2023 07/13
著者に聞く

『大東亜共栄圏』/安達宏昭インタビュー

2019年11月、ドイツのハイデルベルク大学での講演の様子

大東亜共栄圏』(2022年7月25日刊)は版を重ね、各紙誌でも取り上げられ高い評価を得ています。加藤陽子(東大教授・日本近代史専攻)さんからは「毎年夏に読み返したい必読の本だ」(『毎日新聞』2022年8月20日)との書評も得ました。
 そこで夏のこの時期に、あらためて著者・安達宏昭さんに、著書『大東亜共栄圏』について、またご自身の来歴や関心などについてうかがいました。

――そもそもなぜ日本近代史に関心を持ったのでしょうか?

安達:もともとは、城が好きで歴史に興味を持ちました。だから、小学生の頃は戦国時代が好きでした。父と各地のお城を巡ったり、お城のプラモデルを作ったりしていました。

 それが近代に関心を持つようになったのは、中学校の歴史の先生の影響です。その先生は日本と韓国の交流に大変、熱心で、当時から韓国に何度も行っており、日本の朝鮮に対する植民地化の歴史を「選択」の授業で教えていました。この授業を受けて、これはもっと知らなければならないと、自由研究などで調べました。このころから、さらに日本近代史を学びたいと思うようになりました。

――なかでも昭和の戦争の時代に関心を持ったのはなぜですか?

安達:日本近現代史のなかでも、昭和の戦争の時代に関心が高くなっていったのは、2つの理由があります。

 一つは、「あとがき」にも書きましたが、高校生になり、祖母や父母の人生を深く知るようになったからです。祖母は決して私には話をしませんでしたが、息子(私にとっては伯父)を戦病死で亡くすなど、その人生は戦争に翻弄されたものであったことを、父母や親戚からの話で知りました。

 父も17歳で海軍の志願兵となり、島根県の境港で機雷処理に当たったと聞いています。母も、女学校では勤労動員でまともに勉強ができなかったと嘆いていました。そうした祖母や、父母の人生に大きな影響を与えた戦争とは、いったいどんなものであったのか、なぜ起きたのか、ということを知りたくなったのです。

 もう一つの理由は、高校の国語の先生の影響です。その先生は戦時から戦後にかけての「現代小説」を大学で学んでいて、高校3年生の選択の授業で「現代小説」という講座を開きました。当時、私は生徒会の役員をしていたので、その生徒会の顧問でもあった先生の授業を取りました。その授業は大学の演習と同じ方法で進められ、野間宏、太宰治、大江健三郎、開高健などの作家の作品を、一人の生徒が一人の作家を調べて作品とともに報告し、皆で議論するというものでした。

 このため、毎週、それらの作家の作品を読んでいかないといけず、結構な量の小説を読みました。それらの本を読むうちに、その小説が書かれた時代背景に興味が湧くようになり、戦争から戦後にかけての日本史をもっと学びたいと思うようになりました。

 さらに、その先生は私が歴史に強い関心を持っていることを知っていたので、丸山眞男、神島二郎などの高名な学者の著作を紹介してくれました。こうした現代小説や、学者の著作を読むうちに、戦争の時代を大学で学びたいと思うようになったのです。

――どうして、大東亜共栄圏に関心を持つようになったのですか?

安達:「あとがき」にも書きましたが、立教大学文学部史学科で日本近現代史を教えていた粟屋憲太郎先生のゼミに入り、その演習の1年間のテーマが大東亜共栄圏だったことがきかっけです。

 粟屋先生は、1983年にアメリカのワシントンにある国立公文書で東京裁判関係の資料調査をしているときに、徳川義親の日記の原本を「発見」し、のちに静岡福祉大学教授となる小田部雄次先生と共同で研究を進めていました。徳川義親は尾張徳川家の第19代目の当主で、戦前から東南アジアと関係があり、アジア・太平洋戦争が起こると、第25軍の軍政顧問となりシンガポールに赴き、東南アジア軍政と関わりを持ちました。

