2024 02/15
特別企画

[特別寄稿]デリカシーのない男・藤原兼家/榎村寛之

平安時代の役所正殿の建物イメージ(「さいくう平安の杜」斎宮寮庁復元建物。撮影・筆者)

『蜻蛉日記』で、通ってこない不実な夫と暴露された藤原兼家(段田安則。道長の父)と、『小右記』で、藤原実資(秋山竜次)に物知らずと記録されたその子、藤原道綱(上地雄輔)――千年の時を超えて伝わる困った親子の話。

『蜻蛉日記』の著者名

『光る君へ』に、だいしょうみちつなのはは(財前直見)がようやく出てきた。この人については、「ああ、あの人」という方と、「なんか聞いたことがある」という方と、「誰それ」という方が割合はっきり分かれると思う。
実際、この人については、よく知られていることとわからないことがパッチワークのように錯綜していると言っていい。

まず、よく知っているという人は『百人一首』の好きな人だろう。

   なげきつつ ひとりぬる夜の あくるまは いかに久しき ものとかはしる
右大将道綱母

通ってこない男を待ち焦がれる一夜という、この悩ましい歌には、私も『百人一首』になじみ始めた中学生頃にドキドキした記憶がある。

次に、古文・古典などの授業で『かげろうにっ』の著者として出逢った、という人も多いだろう。私も蜻蛉という漢字はそれで覚えたように思う。しかし暗記モノとして「ウダイショウミチツナノハハ・カゲロウニッキ」と鵜呑みにしただけで、すがわらのたかすえのむすめの『さらしなにっ』とよく混同していた(今もしている)。
『蜻蛉日記』に親しんだというのはなかなか立派な方だとおほめしたい。その著者が藤原兼家の妻の一人とすらすら出てくるのはこのタイプだろう。
ともかく、この時代の女性は「○○母」だの「○○女」だのとやたらにわかりにくい名前? の人がいる。さらにわかりにくいことを言うと、『蜻蛉日記』著者にはふじわらのともやすのむすめという名で残した歌も少なからずある。そこで「彼女の本名は?」と言う質問をよく見かける(『光る君へ』ではやすとしているようだ)が、私はこの正解はないと思う。

女性の名前と官職

平安時代の女性の名というと、「定子」「彰子」など「○子」というイメージがある。しかしこの名前は、官職に就く、つまり女官にならないと一般的にはもらえなかったのではないかと私は考えている。
女官(広い意味では女御や更衣といった天皇の後宮にいた「妻」的な人たちも女官だ)には、就職するときに「」という、位と名前を明記した身分証のような文書が与えられる。いわば国家公務員の証で、「ふじわらのそんやすじゅじょす」とか「源朝臣寛子を正五位下に叙す」などといった感じのものだ。現在も、大学を卒業して学士という身分を獲得した人に与えられる「学位記」はその名残で、学士という身分の「位記」である。

官職に就かない女性の名は?

しかし貴族の娘であっても就職しなかった人はこういう名前を持たなかった可能性がある。彼女らは社会人ではないので、あえて持つ必要がないのである。子供の頃につけられた幼名(『光る君へ』の「まひろ」はこのタイプの名前だと思う)だけを持ち続けていた人、あるいは、○○殿の一の姫、二の姫などの通称だけの人も少なからずいたのではないか。
『蜻蛉日記』の著者も、右大将道綱母、あるいは藤原倫寧女以外に、公式に名乗れる名前がなかった、あえて言えば「○姫」タイプの幼名が通り名になっていたのではないかと思われるのである。
その傾向は『蜻蛉日記』著者のライバルからもうかがえる。同じく藤原兼家の妻で、道隆、道兼、道長の母、藤原時姫(三石琴乃)で、やはり「○子」ではない。彼女は摂津守を最高職とする藤原中正の娘で、伊勢守を最高職とした倫寧と同レベルの中級貴族である。
他にも兼家には多くの妻がいたが、大臣の娘、という人は全くおらず、摂政になった頃に正妻にした村上天皇の娘、保子内親王を除いて、四位から五位レベルの貴族の娘がほとんどで、おそらくいずれも地方官を歴任した資産家だったと思われる。
その中で、特に多くの男子を産んだ時姫が正妻として扱われたが、例えば道隆の妻「高階貴子(板谷由夏)」や道長の妻「源倫子(黒木華)」のように、公的な位は持たなかったので「時姫」のままだったようだ。ならば同等身分の出身の『蜻蛉日記』著者も「○姫」だった可能性が高いと思う。

