- 2018 11/14
- 著者に聞く
日本における国際政治学の最大の巨人・高坂正堯(1934~96)。広田弘毅、田中角栄、大平正芳、中曽根康弘など、歴代首相の評伝を描き、高い評価を得てきた服部龍二さんが、今回は研究者の生涯に挑んだ(『高坂正堯―戦後日本と現実主義』)。著者自らも京都大学在学時代に授業を受けたことがある高坂について、どのような動機と気持ちで、そして高坂の魅力とこの本を通して何を知って欲しかったかを聞いた。
――高坂正堯の評伝執筆の動機は何ですか。
服部:執筆の着想は、『高坂正堯著作集』全8巻(都市出版)が出された頃、つまり2000年頃からです。
直接のきっかけは、ここ数年、佐藤栄作、田中角栄、大平正芳、中曽根康弘などの政治家を研究するなかで、高坂先生が多く登場してきたことです。特に、2017年に刊行した『佐藤栄作』(朝日選書)には、高坂先生が頻出します。高坂先生は佐藤のブレーンであっただけでなく、ノーベル平和賞の推薦者でもありましたから。
初めて高坂先生の本を読んだのは高校生のときで、『国際政治』(中公新書)でした。平沼騏一郎内閣の「複雑怪奇」声明というミクロな事象から説き起こし、力の体系、利益の体系、価値の体系という3つのレベルから国際政治を分析する文体や構想力に引き込まれました。「常識の数だけ正義はある」といったアフォリズムも印象的でした。
――執筆にあたって最も苦労したことは、また部分はどこですか。
服部:高坂先生の著作で言うと、『古典外交の成熟と崩壊』ⅠⅡ(中公クラシックス)です。とりわけ、「崩壊」についての評価が難しかったです。私はヨーロッパ外交史の専門家ではありませんし、高坂先生も「古典的勢力均衡体系の終りについて語ることは容易ではない」と書かれています。また、世界的な国際政治理論の潮流のなかに高坂先生をどう位置づけるのかも、苦労しました。最も書きにくかったという意味では、高坂先生が早すぎる死を迎える終章です。手を動かせないような感覚に何度も陥りました。
高坂先生をよく知る大家が多くいらっしゃるなかで、本書を刊行するのは僭越ではないかとの思いがいまでも残っています。他方で、仮に私が高坂先生のゼミ生だったら、研究対象との距離感や客観性が失われることを危ぶんで、評伝を執筆することはなかったのかもしれません。
――今まで幣原喜重郎、広田弘毅、田中角栄、大平正芳、中曽根康弘、佐藤栄作と、服部さんは評伝を描いてきました。評伝の執筆で最も気をつけていることは何ですか。
服部:複合的な視点を心掛けることです。対象となる人物を内面から描きつつも、時に突き放し、立場の異なる者からの視点を交えるようにしています。
『高坂正堯―戦後日本と現実主義』の場合でいえば、「理想主義者」との論争はもとより、「現実主義者」も一枚岩ではないことに紙幅を割きました。「理想主義者」、「現実主義者」、さらにはメディアや世論を含めた大きな知的潮流のなかに、高坂先生を位置づけるようにしたつもりです。
また、これは評伝に限りませんが、特別な知識がなくても読める文章になるまで、何度でも推敲することに努めています。読者の心に残るようなエピソードや会話をちりばめることもあります。
――政治家ではなく、同業者である研究者を描くうえでの違い、苦労はどういったとこでしたか。
服部:政治家と異なるのは、学者の場合には政策にかかわったとしても、それは人生のごく一面にすぎないことです。
研究者の評伝で分析の軸となるのは主著であり、メディアや論壇での立脚点も重要です。高坂先生は、テレビと政治の関係を考えるうえでも先駆的な方でした。それ以外に教育者としての顔もありますし、学問や大学の歴史にも触れる必要があると思います。高坂先生には、父、高坂正顕への「共感的反感」もありましたね。
――服部さんは、1980年代末から90年代初頭の京都大学在学中に、高坂さんの授業を実際に受けています。そのことは本書でも触れています。今回、文献やオーラルヒストリーなどの資料だけでなく、ご自身が体験したことを描いたことで、新たに気付いたこと、苦労、問題点などはありましたか。