 この徳川義親の活動を明らかにするためにも、粟屋先生は大東亜共栄圏のことを研究したいと思い、演習のテーマにしたと聞いています。ちょうど日本の学界でも、東南アジア軍政を研究することに対して目が向き始めていたこともあったと思います。防衛庁(当時)防衛研修所戦史部が、1985年に『史料集 南方の軍政』を出版したことも、関心の高まりを後押ししたと思います。

 私自身が強く関心を持つようになったのは、日本近現代史研究を進めるうちに、大東亜共栄圏の構想・政策がアジア・太平洋戦争が始まる1年前ぐらいから本格的に唱えられるようになったので、この構想・政策を研究することにより、戦争の原因や実態を明らかにすることができるのではないかと考えたからです。その際には、学部の演習での学びが基礎になりました。

――大東亜共栄圏とは一言でいえば、どういったものでしょうか。

安達:大東亜共栄圏とは、日本が東アジアから東南アジアをとりあえずの範囲として、経済的自給を目指した圏域と言えます。しかし、この経済自給圏は、場当たり的な政策のなかで構想が生まれ、十分な準備なく着手したこと、また日本の経済力が脆弱であったこと、連合国軍の攻撃や各所の人びとの抵抗に直面したことなどにより、実現せずに崩壊しました。だから、大東亜共栄圏とは、あくまでそれを建設しようとした政策にすぎなかったので、私は大東亜共栄圏形成政策というように、政策として捉えています。

――執筆で苦労されたことは、どのようなことですか。

安達:大東亜共栄圏について研究をしたいという考えは、大学院の博士後期課程に進んだときからありました。ただ、博士論文では、大東亜共栄圏建設に本格的に着手する前、つまりアジア・太平洋戦争開戦前までの日本の東南アジアへの経済進出を解明することに取り組みました。その後、大東亜共栄圏の研究を始めました。本書の企画が持ち込まれたのは2006年頃でしたが、まだ大東亜共栄圏の研究が十分ではなかったため、なかなか執筆するという返事ができませんでした。

 本書を書こうと決心して草稿を書き始めたのは、2016年です。二冊目の著書で大東亜建設審議会を分析して構想を解明し、さらに『岩波講座 日本歴史』で大東亜共栄圏に関するこれまでの研究を俯瞰する論文を書いたので、全体像をまとめることができるとの見通しがついたからです。

 それから書き上げるまでに6年間かかりました。ちょうど、草稿を書き始めた時期から、国際交流の仕事が忙しくなり、頻繁に海外出張したので、執筆する時間がなかなかとれませんでした。2019年に発足した東北大学内で学部を横断するプログラム大学院である日本学国際共同大学院の開設準備に取り組んだり、東北大学全体の研究プロジェクトである「社会にインパクトある研究」の一部門となる「創造する日本学」の研究プロジェクトに関わったりしたので、コロナウィルス感染症のパンデミックで海外に行けなくなるまで、そちらに関係する仕事や研究で忙しかったです。

 執筆は、ほとんどが夜遅く、大学の仕事が終わってからでした。また、休日の多くを、執筆に当てました。一番、苦労したのは、論文ばかり書いてきたので、なかなか読みやすい文章が書けなかったことです。担当編集者には、わかりやすい文章にするために、何度もアドバイスを頂きました。

――今回のご本で、最も読んでもらいたい部分はどこでしょうか?

安達:第2章です。大東亜建設審議会で大東亜共栄圏構想が検討されましたが、結局、日本政府・軍中央の戦争指導者のなかで、特に経済建設で意見をまとめることができなかったというところを読んでほしい。なぜなら、構想とそれに基づく政策立案がしっかりとできていないのに、政策を実施しても、うまくいくわけがないからです。

 また、構想がまとまらなかった理由を見ていくと、当時の帝国日本が構造的に抱えていた問題点がわかります。構想に違いが生じたのは、経済自給圏を指導国として運営するだけの経済力がないために、政策担当者によって、どの課題を主眼とするかという課題認識に違いが生じたからです。

 さらに大日本帝国憲法下における国家機構の分立性、つまり政府内の各省や統帥部が同等の権限を持っていたため、調整が困難だったのです。これらの問題点は、実際に大東亜共栄圏の建設しようとする過程で露わになり、建設を困難にさせていきます。

――大東亜共栄圏は、アジア地域に広く影響を残すことになります。特に戦時期に印象に残っている帝国日本の施策はどういったものですか?

