2022 06/27
著者に聞く

『新版 大化改新』/遠山美都男インタビュー

蘇我入鹿邸があったとされる甘樫岡の東麓を北方より望む

中国(唐)の律令制を模範として中央集権国家の樹立をめざした政治改革、大化改新(たいかのかいしん)。時の権力者である蘇我蝦夷・入鹿父子は、「改革の障害」となる存在だったため、中大兄皇子と中臣鎌足により武力で排除されたというイメージがあるが、それは正しいのか。大幅改稿による『新版 大化改新 「乙巳の変」の謎を解く』を著した遠山美都男さんに話を聞いた。

――旧版(1993年6月刊の『大化改新』)を執筆された経緯をうかがえますか。

遠山:中臣鎌足の墓ではないかと言われた大阪府高槻市の阿武山古墳が話題になったおりに、ある一般向けの歴史雑誌で乙巳(いっし)の変のドキュメントの執筆をもとめられたのです。その作業の過程で『日本書紀』を初め乙巳の変に関する関連史料に問題が多いことに気づきました。それを論文にまとめたのですが、より多くの読者にこれを伝えたいと思っていたところ、学習院大学の故井上勲先生(日本近代史)に中公新書を紹介していただいたのです。

――そうだったのですか。ところで、昔の教科書で乙巳の変という言葉は習わなかった気がします。大化改新と乙巳の変はどのような関係にありますか。

遠山:大化改新はあくまで7世紀半ばに行なわれた政治改革のことです。かつては改革のきっかけとなった政変(最高権力者、蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされた事件)も併せて大化改新の名で呼ばれていました。現在も両者は一般的に分かちがたく結びついていますね。それは政変を起こした勢力が当初から政治の変革をめざしていたに違いないという思い込みがあるためです。大化改新とは別個に政変の実像と意義が追究されるようになって、大化改新と区別して政変を呼称する必要が生じ、乙巳の変という用語が考え出されたのだと思います。

――大幅改稿を思い立ったのはなぜですか。

遠山:軽皇子(孝徳天皇)が政変の黒幕(首謀者)であったとする点は新版でも基本的に変わりないのですが、孝徳に王位を譲り渡した皇極天皇(女帝)の立場について説明を加える必要があると考えたのです。通説では皇極は事前に何も知らされておらず、入鹿暗殺を目の当たりにして驚愕のあまり王位を投げ出したのだと言われています。皇極は強制的に退位させられたのだとも見なされています。皇極があくまで主体的な判断で孝徳に譲位を行なったことを解明するためには、皇極を含めた女帝の保有した権力と王位継承への関与について改めて説明する必要があると考えたのが新版を執筆する主要な動機だったと言えます。

――旧版と今回の新版の大きな違いは何でしょうか。

遠山:旧版では女帝一般が王位継承において「第三の立場」にあったので、しかるべき皇子に譲位することが半ば義務づけられていたと説明していました。これでは女帝は「中継ぎ」ではないと言っておきながら、女帝は「中継ぎ」だったことを認める結果になっていたのです。

それに対して新版では女帝は次期大王を指名・決定する権限を保有しており、弟の孝徳や皇子の中大兄(後の天智天皇)らによる直接行動に突き動かされて、史上最初の生前譲位に踏み切る決断をしたのだと考えました。政変の展開過程において蘇我氏本家の後押しする古人大兄皇子(舒明天皇の皇子で、中大兄の異母兄)の動向を重視するという立場は新版でも補強されていると思います。従来、蘇我氏本家や中大兄の傀儡と見なされて主体性がまったく認められていなかった皇極女帝の再評価が、旧版と新版で最も異なる論点と言えるでしょう。

