2017 11/07
著者に聞く

『光明皇后』/瀧浪貞子インタビュー

(左)聖武天皇陵 (右)光明皇后陵:聖武天皇陵の右手奥、寄り添うように眠っている

秋の風物詩「正倉院展」が、今年も奈良国立博物館で開かれています。聖武天皇ゆかりの品を収める正倉院は、皇后である藤原光明子の願いがきっかけとなってつくられました。この光明皇后の生涯を、激動の天平時代の中に描いた『光明皇后 平城京にかけた夢と祈り』著者の瀧浪貞子さんに話を聞きました。

――まず、本書をお書きになろうと思ったきっかけは何ですか。

瀧浪:以前、光明皇后の娘孝謙(称徳)女帝と、夫の聖武天皇についての本を執筆したのですが、そのなかで、奈良時代を方向づけたのは光明皇后だったことを痛感したからです。光明皇后の考察を抜きにしては奈良時代を本当に理解したことにはならないと感じたことが、いちばんの動機です。
なかでも興味を持ったのは、光明皇后は1300年前の人ですが、長屋王の変、相次ぐ遷都、大仏造立など、動乱と混沌の日々のなかで、「女性としてどう生き抜いたのか」ということです。
また、光明皇后は両親、兄弟、夫婦、親娘がそれぞれ強い絆で結ばれた家族でした。それだけに苦労も多かったわけですが、その時々で何を考え、どのような判断を下したのか。ある意味では人ごとではない、今日にも通じる問題であり、光明皇后の生き様に親近感を覚えたのです。

――執筆の御苦労をお教えください。

瀧浪:私は小説家ではありませんので、光明皇后の生涯を歴史のなかで位置づけなければ意味がないわけです。
すなわち、奈良時代において光明皇后の存在と役割は何であったのか、また後世にどのような影響を及ぼしたのか、といった点を明らかにする必要があります。
しかし、ご承知のように、古代史の史料は限られており、しかもすべてが史実に基づいて書かれているわけでもありません。そうしたなかで虚実をふるい分けにして立場や役割を論証し、説得力ある理解を組み立てていくのは、やはり大変でした。

――本書で書き記された光明皇后の新しい姿、知られざる側面とはなんでしょうか。

瀧浪:これまでの大方の見方は、聖武天皇の在位中はむろんのこと、娘の孝謙女帝の時代でも、事実上の権力者は光明皇后であったとみるのが一般的です。また、光明皇后は、専権を振るった中国(唐)の則天武后そのものであるともいわれます。
しかし、それは光明皇后の立場を利用して権力の拡大をはかろうとした藤原仲麻呂によって作り出されたものです。光明子は仲麻呂と妥協点を模索しながら慎重に行動しています。この点は新しい皇后像として強調したいですね。

また幼い頃から聖武と家族同様に育てられた光明皇后は、聖武の良きパートナーであり、すべてを知り尽くした最大の理解者でした。そして聖武亡き後は、聖武の遺志にそって、娘孝謙が政争の火種とならないように、必死で守ろうとしています。今も昔も変わらない妻であり、母としての姿を見た思いです。

さらに言うと、本書では肉親の死という視点を切り口に考察をしていったのですが、そのなかで、即位せずに亡くなった息子の基王が、やはり即位せずに没した厩戸皇子(聖徳太子)と重ねられ、それが光明皇后を太子信仰へ向かわせたというのも、新しい発見でした。

――光明皇后はのちの皇后にくらべると、東は近江、南は吉野と、あちこちに出かけている印象があります。先生も光明皇后の足跡を追って旅されたと思いますが、どこが印象深かったですか?

やはり河内国の知識寺(大阪府柏原市)ですね。この寺の本尊を礼拝した光明皇后が、聖武に大仏造立を勧めたといいますから、皇后にとってはよほど印象が深かったのでしょう。
今は石標と、近くの石神社境内に礎石があるだけで、往時を偲ぶよすがはまったくありませんが、二人の原点だったのです。聖武が亡くなる直前、家族三人で参拝し、絆を確かめ合ったのもこの知識寺で、改めて光明皇后の存在の大きさを噛みしめました。

――瀧浪先生にとって、光明皇后とはどんな人物ですか。どんなところに共感し、どんなところが嫌いですか。

瀧浪:光明皇后は娘の孝謙に対して負い目を持ち、責任を感じています。それは自分と聖武天皇との間に夭折した基王以外に皇子が生まれなかったからで、そのために孝謙は女帝に立てられ、未婚を強いられたのでした。
とくに聖武没後は、その責任を一人で背負って行動したようで、その点、責任感の強い信念を貫き通す女性だったと思います。そして決して弱音は吐かなかった……。
唯一心底を吐き出したのが、「生前聖武の好んだ品々をみるにつけ、ありし日が思い出されて泣き崩れてしまう」という『国家珍宝帳』の願文ではないでしょうか。彼女の場合、肉親の死による悲しみは仏教・信仰への傾斜という形で昇華させています。性格や育った環境、置かれた立場とも無関係ではなかったでしょうが、直截的に喜怒哀楽を出せばまた違った生涯となり、歴史も変わった方向にいったような気がします。しかし、これも一つの生き方であったことは確かですね。

――光明皇后について書き終えたいま、ご関心のあることは何ですか。

瀧浪:持統女帝です。光明皇后は肉親の死を信仰に傾斜することで乗り越えていったのですが、持統の場合は、死によって精神が鍛えられていった、ある意味では正反対の女性です。ともに古代史を作った女性として関心があります。

瀧浪貞子(たきなみ・さだこ)

1947年、大阪府生まれ。1973年、京都女子大学大学院文学研究科修士課程修了。京都女子大学文学部講師等を経て、1994年、同大学文学部教授。現在、京都女子大学名誉教授。文学博士(筑波大学)。専攻・日本古代史(飛鳥・奈良・平安時代)。
著書『聖武天皇・光明皇后』(奈良県、2017)、『奈良朝の政変と道鏡』(吉川弘文館、2013)、『女性天皇』(集英社新書、2004)、『帝王聖武 天平の勁き皇帝』(講談社選書メチエ、2000)、『最後の女帝 孝謙天皇』(吉川弘文館、1998)ほか