2023 10/26
著者に聞く

『オットー大帝―辺境の戦士から「神聖ローマ帝国」樹立者へ』/三佐川亮宏インタビュー

マクデブルクの旧市場(アルテ・マルクト)に立つ皇帝騎馬像(レプリカ、本書266頁参照、著者撮影、2008年)

ヨーロッパ中世を画する人物としてはカール大帝が有名ですが、カール大帝から百数十年後、もうひとりの「大帝」が現れます。このオットー大帝の生涯を巨細に描いた『オットー大帝―辺境の戦士から「神聖ローマ帝国」樹立者へ』を刊行した三佐川亮宏さんにお話を伺いました。

――はじめに、オットー大帝(1世)とはどういう人物で、どんなところが魅力か、お教えください。

三佐川:「あとがき」でも触れましたが、オットー1世(912~973年)の名前は、日本では正直なところ馴染みが薄いと思います。
936年に東フランク王国のオットー朝(ザクセン朝)の第2代国王として即位し、800年にフランク国王カール大帝によって復興された古代の(西)ローマ帝国の伝統を継承する、中世ローマ帝国――後世に「神聖ローマ帝国」と呼ばれるようになります――を962年に樹立しました。
さらに、エルベ川を越えた東欧のスラヴ人世界に向けてキリスト教を伝道する基礎を築いた人物として歴史に名を残しています。
「大帝」という呼び名はすでに同時代人によって用いられていました。
955年のレヒフェルトにおけるハンガリー人に対する歴史的勝利も有名で、高校の世界史の教科書に出てきます。しかし、軍隊の指揮官としての能力ははなはだ疑問で、度重なる勝利は多分に偶然的要因に負うところが大きいといえます。

実は平凡な一研究者としてのわたしが興味を惹かれたのも、(ともすれば月並みになりがちな)「英雄」、「偉人」としてのオットーではありませんでした。
むしろ、自分と同じいつかは死すべき一人の人間としてオットーを10世紀という時代の中に位置づけ、等身大の姿で描き出すことでした。
ときにその過剰なまでの自信がわざわいして葛藤する若き日の苦悩、家族の死にひたすら涙する家長としての素顔、苦難の渦中にあっても揺るがないきょうじんな精神性といった主人公の心のひだに、各種の叙述史料を駆使して迫るよう努めました。

――本書執筆にあたって苦労された点、あるいは工夫された点は何ですか。

三佐川:同名異人の区別です。本書には“ハインリヒ”だけでも6人登場します。表記がいささかくどくなりましたが、官職名などを繰り返し併記して区別しました。
中世前期のヨーロッパは、「姓」を欠く単一名の時代でした。しかも、貴族家門の場合、名前は一族の高名な先祖にちなんで与えられたので、同一名が複数登場するのはごく普通のことです。
オットーの祖父、それに後継皇帝となった息子、孫の名も「オットー」です。○○○1世、2世、3世という序数による呼び方が後世に普及したのは、これらオットー三代の皇帝たちを区別する必要があったからです。
あだ名が頻繁に用いられたのも、同じ理由です。愛称を用いて区別することもおこなわれていました(リウトプランド=“リウツォー”、リウドルフ=“ドゥード”など)。

なお、「姓」を欠くということは、裏返すと明確な家門意識がまだ未成であったということです。11世紀後半になると、男系の長子単独相続慣行が定着し、堅固な山の上に造られた石造りの城塞の名などにちなんで「姓」が登場しはじめます(シュタウフェン、ツォレルンなど)。それ以前は、女系の高名な祖先にちなんだ命名も珍しくはありませんでした。オットーの父の「ハインリヒ」という名は、優れた指揮官として知られた母方の祖父に由来しています。

地名についても、今日良く知られたベルリン、ミュンヘン、ライプツィヒ、あるいはドレスデンなどはまだ存在せず、ローカルな中小都市が大半を占めます。本書では多数の系図や地図、それに新書としては異例な人名索引を付すことに努めました。

また、外国語の専門用語は極力避け、使う場合にも簡潔で明解な説明を加えるよう心がけました。それでも、全体としてカタカナが多くなってしまい、読者には読みづらい印象を与えたのではないかと、今になって反省しています。

――素朴な質問ですが、その人名についてです。本書には、オットーやハインリヒ、ヴィルヘルム、フリードリヒなど、現在の人名としても馴染みのある名前も登場しますが、アルヌルフ、ヴィドゥキント、エーベルハルト、ギーゼルベルト、タンクマル、リウドルフなど、馴染みのない名前もたくさん出てきます。フランスだったらルイとかシャルルとか、いまでも馴染みがある名前だと思うのですが、これはなぜでしょうか。

