2024 04/26
著者に聞く

『長篠合戦』/金子拓インタビュー

家康の重臣・酒井忠次が攻撃したとされる鳶巣山(とびのすやま)から、写真中央の長篠城址を見下ろす

天正3年(1575)、現在の愛知県新城市で、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼率いる軍勢が激突した。長篠合戦である。鉄砲の威力の前に武田方が大敗を喫した戦いとして知られるが、そうした鮮烈な合戦イメージはどのようにして出来上がったのか。『長篠合戦 鉄砲戦の虚像と実像』を著した金子拓さんに話を聞いた。

――長篠合戦というテーマとの関わりは?

金子:わたしが勤務する東京大学史料編纂所では、古代から江戸時代に至る編年史料集(時間順にできごとを並べ、その典拠史料を収録する)『大日本史料』という日本史の基幹的史料集を刊行しています。わたしは、このなかで織田信長が活躍した時代の担当であり、3年前の2021年に、長篠合戦当日(天正3年5月21日)の史料を収めた冊を出しました。

わたしは1998年に史料編纂所に入り、この部署に配属されたのですが、2000年頃から、いずれ将来長篠合戦の編纂をすることになることを意識し、2010年に、多くの同僚や研究者の方々の協力を得て、実際の調査に着手しました。史料編纂所に入る前は信長の研究をしていたわけではなかったので、実をいえば長篠合戦についても一般的な知識以上の知識はありませんでした。

――長篠合戦に関する史料は膨大な数に上るようですが、その理由とは?

金子:何より勝者の側に徳川家康がいたことです。家康は戦国時代を生き抜き、征夷大将軍となって幕府を開きました。同じ時代を生き抜いた大名家はすべて徳川家の一大名となったわけですが、このなかに、長篠合戦に参加した武将の子孫が多くいたわけです。そしてそれぞれの家で、自分たちの先祖が長篠合戦でいかなる武功をあげたのかを記録した史料や系図を残していることも多く、そのため、鶴岡(酒井家)、水戸(徳川家)、行田(松平家)、上越(榊原家)、金沢(前田家)、和歌山(徳川家)、鳥取(池田家)、徳島(蜂須賀家)、臼杵(稲葉家)、中津(奥平家)、熊本(細川家)など、一緒に研究を進める仲間たちと日本全国に出張し、各大名家の史料を収蔵する機関で調査を行い、わずかな記事でもいいので拾い集めてきました。

もちろん江戸時代に入って、勝者家康を称えるために作成された記録や、それらをもとにした軍記なども多く、結局『大日本史料』は600頁になりました。

――「鉄砲三千挺で三段撃ち」などとよく言われますが、そうした事実は否定されているのですか?

金子:いわゆる「三千挺を千挺ずつ三列にして、撃ち終わったら最後列に退き、交替で射撃する」という意味での「三段撃ち」は否定されていると言ってよいと思います。これは交替射撃的な攻撃がまったくなかったと言っているわけではなく、また「三段撃ち」も、三列でなく、部隊ごとの集団に分かれて撃ったという考え方もあるので、注意が必要であり、まだまだ確定的なことは言えません。

――本の帯に「長篠合戦図屏風」があしらわれていますね。絵画史料である戦国合戦図屏風の分析が興味深かったです。

帯の絵柄は「長篠合戦図屛風」(部分。犬山城白帝文庫所蔵)

金子:戦国合戦図屏風とは、基本的に江戸時代になってから制作されたものです。ですので、当時その場を目撃した人が描いたわけでもなく、その場にいた人が自分の見聞を絵師に描かせたわけでもありません。先に述べたように、江戸時代に編まれた記録や系図、またそこから作られた物語をもとにして描かれたと推測されます。つまりは「江戸時代の長篠合戦イメージ」が絵として表されたわけです。

ただやはり文字よりも絵で見たほうが喚起力が強いですから、長篠合戦といえばこんな構図ということで、結局現代のわたしたちの長篠合戦イメージをも支配することになりました。本書では、どのような過程でこれら屏風が制作されたのかにも気を配って書いています。

――終章を「刷新された長篠合戦像」と題して、「皮膜を取り去った結果みえてきた長篠合戦の実像」を改めてコンパクトにたどっています。どういった狙いですか?