デリカシーのない夫・藤原兼家

さて、『蜻蛉日記』著者の夫、藤原兼家という人は、どうもデリカシーに欠けるところがあったようだ。
『蜻蛉日記』には、天暦9年(955)に道綱が生まれてすぐの頃として、兼家が帰った後、彼の文箱の中から、なんと他の女に送る手紙を見つけたことが記されている。著者は、幸福の絶頂から真っ逆さまである。そこでこの手紙の末尾に自分の歌を書きつけた。今なら、彼氏が浮気相手にLINEするつもりで、間違えて自分のところに送ってきたので、速攻で既読をつけてやった、というところだろうか。で、兼家は、「君の心を試してみたんだよ」みたいなことをいうのだが、今度は帰るところをつけさせて、その相手、下町っぽいところにいる女「町の小路の彼女」を発見するのである。著者もなかなかやるのだが、兼通はバレたらバレたで、今度は堂々とそこに通うようになる。

このドロドロの関係に少しだけクスリと来るところがある。
やがて「町の小路の彼女」にも子供ができ、出産するとかで、良い方向に一時的に引っ越すという。兼家は彼女を同じ牛車に乗せて、大きな音を立てながら、よりにもよって著者の家の前を通っていった。
この時代の牛車の具体的なデザインなどはなかなかわからないのだが、『西園寺家車図』『九条家車図』などの鎌倉時代頃の車のデザインノートを見ると、大きな文様が描き込まれているので、おそらく車を見れば誰が乗っているかくらいはわかったのだろう。つまり、著者の家の前をそれとわかる車が暴走していったわけだ。それは怒るよな。

兼家はどうもこういうことをしばしばやっているようで、これから10年ほど後、康保元年(964)の頃に、母を亡くして悲しみにくれる著者の家の前をまたしても牛車で通り過ぎていった。ついに彼女の我慢も限界に達したらしく、尼になろうと思いたち、西山の山寺(鳴滝の般若寺、今の京都市右京区鳴滝般若寺にあった寺院か)にこもってしまう。
流石さすがの兼家もびっくりして追いかけてくるのだが、彼もいろいろ慎まなければならない物忌の間ということで、寺に入れない。そこで道綱少年が両親の間を伝書鳩のように何度も往復することになる。そんなやりとりがあって、結局追い返し、彼女はしばらく山寺に立てこもったのである。