三佐川:当時の貴族家門は、それぞれに特徴的な名前を保持していましたが、そのヴァリエーションは比較的限られていました。それと同時に、名前にはその家門内における「格」のニュアンスが込められていました。
たとえば、特に厳格な命名法をもっていたカロリング王家の場合、カール(シャルル)、ルートヴィヒ(ルイ)、それにロータルが最も権威ある名前です。これらは、将来の国王候補となる正統男系の嫡男に限って与えられました。ピピン、カールマンなどがこれに続きます。
それ以外の特異な名前には、多くの場合、非嫡出子であるというニュアンスが含意されています。たとえば、アルヌルフやツヴェンティボルトがそれです。オットー家の場合は、ヴィルヘルムがこうした非嫡出子のケースに当たります。

今日では馴染みの薄い名前の多くは、ゲルマン語系の単語を組み合わせたもので、その後キリスト教の聖人にちなんだ命名が一般化するに伴い、少なくなっていきました。特に珍しいのは「ヴィドゥキントWidukind」です。直訳すると「森の子Waldkind」となります。それが本来意味したのは「狼Wolf」です。隠喩的代称(ケニング)を用いた命名です。

――本書は、三佐川先生がこれまで刊行された本や、研究されてきた内容と、どういう関係にありますか。

三佐川:わたしはあくまで平凡な一研究者ですので、個人的には豪傑タイプのオットー1世よりも、むしろ孫の3世(980~1002年)の方に惹かれていました。ビザンツの皇女を母とし、「世界の奇跡」と言われるほどに学問に精通し、東フランクを去ってローマを都に定めますが、21歳の若さで夭折した「玉座の夢想家」です。彗星のごとく駆け抜けていったその短い生涯を、紀元千年の「終末論」と絡めつつ描いた評伝を上梓したのは、2018年です(『紀元千年の皇帝――オットー三世とその時代』刀水書房)。
それと並行してオットー朝の最重要な叙述史料4点の翻訳を進めてきました(『ザクセン人の事績』(知泉書館、2017)、『オットー朝年代記』(知泉書館、2021)、『クレモナのリウトプランド『報復の書』/ヴァイセンブルクのアーダルベルト『レーギノ年代記続編』』(知泉書館、2023年)。
今回、オットー1世の評伝に進んだのは、材料となる関連史料がほぼ出揃ったからです。

――現代の日本のわたしたちが、この時代のこの地域について知ることの意義がありましたらお教えください。

三佐川:戦後日本における西洋中世史研究は、戦前の日本社会の封建的遺制を排し、欧米諸国と対等な「近代化」をいかに達成すべきか、という鮮烈な問題意識の下に展開されました。民主主義の原点を中世後期の身分制議会や、皇帝・教皇選出の際の多数決原理に、あるいは自由の源流を中世都市の市民的自治の中に探し求める、いわば近代主義的アプローチです。
今日の世代の問題関心は、かなり異なります。「中世」はそもそも今日とは異質の世界であるとの認識から発し、「現代」とは異なる新たな価値の発見、あるいはオールタナティヴな可能性を模索するアプローチです。
たとえば、「歴史」についての理解自体が今日とは違います。「そもそも過去に何があったのか」――これは近代歴史学の樹立者であるレーオポルド・フォン・ランケ(1795~1886年)が、史料の実証的分析を通じて“事実”を確定することに、学問としての歴史学の出発点を見出した有名なしんげんです(1824年)。
ところが、中世の歴史叙述者の思考を規定していたのは、こうした客観的な考証ではなく、「そもそも過去は“現在”にとっていかにあるべきか」という主観的な要請でした。キリスト教の救済史的歴史認識においては、聖書に描かれた過去の出来事が現在の事象においていかに“再現”されているか、それを読み解き、救済史上の“現在”の立ち位置を措定することが、この時代の歴史叙述者の最大の使命だったのです。
中世・ルネサンス期の聖書を題材とする宗教画の背景に、画家たちの生きる“現在”の都市や農村の風景がリアルに描かれていることを思い出してください。これを「時代錯誤」として切り捨てるのではなく、現代とは根本的に異なる歴史認識がその根底にあることを知ることは、時空を超越した異文化理解のために不可欠です。

