- 2016 12/09
- 著者に聞く
中国近現代史・日中関係史を専門とする大澤武司さんが、膨大な史料をもとに書き上げた『毛沢東の対日戦犯裁判』。そこからは、日本軍の犯罪行為を裁く側に回った毛沢東や周恩来の思想や戦略が反映されていました。この日中関係の知られざる一面を照らす本書の執筆理由などについて話をうかがった。
――ご執筆の理由を教えてください。
大澤:対日戦犯裁判といえば、終戦直後、連合国がA級戦犯を裁いた東京裁判やBC級戦犯を裁いたアジア・太平洋各地で開かれたものがよく知られていますが、第二次大戦後に誕生した中華人民共和国が1950年代半ばに日本人戦犯を軍事法廷で裁いたことはほとんど知られていません。
そもそもなぜ中国に日本人戦犯がいたのか。彼らはどこから来たのか。「戦犯」管理所ではどのような待遇を受けたのか。裁判の準備はどのように進められたのか。誰が起訴されたのか。どのような罪で起訴されたのか。その後はどうなったのか。まずはその全体像を多くの日本人に知ってもらいたいという強い想いがありました。
「あとがき」にも書きましたが、実は起訴されずに釈放された戦犯たちを引揚船「興安丸」で迎えに行ったのが私の親戚でした。彼らは3回に分けて送還されたのですが、その第一陣、つまり中国帰還者連絡会を結成する国友俊太郎さんたちを迎えにいったのが、そのとき日中友好協会の役員だったその親戚でした。当時、日本と中国との間には国交がなかったので、さまざまな問題が民間団体経由の交渉で解決されていました。
その親戚の遺品のなかに「天津会議」というタイトルが書かれた大学ノートがありました。そこには戦犯送還を話し合った交渉の記録が克明につづられていました。このノートを読み込むうちに、「毛沢東の対日戦犯裁判」の存在を知り、研究にのめり込んでいきました。本当に運命的であったと思います。
――本書のポイントは何でしょうか。
大澤:ふたつあります。まずは中国の外交部、つまり外務省の檔案(公文書)を数多く利用していることです。「毛沢東の対日戦犯裁判」はひとりも死刑や無期懲役刑を科さなかったので、934名の処刑者を出した連合国の裁判と比べて「寛大」であったといわれてきました。
ただ、当時、日中間には国交がなく、当然のことながら、中国の対日外交や日本の対中外交には東西冷戦という国際情勢が大きく反映されていました。戦後処理の重要問題である日本人戦犯の処理についても同じような問題が含まれていました。つまり、日本人戦犯の政治利用という問題です。
これまで「中国が日本人戦犯を対日外交上、政治利用した」と発言すると、「反中」的と言われることも多かったのですが、中国自身が公開した外交文書に基づいて、「どの程度まで政治利用する意図があったのか」という点を明らかにしたことは、「毛沢東の対日戦犯裁判」を歴史的に評価するためにも、極めて大きな貢献になるのではないかと思います。
もうひとつは、帰国後の戦犯たちの後半生をできるだけ丁寧に跡づけたことです。いわゆる「認罪」と呼ばれる思想「改造」の過程や裁判そのものについてはこれまでも研究されてきていますが、帰国後に彼らが結成した「反戦平和・日中友好」を掲げた「中国帰還者連絡会」の通史をわかりやすく、読みやすくまとめたものはこれまでありませんでした。
特にこの「中帰連」は文化大革命のときに「分裂」し、1980年代半ばに「統一」されるのですが、その「分裂」と「統一」の根底にあった「論理」をある程度まで明らかにすることができたのではないかと考えています。この問題に詳しい研究者や市民運動家のみなさんの多くが「第5章が良かった」と言ってくれています。
――中国への関心はいつ頃から、どういったきっかけからですか。
大澤:私は台湾育ちです。父の仕事の関係で、1980年代半ば、82年から88年まで台湾中部の台中(たいちゅう)という街に住んでいました。当時はまだ蔣介石の息子の蔣経国が総統でした。8歳で台湾に渡ったのですが、まだ戒厳令や党禁が敷かれていて、完全に「国民党独裁」の雰囲気が残っていました。