デリカシーのなさで出世も遅れる

これくらいならクスリですむのだが、兼家は、この後に同じ失敗をもっと派手にやらかしている。
歴史物語『大鏡』によると、貞元2年(977)に、かねてから政敵でもあった兄、関白藤原兼通(53歳)が重病でいよいよ、というとき、その耳に権大納言で右近衛大将だった兼家(49歳)の牛車の先触れの声が聞こえた。兼通が、「ああ日頃は仲が悪くても、さすがは母も同じくする弟だ、今生の別れに来てくれたか」、と待ち構えていたら、邸の前を通り過ぎ、内裏に向かって行った。兼通が死んだと思い、後任の相談に行ったのである。
流石に兼通もブチギレ、半死半生なのに装束を整え、車を飛ばして内裏に走り、円融天皇(坂東巳之助)の前で、兼家を尻目に最後の除目(人事異動)を行なった。関白は従兄弟で協力者だった藤原頼忠(橋爪淳)に、兼家は大将を召し上げてきょう(外交や仏教政策を担当する治部省の長官。この時代には外交はしていないし、仏教界はてんだいという延暦寺のトップがいたからほとんど仕事はない)にという報復人事で、兼家はこの結果、円融、花山朝には政権を握れず、寛和2年(986)にやっと摂政になれた。この間に右大臣になっていたとはいえ、約10年を棒に振ったことになる。
『光る君へ』に出てくるのはまさにこの雌伏期間の兼家である(『蜻蛉日記』の頃から10年以上経っている)。道綱が生まれたのは天暦9年(955)なので、最初の牛車通過事件は20年も前、兼家27歳のときである。20年たっても、デリカシーのないイラチな性格は全く変わっていなかった。そのために奥さんを怒らせて告発本を書かれ、兄を怒らせて出世を止められる。デリカシーのなさが兼家を、よろしからざる意味で後世に有名にしたのである。

息子・道綱の才能は?

さて、藤原道綱という人は、その性格や行動が最も書かれた平安貴族だと思う。何しろその母の告白日記に出てくるのだから、その性格や行動が詳細に記されている、しかも生誕から19歳の多感な時期だ。平安貴族とはこのように成長した、と考えるには絶好の素材……というわけではない。そこに記されているのは、プライドの高い母と知らん顔でツンツンする父の間でオロオロする、どこにでもいる気の弱い息子の姿で、はっきり言ってごくつまらない。せいぜい弓が上手なことくらいしかほめるところがない。
とはいえ、道綱は道長の兄なので、『御堂関白記』『小右記』の日記類や、『大鏡』『栄花物語』などの物語にも顔を出すし、母が亡くなった後だが、長徳3年(997)に右近衛大将から大納言に出世して、20年以上務めている。

しかしながらここでも彼は何も活躍しないのである。
同世代の辛口知識人の代表、かの藤原実資は道綱の2歳年下だが、道綱が大納言になったときはまだ中納言で、この人事に「藤原詮子(吉田羊)と道長の横暴だ」と日記に散々悪口を書きなぐっている。権大納言を経てようやく実資が道綱の出世に追いついたのは寛弘6年(1009)のことである。『小右記』での道綱の評価は、「一文不通(物知らず)」「自分の名前しか漢字を知らない」と散々であるが、にもかかわらず道綱に「すぐに辞任するから大臣に推薦してくれ」と泣きつかれたらしく、もちろん聞き流して、後で「やなこった」と書いている。ボロクソである。
ことほど左様に、「道長の異母兄」という肩書きは、彼の場合かなり有効に働いたらしい。
しかし同席の、しかも京都人の権化とも言われるライバルの実資に出世の協力をせがむなど、道綱の空気の読めなさは、実は父譲りだったのかもしれないな、とも思う。

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大好評『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』著者の榎村寛之さんのエッセイについては、下記もご覧下さい。

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榎村寛之(えむら・ひろゆき)

1959年大阪府生まれ.大阪市立大学文学部卒業,岡山大学大学院文学研究科前期博士課程卒業,関西大学大学院文学研究科後期課程単位取得退学.三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長等を経て,現在,斎宮歴史博物館学芸員、関西大学等非常勤講師.専攻・日本古代史.博士(文学).
主著『斎宮―伊勢斎王たちの生きた古代史 』(中公新書, 2017),『律令天皇制祭祀の研究』(塙書房,1996),『伊勢斎宮と斎王――祈りをささげた皇女たち』(塙書房,2004),『古代の都と神々――怪異を吸いとる神社』(吉川弘文館,2008),『伊勢斎宮の歴史と文化』(塙書房,2009),『伊勢斎宮の祭祀と制度』(塙書房,2010),『伊勢神宮と古代王権――神宮・斎宮・天皇がおりなした六百年』(筑摩選書,2012),『律令天皇制祭祀と古代王権』(塙書房, 2020)ほか