服部:高坂先生の本は学生時代にすべて読んでおり、その後も愛読していました。あらためて今回の執筆に際して目を通してみますと、理解が至っていなかったところや新たな示唆に多く気づかされました。
とりわけ湾岸戦争の頃、私は高坂先生の国際政治学と外交史を受講していたのですが、「日本の危機」にあそこまでの義憤を抱いていたとは、当時はわかりませんでした。また、日本が「二流半の国家」になりかねないという最晩年の憂慮は、予言的ですらあります。と同時に、高坂先生の時評が、あたかも現在を論じているかのように感じることもありました。
例えば、1990年代のクリントン政権について、「アメリカは制裁をちらつかせながら、強引な形で自己主張をおこなった」、「アメリカの政治の質の低下を感じざるをえない」と綴ったくだりです。
――今回、高坂正堯の生涯を描きましたが、この本を通して最も読者に伝えたいことは何ですか。
服部:評価を端的に記したのは、「高坂の死は、総合的な魅力ある学問としての国際政治学の死であった」、「高坂がオリジナルな世界を持ち、比類なきスケールを備えるオンリー・ワンの存在であったことに異論は少ないと思われる」という終章の一節です。
これからも高坂先生は、研究の対象となり続けうる数少ない国際政治学者だと思います。かつて「現実主義者」は批判にさらされることが多かったわけですが、今後はむしろ、高坂先生をいわば神格化するような傾向も出てくるかもしれません。
『高坂正堯―戦後日本と現実主義』では、功績だけでなく、佐藤内閣のブレーンとしての対中方針案が具体性を欠いたことをはじめ、予測の間違い、憲法論の変遷などもたどりました。その足跡をできる限り公平に扱うように努めたつもりです。
――服部さんの執筆テーマが、戦前から戦後、さらには同時代に対象を移しています。それはなぜでしょうか。
服部:外務省外交史料館などで、史料の原本が公開されるようになったことが大きいです。諸先生方のご尽力により、佐藤首相の首席秘書官だった楠田實や大平正芳など、個人文書が使えるようになったことも、非常にありがたかったです。
また、同時代史については、情報公開請求ができるようになりました。私の関心自体は、戦前、戦後、同時代ともに持続しています。現代史を書いているからといって、近代史に関心が薄れるということはありません。
とりわけ戦間期については、いずれ論文集をまとめたいと思っています。出版社が見つかれば、ですけれども(苦笑)。
――ほぼ毎年発表される旺盛な執筆意欲の源は何でしょうか。
服部:自分では、まだまだ不十分だと感じています。特に、外国語での発信が不足しています。英語では、かろうじて1冊、拙著『外交ドキュメント 歴史認識』(岩波新書)が2019年に英訳される予定です。
また、これからは次世代の研究者を支援し、後世のために史料や聞き取りの記録を残したいと思っています。その意味で想い起こされるのは、静岡文化芸術大学に所蔵されている高坂文庫です。そこには、高坂先生の研究費の使途に関する書類があります。
それを読むと高坂先生は、若手研究者をアメリカの史料調査に送り出していることがわかります。ニューカマーを支援し、日米間の知的対話を進めたかったのでしょう。高坂先生は、後学の方々にさりげなく配慮をしながらも、自らのスクール(学派)を形成することは嫌っていたのではないかと思います。
――今後のテーマついて教えて下さい。
服部:年内に刊行されるのは、秋山昌廣/真田尚剛・服部龍二・小林義之編『元防衛事務次官 秋山昌廣回顧録――冷戦後の安全保障と防衛交流』(吉田書店)です。
いま執筆しているのは、「30年ルールの起源と外交記録公開(仮)」という論文です。2019年3月刊行の『外交史料館報』第32号に掲載予定でいます。また機会がありましたら、是非、よろしくお願いします。