安達:特に本書55ページに引用した、開戦を決めた御前会議での賀屋興宣大蔵大臣の説明が印象に残っています。

 賀屋は、日本軍が占領する南方地域では、それまで欧米植民地宗主国から輸入していた物資を日本には十分な経済力がないために供給できないので、相当長期間にわたって、現地一般民衆の生活を考慮することはできない、インフレーションや現地経済の混乱を招くが、これを度外視して邁進することが必要である、と述べています。

 賀屋の述べたとおり、日本を除いたアジア各地ではハイパーインフレーションが起こります。本書では220~221ページに、その状況を表で示しました。各地の経済は混乱し、多くの人びとが困苦な状態になりました。戦後の現地経済にも多大な影響をもたらしました。

――大東亜共栄圏は、戦後日本にどういった影響を残したでしょうか。

安達:日本が英米蘭と戦争し、大東亜共栄圏を建設しようとしたことから、日本の敗戦により外部から強制的に帝国日本が解体されました。そのことから、戦後日本では帝国であった記憶が薄れてしまったように思います。

 また、冷戦のもとで、日本の戦争責任追及が強くなかったために、大東亜共栄圏をつくろうとして、東・東南アジアの人びとに与えた被害についての意識も弱くなったように思います。大東亜共栄圏という言葉は知っているが、その中身はよくわからないといった時期が、戦後長い間続きました。

 さらに、大東亜共栄圏形成下では、東南アジア各地の資源や地形の調査が行われていました。そのときに得た現地情報は、戦後の役務賠償を通じた経済的な再進出につながりました。

――大東亜共栄圏の経験から、現在の日本に必要なこととはどのようなことでしょうか?

安達:大東亜共栄圏構想とは、東・東南アジアの人びととの対話のなかで生み出されたものではありません。日本の独善的で一方的な圏域構想でした。ですので、その失敗を教訓とするならば、世界の国々と対話することが重要ではないでしょうか。

 それも、大東亜共栄圏構想のときのように日本人だけがわかる言葉でなく、相手の立場に立って、相手がわかる言葉や方法で対話をしていくことが大事です。また、相手のことをよく理解することも必要です。戦後の日本では、そのように対応してきたところは多くあると思います。ですので、今後もそのような方法で対話を継続していくことが必要だと思います。

――著書について読者や周囲からの反響はどのようなものでしたか?

安達:読みやすかった、わかりやすかったという反応が多かったです。経済の問題を取り扱うため、難しいという反応になるのではないかと心配していたので、少し安堵しています。また、これだけ大きなテーマを、よくコンパクトに新書にまとめたね、という反応も多いです。

 私が特に印象に残っている感想は、総力戦のための経済自給圏構築について、一つには帝国日本の二面性といった構造的な面、もう一つには各地での施策の実施過程という細部についての両方を結び付けながら描いたのがよかったというものです。

 また、大東亜共栄圏というと東南アジアのことばかり取り上げることが多いが、中国の華北地域や満州国とのつながりも書かれていたのが特徴的ですね、という感想もありました。これらの感想は、私の意図したところを汲み取っていただいたものですので、嬉しかったです。

――大東亜共栄圏の研究で、今後の課題について聞かせて下さい。

安達:大東亜共栄圏という経済自給圏形成の政策を、世界史のなかで位置付ける必要があります。具体的には、他の国家が行った経済自給圏形成政策や植民地支配との比較を行うことです。この作業により、大東亜共栄圏形成政策の特徴がより明確になると考えています。