――蘇我入鹿の暗殺は、中大兄皇子と中臣鎌足が中心となって成し遂げたと教科書などに書かれていました。それは事実と異なるのでしょうか。

遠山:基本史料である『日本書紀』や『家伝』上(鎌足伝)の記述をそのままなぞればたしかにそうなります。しかし、両書ともに中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原氏の始祖)が現在の国家体制の基礎を築いたとする歴史観でまとめられた、あくまで後世に成った歴史書です。時の政権が自身を正当化するために作り上げた「歴史」や「物語」を鵜呑みにする必要はまったくないはずです。

――そうした認識はどのようにして出来上がったのでしょう。

遠山:養老四年(720)に完成した『日本書紀』は天智天皇の血統を色濃く受け継いだ文武天皇とその後継者である聖武天皇の正当性を説くために編纂されたと考えられます。この文武―聖武の皇統の形成になくてはならない貢献をしたのが鎌足に始まる藤原氏であり、実際に文武―聖武の擁立に尽力したのは鎌足の子の不比等でした。『日本書紀』は編纂当時の皇統が天智と藤原氏を中核として形成されたことを正当化するために、乙巳の変の中心人物を中大兄と鎌足にする「王権神話」を創造したのです。

その後、不比等の孫、仲麻呂(恵美押勝)の全盛時代になると、当時の天皇家と藤原氏のなかでも南家(藤原恵美家)との関係性を強調しようとして『家伝』上(鎌足伝)がまとめられることになりました。『家伝』上の乙巳の変に関する記述は仲麻呂によってデフォルメが加えられた内容になっています。

――乙巳の変はなぜあのタイミングで起こったのでしょうか。

欽明天皇の血を受け継ぐ子孫は、敏達天皇に始まる敏達統と、敏達の異母弟用明天皇に始まる用明統に分かれた。厩戸皇子(聖徳太子)と息子の山背大兄王は用明統に属していた。

遠山:やはり政変のおよそ1年半前、皇極二年(643)に山背大兄王(聖徳太子こと厩戸皇子の息子)とその一族が襲われて滅ぼされた事件がきっかけになったと言えます。それは入鹿によって単独で強行されたのではなく、皇極女帝の命令にもとづいて行なわれたと考えられます。この強硬措置によって王位継承問題が一気に煮詰まった、王位・王権を独占した敏達天皇の系統(敏達統)内部の抗争が一挙に熾烈なものになったということです。もし用明天皇の系統(用明統)に属する山背大兄があの段階で滅びず、敏達統との対立・抗争が続いていたならば、乙巳の変とは異なるレベルの激しい闘争が起こって、支配者層の分裂はより深刻なものになった可能性があります。

――蘇我氏本家はなぜ滅ぼされたのでしょうか。

甘樫岡から飛鳥寺(画面の左上)を望む

遠山:『日本書紀』は蘇我入鹿が大王家に取って代わろうとした、つまり王権の簒奪を企てたので一族もろとも滅ぼされたのだと描いていますが、これはあくまで中国の唐帝国に対抗して国家を形成した時の政権の公式見解にすぎず、事実とは異なる次元の話です。蝦夷・入鹿がどのような国家プランをもっていたのか、彼らが滅ぼされてしまったために明らかにする術はありませんが、蘇我氏の血を受け継ぐ古人大兄を擁する国家体制を構想していたのではないかと考えています。その古人大兄を戴くという一点が政変を起こした勢力にとっては断じて許し難かったのではないでしょうか。

――乙巳の変の勃発に、当時の国際情勢が関係したというのは本当ですか。

遠山:乙巳の変のおよそ3年前、高句麗の泉蓋蘇文(せんがいそぶん)が起こした政変は孝徳らのクーデター計画に大きな影響をあたえたことは間違いないでしょう。この事件は石母田正『日本の古代国家』によれば、東アジアの諸王権における有力貴族による権力集中という類型で把握されています。それも有効な見方なのですが、宮中における武装蜂起によって王位継承問題に決着をつけるという点で、高句麗の政変は乙巳の変を起こした勢力にとって貴重な先例になったはずです。

