人的なものとみなすか、公共的なものとみなすかという教育観とも深く関わっていると考えています。こうした教育に対する人々の見方の由来を、突き詰めてみたいというのが今後の課題です。

中澤渉(なかざわ・わたる)

大阪大学大学院人間科学研究科教授。1973年埼玉県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業、東京大学大学院教育学研究科博士課程単位取得退学。博士(教育学)。東洋大学社会学部准教授、大阪大学大学院人間科学研究科准教授などを経て、現職。
著書に『入試改革の社会学』(東洋館出版社)、『なぜ日本の公教育費は少ないのか』(勁草書房、サントリー学芸賞)、『日本の公教育』(中公新書)、共編著に『教育と社会階層』(東京大学出版会)などがある。