金子:本書では、まず従来の長篠合戦像を記し、それがどんな過程で成立したのかを考えました。次に、実際に長篠合戦について記す史料について、信頼できるものからたどり直し、時間の経過によって、長篠合戦像が変化していく様子を明らかにしました。ですので、変化して今に至った過程をそっくり取り去って、信頼できる史料を軸にして、それにより再現できる長篠合戦像をあらためて最後に述べ直してみて、読者の方には、従来の像と、検討後の像がどのくらい違うのかをわかっていただくようにしたつもりです。

――本文中に出てくる徳川史観とは何でしょうか。そして徳川史観から信長英雄史観への「上書き」とは?

金子:徳川史観とは、江戸幕府を開いた徳川家康の事蹟を正当化し、その視点で過去の歴史をも書き換えてしまうような考え方です。戦国時代を経て勝ち残ったのが徳川家ですから、結果的に徳川家に都合の悪いことは表に出なくなりました。戦国時代のいくさは、こうした徳川史観によって歪められたものが多く確認されます。長篠合戦も、家康が勝者の側にいたわけですから、当然徳川史観により、「徳川による勝利」として伝えられてきたのですが、いまわたしたちは、むしろ「信長の鉄砲による勝利」というイメージのほうを強く持っております。なぜそうなってしまったのか。これは江戸幕府が瓦解したあと、近代に入って信長が戦国の英雄として見られるようになったからなのだろうと推測しました。これが「上書き」ということになります。

――長い目で見ると、歴史像は変化するものでしょうか?

金子:いま述べたように、おなじ歴史的出来事、あるいは歴史的人物に対しても、その時代の考え方によって評価・解釈が大きく変わる、ということがよくあります。長篠合戦もそのひとつでしょう。これは、史料の研究が進展して、またかつては知られていなかったような史料が新たに発見されるなど、わたしたちはインターネットなどを通して簡単に歴史史料を見ることができるような環境のおかげだろうと思います。そのうえで研究がより緻密に、より広い目配りで行えるようになりました。ただし今回のわたしの提示した長篠合戦像も絶対的なものではないと思っております。将来的にさらに研究が進めば、本書は「2020年前後の時代のなかから生み出されたもの」という評価を受け、やはり実際の合戦像は異なるのではないか、という見方が出てくるかもしれません。

――今後の取り組みのご予定は?

金子:本務でも今回の新書でも長篠合戦についてはひと区切りつきましたので、このところ関心を持って、あらたに多くの研究者の方々と一緒に進めている賀茂別雷神社の研究に取り組んでいこうと考えています。賀茂別雷神社(上賀茂神社)には多くの古文書が残されており、とくにそのなかの算用状という会計帳簿に注目して、神社の会計帳簿から見る戦国時代の政治史といったテーマで次の著書を構想しております。

――読者のみなさん、とりわけ歴史を学ぶ若い人たちへのメッセージがありましたら。

金子:歴史は史料の解釈の積み重ねによって叙述されます。研究する人が、どのような視点で、どのような史料に注目するかによって、歴史の述べ方も当然異なります。もちろん、実際に起きたできごとは確としてあるのですが、それについて残された遺物や記録史料などによって、そのできごとがどのような内容であり、その時代、その社会にとってどのような意味を持つのか、それら遺物や史料を検討した歴史家によって語られたものが歴史です。つまり真実は一つでも、歴史は多種多様なのです。歴史に関する本に関心がある方は、その本が正しいことを書いているかそうでないか、という二者択一的観点ではなく、それを書いた歴史家がどんな立場で、どんな関心からその史料をそのように解釈したのか、というところにも注意して歴史書を読むと、さらに楽しめるのではないでしょうか。

――ありがとうございました。

金子拓(かねこ・ひらく)

1967年、山形県生まれ。東北大学文学部卒業後、同大学大学院に進み、博士課程修了。博士(文学)。現在、東京大学史料編纂所教授。専門分野は日本中世史。『記憶の歴史学』『織田信長〈天下人〉の実像』『鳥居強右衛門』『信長家臣明智光秀』『裏切られ信長』ほか著書多数。