――初の譲位の意義とは何でしょうか。

遠山:皇極から孝徳への譲位はあくまで偶然の結果であって、皇極は強制的に退位させられたのだと理解する研究者はいまだに少なくありません。しかし、それは最初から皇極女帝に主体性を認めていないから、そのように言うのであって、彼女が主体的権力をもっていたことを重視するならば、孝徳への譲位は敏達統を内部分裂によって瓦解させてしまわないために採られた苦肉の策であったと考えられます。それと同時に東アジアの激動のなかで王位の交替、すなわち権力の譲渡をいかにスムーズに実現するかという実験的な試みでもあったのです。当時は大王が亡くなると、殯(もがり)と呼ばれる長期にわたる葬送儀礼が行なわれ、その間王位は空白であり、政治的に危険な状態が長く続いたのです。そうした危機を回避するためにも生前譲位は必要な選択であったと言えるでしょう。

――古代における女帝の存在感とは。

遠山:私は古代女帝の本質とは世襲王権の存続を支えた「偉大なる母」であったと考えています(8世紀の元正天皇と孝謙・称徳天皇はこれとは異なりますが)。7世紀にあらわれた女帝には彼女を輔佐したと言われる有力な皇子たちの存在があったとされています。推古における厩戸皇子、斉明(皇極)における中大兄皇子らです。これまでは男性(男系)中心の歴史観にわざわいされて、彼ら皇子が女帝をサポートした側面ばかりにスポットが当てられてきましたが、女帝が有力な皇子をミオヤ(母親)としての立場から庇護し、教え導くという側面にも今後関心が寄せられるべきだと思っています。

――なるほど、そうした見方というのは非常に新鮮ですね。ところで、本書の登場人物の中でとりわけ興味深い人物がいたら教えていただけますか。

遠山:高向国押(たかむくのくにおし)。蘇我氏の分家の長でありながら、クーデターを起こした勢力に通じており、蝦夷によるカウンター・クーデターを結果的に封ずる役割を果たした人物です。蘇我氏でありながら宮廷に仕える物部と呼ばれる集団を配下にして、宮門の守衛や刑罰の執行を職務としていました。ドラマ化するならば、ぜひ中村獅童さんに演じてもらいたい役柄です。

――意外な人物が挙がってちょっと驚きました。それでは最後に読者へのメッセージがありましたら。

遠山:乙巳の変も含めて7世紀の歴史、古代国家の形成史に関する人口に膾炙した「物語」の見直しの必要を感じています。この時代の主人公は天智天皇と天武天皇であったとされており、彼ら兄弟の手によって段階を経て古代国家は出来上がったのだと一般に広く認識されていると思います。教科書の記述などもそうなっていますね。

しかし、本書でも詳述したように、たとえば乙巳の変に限って言えば、当時の政治過程で中心人物であったのは皇極天皇や孝徳天皇であって、まだ若い天智天皇は脇役に甘んじていたと考えられます。白村江の戦いは斉明(皇極)天皇を傀儡として奉じた天智天皇が始めた戦争であったとされ、それに失敗したことにより天智は長い間正式に即位できなかったとされています。壬申の乱も天智天皇が弟の天武ではなく我が子大友皇子を後継者に立てようとして起こったということになっていますね。それに反撥した天武によって新しい国造りが開始される……。このような天智・天武を主人公にした通俗化した「物語」を相対化する必要を改めて痛感しているところです。本書が読者の皆さんに7世紀を初め古代史の「物語」の相対化について考えていただくきっかけになれば、著者として幸いに存じます。

――ありがとうございました。

遠山美都男(とおやま・みつお)

1957年、東京都生まれ。学習院大学文学部卒業後、同大学大学院人文科学研究科に進み、博士(史学)を取得。専門分野は日本古代史。『壬申の乱』『白村江』『天皇誕生』『蘇我氏四代』『大化改新と蘇我氏』ほか著書多数。