2023 07/10
著者に聞く

『奈良時代』/木本好信インタビュー

「律令国家の黄金期」を彷彿とさせる復原の平城宮大極殿。

日本がまだ若々しく、何事もおおらかだったイメージがある奈良時代。だが歴史をひもとくと、皇位継承をめぐって長屋王の変、橘奈良麻呂の変、恵美押勝の内乱などの政争が相次ぎ、激しい権力闘争のなかに赤裸々な人間本来の姿が垣間見えた時代でもあった。通史『奈良時代』を著した木本好信さんに話を聞いた。

――まずうかがうのですが、木本さんのご専門は。

木本:奈良時代の政治史です。高校生時代に自転車通学していたのですが、通学途中に奈良時代の淳仁天皇とその母の陵墓がありました。いつもその陵墓をみて「どんな母子だったのだろう」と興味をもち、日本史が好きだったので、迷うことなく史学科に進学して、奈良時代政治史を卒論のテーマとしました。それ以来、半世紀の間、研究をつづけてきています。

――そうだったのですか。では今回、奈良時代の通史を書こうと思ったのはなぜですか。

木本:奈良時代は、藤原不比等、長屋王、藤原四兄弟、橘諸兄、藤原仲麻呂(恵美押勝)、称徳・道鏡、光仁・桓武天皇父子を中心として時代が推移していきますが、その各時代史の研究を進めて特化した論文を書き、通説とは異なる新説を提示して、それぞれ著書にまとめています。数例あげますと、長屋王の生誕年、藤原武智麻呂・房前兄弟の乖離説や藤原仲麻呂反逆説を排した孝謙太上天皇の政治権力奪取説などがあります。高校の日本史教科書に書かれたことと違う事実もあるのだという、わたくしの研究成果を新書という形で広く多くの方に知って理解していただきたかったのです。

――過去には藤原氏の人物の評伝を何冊もお書きです。特に思い入れが深い人物がいましたら。

木本:そうですね。奈良時代前期を対象とした藤原不比等の四子を対象とした『藤原四子』、中期の『藤原仲麻呂』、後期の『藤原種継』などです。やはり特に思い入れが深い人物は、卒論以来ずっと取り組んできた藤原仲麻呂ですね。仲麻呂は反逆者とされてきましたから、正当な評価がされてきませんでした。しかし仲麻呂の政策をみると、唐代の先進的な政治を検討したうえで、日本の実情にあわせた国民のための政治を行なっています。この点については、詳しく触れています。

――素朴な疑問なのですが、藤原氏の台頭はなぜ可能だったのでしょうか。

木本:「藤原氏の台頭」の理由は、「これだ」と一概には言えません。簡単にいえば、藤原不比等が父鎌足の「大織冠」という最高位の冠位を最大限に利用した蔭位制度(祖父・父が五位以上であれば、その官位に比例して子・孫が21歳になると、原則30の位階の途中に割り込ませ任用できる制度)を大宝令に規定して、子・孫を他氏族より早く昇進できるようにしたこと。それから不比等をはじめ、武智麻呂など各時代を通して、なぜか藤原氏に政治的に優れた人物が輩出したことでしょうか。

――なるほど。それにしても、皇位をめぐって多くの命が失われました。その理由は何でしょうか。

木本:奈良時代は、天皇を中心とした王権と、貴族を中心とした政治体制を目指す政治勢力が対抗していたと思います。後者の代表が藤原仲麻呂ですが、それは仲麻呂のキャラクターによる特異なことであって、全般的には天皇に権力があったかどうかは別にして権威に基づく前者の政治が一般的であったと考えています。良くも悪くも、その天皇位をめぐる親王・諸王の擁立を目的とする継承問題が貴族層を巻き込んで権力闘争が過激になり、政敵を死に追い込むことが多かったのが理由ではないでしょうか。

――多彩な人物が登場したなかで、とりわけ聖武天皇、そして孝謙(称徳)天皇の存在感が際立っているように感じられました。

天平勝宝8歳(756)に56歳で亡くなった聖武天皇の御陵。すぐ東に4年後に亡くなった光明皇后の御陵がある。

木本:平城京に遷都した元明天皇は孫の、元正天皇は甥の聖武天皇に皇位をつなぐために女性でありながらも即位し、聖武自身は天皇・太上天皇に32年間、その父帝を模範とした娘孝謙(称徳)も21年間、あわせて半世紀以上も在位していたわけですから、その存在感が際立つのは当然ですね。