 また、大東亜共栄圏内部の政策の連携や、物資の移動についても、より詳細に解明していく必要があります。東南アジア・中国から日本への物資の輸送については、かなり明らかになりましたが、各地域間の物資の移動については、まだまだ研究の余地があると考えています。

――安達さんが1980年代後半から90年代に日本近代史の研究を始めてから、30年近く経ちました。この間の変化について、気づいたことなど聞かせて下さい。

安達:国内のことに関心が集中し、実証性が高い研究になっていると思います。また、軍隊への関心も高まっています。私が院生の時代は、軍事についての研究はどこかためらいがあったように思いますが、いまの若い研究者にはそうした感情はなく、地域と軍隊といったテーマをはじめとして、様々な側面からの軍事と軍隊に関する研究が多く出ている印象です。

 ただ、その反面で対外的なことや、大きな物語、つまり構造的な研究は少なくなってきています。それは、若手の研究者は早く博士論文を完成させなければならないという圧力が働いているからのように思います。若手の研究は、査読のある学術雑誌に掲載されるように、実証性を重視するものとなり、内向的なテーマが選ばれることになっているからでしょう。こうしたことから、対外関係を通して近代日本を捉える視角や構造的な視角など、大きな視点からの議論がしにくくなっています。

 私が院生の頃の日本近現代史研究は、現在をどのように捉えるのか、私たちは歴史上いまどこにいて、将来の社会はどこに向かっているのかという現代的な課題に対する意識と強く結びついて進められていました。それが研究を行う意義の一部分となっていました。実証性が高くなってきたということはよいことですが、意義がわかりづらい研究も増えているように思います。

――これからの日本近代史研究は、どういったことが求められていると思いますか?

安達:国際交流に関わっている立場から考えて、もっと欧米やアジアなどの海外の研究者と交流し、共同研究や議論をすることでしょう。いまの日本近現代史研究は、日本のなかで議論が完結しているように見えます。もっと、日本での研究成果を海外に発信する必要がありますし、海外での日本近現代研究の進展にもより関心を持って、その成果を取り入れることが必要だと考えています。世界史の一環として、世界の研究者とともに日本近現代史研究を進めていくことが、求められているように思います。

――今後の執筆について、また構想についてお聞かせ下さい。

安達:本書では詳細に触れることができませんでしたが、大東亜建設審議会での構想立案の背景には、企画院が立案していた国土計画(アジア・太平洋戦争後開戦後は大東亜国土計画になる)がありました。

 この計画は、大東亜建設審議会での答申が出た後も継続して検討が進められました。そして、日本やアジア各地における15年先の詳細な産業配分、人口配分などの計画案が作成されています。この大東亜国土計画について、すでに3つの論文を書いていますので、さらに研究を進めるとともに、関連する論文と一緒にして、研究書を刊行したいと考えています。

 また、現在、日中戦争下での中国華北(北支)地域の占領支配について共同研究をしています。その成果を論文にまとめるつもりです。華北経済支配については、今回は第5章で取り上げましたが、まだ未解明の点も多く、国立公文書館で新たな史料も公開されましたので、さらに研究を進めたいと考えています。

 さらに、ローマ大学と研究者たちと、1960年代の高度成長期の共同研究をしています。昨年、日本とイタリアの高度成長期を比較した論文集を刊行しました。この共同研究は、比較する地域を拡大して研究を進めるつもりです。

安達宏昭(あだち・ひろあき)

東北大学教授/専攻・日本近現代史
1965(昭和40)年東京都生まれ.2000年立教大学大学院文学研究科史学専攻博士課程後期課程修了.博士(文学).03年東北大学大学院文学研究科助教授,准教授を経て,13年より現職。著書に『戦前期日本と東南アジア――資源獲得の視点から』(吉川弘文館,2002年)『「大東亜共栄圏」の経済構想――圏内産業と大東亜建設審議会』(吉川弘文館,2013年)他共著多数.