2017 04/06
私の好きな中公新書3冊

テキストと「私」がふれあうとき/西田藍

竹内洋『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』
稲垣恭子『女学校と女学生 教養・たしなみ・モダン文化』
小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』

教養という文字を見るだけで、高ぶってくる。なにが高ぶるのか、それは、好奇心だ、といえば、なるほど格好良い気がする。しかし、あまり公にできないような、ドロドロした感情......いつのまにか溜まった澱のようなものも、高ぶりの中に同時に存在している。

しかし、触れてしまえば、たとえどのような人間であろうと受け入れてくれる。テキストは、著者からも離れて存在する。テキストと私。その交接の純粋さを愛している。中公新書は、その純粋さを保証する、信頼できるパッケージだ。

教養という言葉は憧憬の対象だったはずだが、なぜ、このように屈折した思いを抱くようになったのであろうか。私の青臭い内面をひもといてくれたのが『教養主義の没落』である。
日本の近代化とともに、帝国大学を頂点とした「教養主義」の成立し、没落していく過程が記されている。立身出世主義と不可分な形で、教養主義は発展したのだ。階級上昇のための武器としての、あくまで学校的な教養文化は、学ぶ男性を拒まない。こうした近代日本の側面を描いた本書は、ボリュームはたっぷりだが、学生の文化史としても楽しく読める。旧制大学もレジャーランド大学も未知の世界であろう、同年代にこそおすすめしたい。

戦前、「女学生」と呼ばれていた、中高等教育を受けていた女性。現代の「女子高生」にも連なる部分のあるそのイメージは、若い女の集合体として、強力である。私も、そのイメージに魅了された1人だ。『女学校と女学生』は、男子学生とは異なる形で定義された「教養」と、立身出世が不可能だった時代に女性が求め、求められた知について教えてくれた。限られた時代、限られた人々による、少女時代というモラトリアムの中、生み出された文化。少女イメージの考究に欠かせない一冊である。

少女らしい軽薄なプリンセス願望から手に取ったのが『華族』であった。華、という字面がなんとも可愛い。多様な出自の上流階級が、「天皇の藩屏」として、新しい近代貴族階級に組み込まれた。しかし、100年も持たなかったその歴史は、決して可愛らしくはない。大衆のあこがれとして、西洋的で新進的な姿を見せる近代人のモデルとしての華族の姿。現代に、それに相当する人々はいるだろうか。

西田藍(にしだ・あい)

1991年熊本県生まれ。アイドル、モデル、エッセイスト、書評家。雑誌『ダ・ヴィンチ』『SFマガジン』に書評連載中。SFへの造詣が深く、『サンリオSF文庫総解説』(本の雑誌社)の表紙モデルや、『SFマガジン』(早川書房)として初のカバーガールも務めた。(撮影:武井裕之)