――本書の終盤、桓武天皇は平城京を捨て、新都の建設を決意します。なぜでしょうか。

木本:平城京に遷都した元明天皇(天智天皇の娘だが、天武・持統両天皇嫡子の早世した草壁皇太子の妻)、その息子の文武天皇、姉の元正天皇、文武の嫡子聖武天皇、聖武の娘孝謙天皇、天武皇孫の淳仁天皇、称徳天皇(孝謙の重祚)と、歴代の天武皇統の在位した平城京を廃都にして、天武皇統を払拭、新都長岡京・平安京を造営することで天智天皇曽孫の桓武天皇は、新しく天智王朝の開始を天下に示そうとしたのが最大の理由だと思います。

――ずばりお尋ねするのですが、奈良時代とはどんな時代でしょう。

木本:終章でも述べたように、唐の律令をそのまま導入した大宝律令に拠りつつ、日本の現状にあったものとして工夫・模索しながら修正・整備する「格」、律令と格の施行細則である「式」を発布して、つねに政治改革に取り組んだ時代であったといえます。そこに同じ律令政治ですが、先例を重視して施策の方途を求める平安時代との大きな違いがあります。

また、本書で取り扱っただけでも「長屋王の変」、「橘奈良麻呂の変」、「恵美押勝の内乱」、「道鏡追放事件」、「氷上志計志麻呂事件」「氷上川継事件」(ともに聖武皇孫)、「井上(桓武天皇皇后)・他戸皇太子母子の廃后・廃太子事件」、「藤原種継暗殺事件」など多くの政争・政変がありましたが、そのいずれも皇位継承に関わるものでした。つまり奈良時代とは、皇位継承をめぐる「熾烈な権力闘争」が頻発し、そのなかに赤裸々な人間本来の姿がみえた時代でもあったといえるでしょう。

――初の新書でしたが、執筆にあたって工夫されたことや苦心された点は。

木本:なにより専門書と違って、わかりやすくということを第一に、古代史の用語には簡単な説明注を付けました。それから関心をもって、さらに知りたいと思った方々や卒論執筆の学生の要望に応えるために、本文中の参考文献注記を多くしました。また、研究史を丁寧に記述して、そのなかで先学の諸説を説明、検証・評価し、適宜史料をあげつつ、自説を展開して、結論を理解していただけるようにと心がけたつもりです。

――聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇、藤原仲麻呂、道鏡の筆跡を写真で見ることができ、非常に興味深かったです。

木本:どんなに文章で詳しく書いても人物像はなかなかみえてこないものです。「書は人なり」、その人物の筆跡を見れば、具体的に人間像を感じてもらえるのではないかと考えました。例えば光明皇后の筆跡は、臨書ですが力強く男まさりを想像させるわたくしの描いたイメージにぴったりです。

――出版に至るまでで何かエピソードがありますか。

木本:不用意な外出はひかえ、それでも外出しなければならない時には簡易消毒液を携帯して自分では最大限に注意したつもりでしたが、初校の校正中にコロナ感染症に罹患しました。高齢であるために高熱と50時間寝られないなかで、飛鳥時代史の卒論を書いた妻にも手伝ってもらって校正で苦労しました。編集担当の並木光晴さんと校正スタッフの方にはたいへんお世話になりました。

――読者のみなさん、とりわけ若い人たちに向けてメッセージをお願いいたします。

木本:若い世代に日本史に関心をもつ方が少なくなってきているように思います。それでもNHK大河ドラマで多い戦国時代や政治・経済的な国際化にともない近代史に興味をもつ方がいます。史料が少なく、それも漢文史料が中心の古代史が敬遠されて、古代史で卒論を書く学生も少なくなってきているようです。しかし、史料が少ないことを克服して、課題を追究するところに古代史の醍醐味があります。若い人たちにも古代史への関心をもってもらえたらと願って、本文中や末尾に過度とも思われる参考文献を注記しました。

――今後の取り組みのご予定は。

木本:いままでの奈良時代政治史を中心とする半世紀の研究成果を通史として『奈良時代』にまとめることができましたので、つづいて孝謙天皇や異母妹不破内親王を中心とする女帝論や女性をめぐる史実に迫る特化した論文・著書を飽きずに発表したいと考えています。

――ありがとうございました。

木本好信(きもと・よしのぶ)

1950年、兵庫県生まれ。駒澤大学大学院博士後期課程単位修得。博士(学術)。甲子園短期大学学長、龍谷大学教授などを歴任。専門分野は奈良時代政治史。『律令貴族と政争』(塙書房)、『藤原仲麻呂』(ミネルヴァ書房)、『奈良時代の政争と皇位継承』(吉川弘文館)、『藤原南家・北家官人の考察』(岩田書院)、『奈良時代貴族官人と女性の政治史』(和泉書院)ほか著書多数。