2022 11/24
中公新書の60年

時を経ても変わらぬ「教養」/渡邊十絲子【ここから始める中公新書 科学編】

新書には、「いま」のトピックに対する興味関心に応えるものと、時代を経ても価値の変わらない知へ読者を案内するものと、両方があるべきだと思う。中公新書には、どちらかといえば後者の役割を求めたい。最新の知見を加えたアップデートはもちろん必要だけれど、土台となるその研究分野の骨格を示してくれる新書を読むと、読者として背筋がのびる思いがする。人間は、いま・ここという制約を引き受けて生きていくものだが、その制約からいったん意識を離し、大いなる時間や空間の中に自らを位置づける視点に立つとき、もっとも健康な精神をもてるのではないか。

鎌田浩毅『地球の歴史(上・中・下)』(2016年)を読めば、138億年前の宇宙誕生から現在に至るまで、あまたの奇跡的な巡り合わせでわれわれの生きる環境が成立していることがわかる。スケールの大きな視点へといざなわれ、生活上の考え方とは異なる価値観のものさしが自分の中に生まれる。ものさしをいくつも持っておくことは、変化の激しい時代を生きていくうえで大切なそなえになる。

おなじ意味で、島泰三『ヒト―異端のサルの1億年』(2016年)も、類人猿から原人、そして現代のわれわれにつながる長い長い時間を実感させる。人間がそうとう恣意的に、おなじヒト同士を異なるグループに分けてとらえている現在を省みる契機になる。

また、日本では必要以上に分断されてしまった文系・理系の知を統合していくことが今後重要な課題になると思うが、そのための参考書も中公新書には多い。たとえば、酒井邦嘉『科学者という仕事』(2006年)は、文系と理系のあいだに橋を架けていく試みだといえる。互いの言葉が通じないと嘆くのではなくて、通じる言葉を取り戻していく、あるいは新しく創り上げていく。それは文系・理系の双方が意識していないとできないことなのだ。

それぞれの生物の「持ち時間」の違いをあざやかに示してスマッシュヒットとなった、本川達雄『ゾウの時間 ネズミの時間』(1992年)。カラスという、都会に暮らす人にもなじみのある生き物を題材に、人間と「人間以外の生き物」との関係をとらえなおす、唐沢孝一『カラスはどれほど賢いか』(1988年)。こうしたタイトルがロングセラーになっていることからも、読者が幅の広い「教養」を求めていることがうかがえる。これからも、その知的好奇心に応える中公新書であってほしい。

渡邊十絲子(わたなべ・としこ)

一九六四年生まれ。詩集『Fの残響』『千年の祈り』、エッセイ集『兼業詩人ワタナベの腹黒志願』、詩を読む人生の記録『今を生きるための現代詩』などがある。新書愛好家として、書評集『新書七十五番勝負』がある。