2018 07/12
著者に聞く

『戦国日本と大航海時代』/平川新インタビュー

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗らお馴染みの英雄たちと、アジアに勢力を広げてきたスペインやポルトガルなどヨーロッパ列強との虚々実々の駆け引きを活写した『戦国日本と大航海時代』。日本史と世界史が交差する、ダイナミックな内容が話題を呼び、版を重ねている。著者、宮城学院女子大学学長の平川新さんに話を聞いた。

――戦国時代の日本と大航海時代のヨーロッパ、言われるまで同じ時代だと気づかない人もいるかと思います。世界史と日本史が交差する本書のテーマに取り組んだきっかけを教えてください。

平川:10年前に出版した『開国への道』(全集日本の歴史第12巻、小学館)でロシアに漂流した日本人のことを書きました。およそ10年のロシア生活をしていた大黒屋光太夫や石巻の若宮丸乗組員がロシア使節であるラクスマンやレザーノフに送還されてきたことは、よく知られています。その漂流記を読んでいるうちに、日本は「インペラトルスコイ」(帝国)と呼ばれているという一文が共通してあることに気づきました。驚きました。

1853年にペリーが持参した将軍宛のアメリカ大統領の国書にも、‘The Empire of Japan ’(日本帝国)とありました。それで、なぜ日本は帝国なのかということを追いかけていくうちに、帝国表現が出てくるのが豊臣秀吉による朝鮮出兵(1592~1598年)の直後からだということがわかりました。

しかもフィリピンのスペイン人総督は、秀吉がマニラに攻めてくるのではないかと怖れていました。秀吉は2度の朝鮮出兵で30万人の軍隊を動員していましたから、日本の軍事力の強大さに恐怖を抱いたのです。

秀吉はフィリピン総督に対して、おまえたちがマニラの王たちを追い出して国を乗っ取ったことを知っている、日本も同じように征服しようとしている、怒りを抑えることができないと、憤激した書簡を送りつけていました。それだけではありません。スペイン国王に対して、わが言を軽視すべからずと伝えよ、とまで豪語していたのです。これにも驚きました。なぜここまで秀吉はスペインに対抗心を燃やしているのか、と。

それでスペインやポルトガルが中心となった大航海時代に関心が向くようになったのです。その結果、諸種の史料を読み解き関係づけるなかで、両国による世界征服事業への対抗的動きとして朝鮮出兵があった、という因果関係が見えてきたのでした。まさに世界史と日本史がクロスした瞬間でした。この着想を得たときは、さすがにうれしかったですね。

――本書では、秀吉と家康に並んで、先生の暮らす仙台の英雄・伊達政宗が大きく扱われています。天下人に並んで彼をとりあげた理由は何でしょう。

平川:仙台市史編纂事業で、伊達騒動や近世後期の藩政史などを担当していましたが、『慶長遣欧使節』編も担当することになって、政宗の動向を追いかけるようになりました。従来の研究で、支倉常長を大使としてスペインとローマに派遣した事跡は、かなり明らかにされていました。

しかし、家康が幕府領に禁教令を発布してキリスト教の排除を始めているにもかかわらず、なぜ支倉常長をスペイン国王とローマ教皇のもとに派遣したのか。しかも、それをなぜ家康と二代将軍秀忠が許可したのか。このあたりの事情を納得できるように説明したものは、残念ながらありませんでした。

当時の南蛮貿易は九州や堺などの西日本が中心でしたが、家康は江戸湾へのスペイン船やポルトガル船の来港を待ち望んでいました。しかし、江戸の人口はまだ少なかったために市場性が低く、四国沖や遠州灘を越えて江戸湾に向かうには難破のリスクがありました。だからなかなか来てくれませんでした。江戸よりもさらに北の伊達領は、もっと地の利が悪かったのです。

しかし宣教師からメキシコ貿易の可能性を聞いた政宗は、チャレンジ精神を発揮しました。家康はもちろん、他のどの大名もやらなかったヨーロッパへの使節の派遣を実行したのですから、その剛胆さはたいしたものです。

1613年の使節派遣当時は、まだ大坂に豊臣家が盤踞していましたから、家康は政宗が豊臣家と手を結ぶことを怖れたと思います。禁教令を出していたにもかかわらず使節派遣を認めたのは、こういう地政学的な力関係を政宗が巧みに利用したからでしょうね。そのあたりの政宗の知力と胆力はすごいと思いました。

以前に政宗の番組に出演したときにNHKのディレクターから、信長と秀吉と家康、それに政宗は視聴率をとれると聞いたことがありました。それならば、彼らの外交を軸に戦国から江戸時代への転換を描いてみると面白いかもしれないと考えてみたのです。

