2025 12/01
著者に聞く

『豊臣秀長』/和田裕弘インタビュー

豊臣秀長が居城とした大和国の郡山城(奈良県大和郡山市)。遺構である天守台には展望デッキが設置され、東大寺大仏殿、興福寺の五重塔、薬師寺、平城京跡などを見渡すことができる。

兄秀吉の天下取りに尽力した功労者・豊臣秀長が、2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公として注目を集めている。政権ナンバー2とも言われるが、偉大な兄の陰に隠れて目立たない印象は否めない。どのような人物だったのか。評伝『豊臣秀長 「天下人の賢弟」の実像』を著した和田裕弘さんに話を聞いた。

――今回、執筆依頼を受けてどのように感じましたか。

和田:豊臣秀長については、いつかは書いてみたい人物の一人でしたので関心そのものはありました。史料などの収集も十分ではありませんでしたので、正直ためらいました。それでも、大河ドラマの主人公という今回の機会を見送ると、いつになるかわからないという思いと、1年余りの時間がありましたので挑戦してみようと思いました。結果的には、良い勉強にもなりましたので、お勧めいただいた編集担当の並木さんには感謝しています。

――秀長が以前「長秀」と名乗っていた点に注目されていますね。

和田:長秀の「長」は主君織田信長からのへん(一字拝領)と推測できようかと思います。低い身分から取り立てられた秀吉の弟であった秀長が「長秀」と名乗っていたのは不思議です。その意味では秀吉の出世とは基本的には関係なく、秀長自身が信長から高く評価されていたことを想像させます。百姓をしていた秀長を秀吉が自らの家臣に取り立てたという通説は、見直した方がいいのではないかと思っています。

――かつてベストセラーになった堺屋太一さんの小説『豊臣秀長』(初刊は1985年)は、「ある補佐役の生涯」というサブタイトルが付いていました。秀長はやはり「補佐役」だったのでしょうか。

和田:補佐役の意味もいろいろあるようですが、文字通り秀吉を支えていたのは確かだと思います。ただ、参謀的な役割を果たしていたかということについては慎重な検討が必要だと思います。それでも、単なる補佐役ではなく、後継者にもなり得るナンバー2であったということはいえようかと思います。

――秀長は兄秀吉の後継者と目されていたのですか?

和田:秀吉の実の息子が生まれる前の時点では、秀吉との関係やそれまでの実績から推測すると、最有力の後継者だったと思います。また、当時来日していた宣教師の記録などを見ても、そのように記されています。

――政治力にすぐれていた印象の秀長ですが、武人としての力量をどう評価されますか。

和田:秀吉が中国攻めの主将を命じられた天正5年(1577)からは、秀吉の主だった合戦に従軍したと思います。特に四国攻めでは、結果的には総大将となって長宗我部氏を降伏に追い込み、九州平定戦でも秀吉とともに総大将として大軍を指揮して進軍し、実質的に島津氏を降伏に追い込んだ戦いで勝利を得るなど、十分な力量を持っていたと思います。

――ところで、秀長の異名である「大和やまと大納言」とは?

和田:天正13年(1585)、秀長は四国攻めなどの功績を評価されて、紀伊国(現在の和歌山県)、和泉国(大阪府南部)に加えて大和国(奈良県)を与えられました。秀吉の出世に伴って秀長の官職も上昇していきましたが、同15年に大納言に任じられたことで、「大和大納言」が誕生しました。

――秀長は大大名になったわけですが、自分の後継者をどう考えていたのでしょうか。

和田:実の息子には恵まれなかったようなので、実の娘に養子を迎えることを想定していたと思います。それは突然やってきたようです。天正15年(1587)11月に重病に陥ったことで、豊臣氏の一門筆頭である郡山豊臣家の存続は豊臣政権にとっても重大事項であり、秀吉とも相談したと思いますが、姉「瑞龍院」の三男秀保を養子に迎えました。死期が迫ってからはきゅうきょ、実の娘と秀保を婚姻させました。これで郡山豊臣家も安泰と思われましたが、秀保が急死したため、結局は郡山豊臣家は二代で廃絶しました。

――晩年の秀長は病気がちで、没年(数え年)は52歳とも51歳とも言われます。早すぎる印象もありますが、もし秀長がもっと長生きしていたら、歴史はどうなっていたでしょうか。

豊臣秀長の墓所、大納言塚(大和郡山市箕山町)。秀長の遺徳をしのぶ法要「大納言祭」が毎年4月22日に営まれている。

和田:当時の没年齢からすると、とりわけ早死にというわけではないと思いますが、秀吉が62歳で病没しているのと比較すると10歳ほど若いので、少し早いという印象はあります。秀吉と同じ年齢まで生きていても大陸侵攻を阻止したということは考えにくいですが、秀吉没後の政治的混乱は異なっていた可能性が高いように想像されます。豊臣政権の権力構造がどのように変化していったかは想像の域を出ませんが、「秀次事件」(秀吉・秀長のおい秀次の切腹と、その妻子の処刑)もなく、その後の徳川家康の台頭もなかったかもしれません。その意味では徳川幕府、ひいては江戸時代という時代もなかった可能性もあるかもしれません。

――なるほど。今回執筆したことで新しい発見はありましたか。

和田:秀長の正室「慈雲院」の出自についての発見がありました。通説では父親は秋篠伝左衛門という人物といわれていましたが、これは江戸時代の地誌や伝承をもとにした架空の人物で、信頼できる史料には登場しません。実際には神戸伝左衛門秀好という人物であることが分かりました。また、慈雲院は秀長の後継者となった秀保が病死してからは、郡山を離れて京都に居住していたことも分かりました。

――秀長の正室に関する事実が判明したのですね。興味深いです。最後に、今後の取り組みのご予定がありましたら。

和田:今回の『豊臣秀長』を含めて、これまで中公新書で6冊を出版していただきましたが、すべて織田信長関係になります。今後は最も関心のある織田信長その人についてまとめてみたいと思っています。

――それは楽しみです。本日はありがとうございました。

和田裕弘(わだ・やすひろ)

1962年、奈良県生まれ。戦国史研究家。織豊期研究会会員。著書に『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『信長公記―戦国覇者の一級史料』『織田信忠―天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』『柴田勝家』(いずれも中公新書)など。