その後、晩年の蔣経国は、のちの「台湾民主化」に向けた大きな政治的決断をつぎつぎと行っていくのですが、子ども心に「国際政治」や「中国近現代史」の複雑さや緊張感をヒシヒシと感じて育ちました。中学2年の終わりまで住んでいましたので「多感な時期」を台湾で過ごしたといえます。この体験が根っこにあると思います。
――なぜ中国研究者の道に進んだのですか。
高校時代の恩師の影響が大きかったと思います。私の母校は旧制の府立弐中、いまの都立立川高校なのですが、たいへんバンカラな校風でした。制服もありませんでした。よく「自主休講」なんて言って授業をさぼっていました。いまはどうかわかりませんが。先生がたも独特の教育方針を持っているかたが多かった。
中国研究の道に進んだのは、高校の時に受けた「現代史」の授業の影響です。女性の先生だったのですが、朝日新聞の記者だった本多勝一さんのルポルタージュを教材にして、戦争責任や侵略責任を考えさせる授業を行っていました。南京事件とかソンミ事件とか。
ただ、ルポの内容がかなり「直接的」でしたので、当時、高校生だった私は「このルポはあまりにも偏った視点から書かれている」と強い反発を覚えました。でも、日本と中国との間にどのような歴史があったのか、興味を持つきっかけになったことは確かです。もともと台湾育ちということもありましたので。自然と中国や台湾を研究してみたいという想いを持つようになりました。
――今後のお仕事についても教えてください。
大澤:ふたつのテーマで研究を進めていきたいと考えています。まずは、戦後日中関係史に関する実証研究です。胡錦濤時代の2004年、中国は外交部の公文書の公開を始めたのですが、1965年分までを公開したところで習近平政権になってしまい、結局、外交部の檔案館自体が事実上の閉館状態になってしまいました。
ありがたいことに、院生だったこともあり、私はちょうど「檔案公開の黄金期」に徹底的な史料調査を行うことができました。いまでは誰も入手できない史料を大量に手に入れることができました。これをベースにして、少なくとも文化大革命が始まる前の1965年までは、「実証的」というレベルで戦後日中関係、特に中国外交の視点での研究を形にしていきたいと考えています。
もうひとつは、この「毛沢東の対日戦犯裁判」研究の発展形ともいえるものですが、中国国民党関係の戦犯や傀儡政権関係の戦犯、つまり愛新覚羅溥儀をはじめとする「満洲国」関連戦犯や蒙疆連合自治政府など、日本人戦犯以外の戦犯に対する中国の処理政策を研究したいと考えています。
中国国民党関係戦犯については中国の台湾統一工作と強い関連があります。満州や蒙疆関係の戦犯については中国の少数民族政策と強いつながりがあります。建国初期の中国が台湾統一問題や少数民族問題をどのように考えていたのか、戦犯処理の視角から考えてみたいと考えています。
――最後に読者へのメッセージをいただけますか。
大澤:私は法学部法律学科出身です。学部時代には司法試験を目指して勉強をしていました。卒業後、再び大学で歴史学を専攻するのですが、この本を書くなかで法学部時代に学んだことが本当に役に立ちました。先日、東京裁判研究の大御所とお話する機会があったのですが、戦犯裁判研究には法律を学んだ人間だからこそ腑分けできる問題が数多く含まれているというお話をうかがいました。
43歳という年齢がどのような意味を持つのかはわかりませんが、あらためてこれまでの人生をふりかえると、台湾で育ち、高校で「独特」な教育を受け、大学で法律学と歴史学を学び、親戚の遺品から史料を発見し、さらに中国の「檔案公開の黄金期」に遭遇した。こうした私の人生の積み重ねがこの本に結実しているといっても過言ではないと思います。もちろん、これからも研究活動は続きますが、まずは現段階の到達点であるこの本を手に取ってお読みいただければと思います。