仙台市史では遣欧使節派遣をめぐる家康と政宗の関係しか書けませんでしたが、この新書では信長までさかのぼって検討しました。そうしますと、政宗の使節派遣がまさに戦国大名外交の頂点に位置していることが見えてきました。しかし、支倉常長によるメキシコ貿易の交渉は失敗しましたので、外交史研究のなかでは評価されていなかったのです。ところが、使節による交渉の失敗が徳川幕府による一元的外交権の掌握につながり、幕府による管理貿易(鎖国)の前提になったのです。いわば、戦国外交から徳川外交への転換点に位置するような重要な外交を政宗は展開していたのでした。それならば、なおさら秀吉・家康・政宗と並べて書かないといけないなと思ったということですね。

――本書は大きなテーマを大胆に読み解く内容でありつつ、史料にもとづいた丁寧な研究と感じます。また、先生は史料保存にも積極的に関わっていらっしゃいます。史料への思いやエピソードをお聞かせください。

平川:歴史研究は史料(文献資料や考古資料のほか、歴史解釈の素材となる諸種の材料)にもとづいておこなわれるのが基本です。歴史的事実の確認や発見のほかに、歴史的事実がもつ歴史的意味や意義についても、史料と史料をつなぎながら、事実関係を見極めつつ、論理を構築していきます。その解釈が多くの支持を得ると通説になっていきます。

歴史理論というのは歴史の動きを抽象化して筋道を立てるので、歴史解釈をわかりやすくする役割をもっています。グランドセオリーが魅力的なのは、そこにあります。でも、そのセオリーを維持するために捨象する歴史的事実もたくさんありますね。つまりその理論では説明できない歴史的事実は、理論からはずれた「例外」だとして排除されてしまうことが、しばしばあるのです。でも、その例外とされてきたものにこそ、グランドセオリーをひっくり返す要素があるのだと思います。そして、その根拠になるのが史料なのです。

グランドセオリーとまではいかなくても、先入観で史料を解釈してしまうことは少なくありません。たとえば本書で取りあげた豊臣秀吉の朝鮮出兵については、これまで、国内の領土が不足したからだとか、秀吉が発した惣無事令を海外にまで適用するためだとか、いろいろな理由があげられていました。できもしないことを無理にやろうとした誇大妄想だった、という理解も根強いものがあったと思います。

これまでの研究でも、フィリピン総督やインド副王に秀吉が宛てた書簡は参照されていましたが、これらを朝鮮出兵と関連づけた研究はありませんでした。非常に激烈な文言に満ちていますので、秀吉の頭がおかしくなったからだろうと思われていたのかもしれません。でも私は、頭がおかしいという先入観からではなく、素直にその激烈な書簡に驚きましたので、なぜ秀吉はかくもフィリピン総督やインド副王、そしてスペイン国王に対して挑戦的なのだろうかという疑問から出発しました。それが本書執筆のモチーフになっています。先入観や理論からではなく、史料と素直に向き合ったからこそ、新しい解釈を生み出すことができたのだと思います。

歴史研究とは別に、私はこれまで史料保全活動にも携わってきました。日本には数億点の歴史資料が未発見・未整理のままに眠っているといわれています。多くは江戸時代や明治時代に村役人を務めた旧家に保管されているのですが、これらが全部発見され歴史研究に活用されると、これまでの歴史解釈や歴史理論の多くはひっくりかえるのではないかと思います。いま通用している歴史解釈は、あくまで現在利用が可能な史料だけを材料にして論じられていますから、新しい史料によって新しい歴史的事実が次々に発見されれば歴史解釈が変わるのは当たり前なのです。そのためにも史料保全の活動は大事ですね。各地で積極的に取り組まれることが望まれます。

平川 新(ひらかわ・あらた)

1950年,福岡県生まれ.法政大学文学部卒業.東北大学大学院文学研究科修士課程修了.宮城学院女子大学助教授,東北大学教授などを経て,2005年から07年まで東北大学東北アジア研究センター長,12年から14年まで東北大学災害科学国際研究所所長を務める.14年より宮城学院女子大学学長.
著書に『伝説のなかの神――天皇と異端の近世史』(吉川弘文館,1993年),『紛争と世論――近世民衆の政治参加』(東京大学出版会,1996年),『近世日本の交通と地域経済』(清文堂出版,1997年),『開国への道(「日本の歴史」第12巻)』(小学館,2008年),『通説を見直す――16~19世紀の日本』(編,清文堂出版,2015年)など