次に、本書の最後にわずか10頁ほどですが、終章として「オットーの遺産――神聖ローマ帝国とドイツ人」を書きました。これは、2018年に第108回日本学士院賞を受賞した『ドイツ史の始まり――中世ローマ帝国とドイツ人のエトノス生成』(創文社、2013年)のエッセンスをまとめたものです。
わたしは20歳代後半の1987~1990年の3年間、当時の西ドイツの首都のボンで、給費留学生として勉強していました。この間、東欧諸国の相次ぐ変革、そして冷戦体制の終焉を現場で目の当たりにしました。1989年11月には、たまたま西ベルリンに滞在しており、「壁崩壊」に現地で遭遇するという貴重な機会に恵まれました。「統一と分裂のドイツ史」、あるいは「ドイツ人のアイデンティティ問題」を、その起点となる10世紀を中心に研究してみようと考えたのは、このときの体験からです。
ドイツ人に限らず、フランス人、イタリア人、それに東欧の主要な民族が「中世ローマ帝国」をプラットホームとして形成されはじめるのは、「ヨーロッパのようらん」とでも呼ぶべき「長い10世紀」です。今日のEUの原点やキリスト教的ヨーロッパの歴史的えんげんを知る意味でも、日本ではあまり馴染みがありませんが、重要な節目となる時代だと確信しています。

――本書の内容に限らず、読者に特に伝えたいものがありましたらお願いします。

三佐川:歴史学は同時代の「政治」との距離感を見誤ると、ときに危険な“武器”として悪用されてしまうことがあります(たとえば戦前の「皇国史観」など)。
本書の主題の場合、鉄血宰相ビスマルクによる「上からの」武力によるドイツ統一と“第二帝政”の始まり(1871年)以降、「遅れてきた国民」の内的統合を目指す言説の中で、オットーの父の国王ハインリヒ1世(919~936年)は「ドイツの建国者」と賛美され、オットーは帝国主義的な領土拡張を正当化するシンボル、すなわち「世界帝国の樹立者」として英雄視されました。
ナチスの“第三帝国”の時代になると、こうした傾向はさらに強まります。自らをハインリヒ1世の再来と信じた親衛隊指導者のヒムラー(ファーストネームは同じ“ハインリヒ”)は、1936年の国王歿後千周年を政治的プロパガンダに利用しました。墓所のクヴェトリーンブルクでカルト的な祭祀を大々的に挙行し、同地を親衛隊の聖地と定めました。学者たちは、これに寄り添うかのように、タイムリーに国王の遺骨なるものを教会の地下から“発見”しました。
1941年に始まったソ連侵攻のコードネームが、12世紀の皇帝フリードリヒ1世・バルバロッサ(赤髭)にちなんで「バルバロッサ作戦」と付けられたことは、良く知られているとおりです。

今年(2023年)は偶然ですが、オットー歿後千五十周年にあたります。オットーゆかりのマクデブルクでは現在、歴史の脱構築化という観点から「後世の記憶におけるオットー像の変遷」を主題とする歴史展が開催されています。
https://www.khm-magdeburg.de/ausstellungen/sonderausstellungen/welche-taten-werden-bilder-otto-der-grosse-in-der-erinnerung-spaeterer-zeiten/

若い世代の皆さんには、千年前の遥かな過去が、実は様々な形で現在とつながり続けていることを知ってほしいと思います。

三佐川亮宏(みさがわ・あきひろ)

1961年,札幌市に生まれる.1991年,北海道大学大学院文学研究科博士課程中途退学(1987~90年,DAAD奨学生としてボン大学留学).北海道大学文学部助手等を経て,現在,東海大学文学部教授.博士(文学).専攻・ドイツ中世史.
著書『ドイツ史の始まり――中世ローマ帝国とドイツ人のエトノス生成』(創文社,2013,第108回日本学士院賞受賞),『ドイツ――その起源と前史』(創文社,2016),『ドイツの歴史を知るための50章』(森井裕一編,共著,明石書店,2016),『紀元千年の皇帝――オットー三世とその時代』(刀水書房,2018),『岩波講座・世界歴史』第8巻(共著,岩波書店,2022)他.
訳書『ヨーロッパ社会の成立』(カール・ボーズル著,平城照介・山田欣吾・三宅立監訳,東洋書林,2001),『中世の「ドイツ」――カール大帝からルターまで』(ハインツ・トーマス著,山田欣吾との共編訳,創文社,2005),『ザクセン人の事績』(コルヴァイのヴィドゥキント著,知泉書館,2017),「オットー・ブルンナーとナチズム――「時代を巧みにくぐり抜けて来ました」(上・中・下)」(ハンス=ヘニング・コーテューム著),『思想』1136,1138,1142号(2018~2019年),『オットー朝年代記』(メールゼブルクのティートマル著,知泉書館,2021),『クレモナのリウトプランド『報復の書』/ヴァイセンブルクのアーダルベルト『レーギノ年代記続編』』(知泉書館,2023年)他.