2022 03/11
著者に聞く

『親孝行の日本史』/勝又基インタビュー

孝子・安永安次(やすながやすじ)の生地である長崎県島原市加津佐町津波見名(つばみみょう)。(2007年撮影)

儒教伝来以降、日本に強く影響を与え、ついには軍国主義下の「忠孝」道徳まで至った親を大切にするという徳目、「孝」。多くの逸話や表彰制度から、『親孝行の日本史』で、その通史を描いた勝又さんに、お話をうかがいました。

――まず、近世文学に関心を持ったきっかけを教えてください。

勝又:大学2年生の時です。もともとは近代文学研究を志していたのですが、太宰治の『新釈諸国噺』という作品が転機になりました。これは井原西鶴の作品を太宰が彼流にアレンジした短編集なのですが、そのうちの一篇「貧の意地」という作品を読んで、雷に撃たれたような衝撃を受けました。

その時、「これは太宰が偉いのか西鶴が偉いのか」という疑問が湧きました。そこで図書館で元ネタ、つまり西鶴作品を開いて、太宰と西鶴とを比べてみたんです。その時の私の結論は「西鶴が偉い」。これが契機となって、卒論では西鶴を取り上げることにしました。

――親孝行に注目した経緯をお聞かせくださいますか。

勝又:私が大学院に入った25年ほど前は、江戸文学研究の世界では親孝行は悪者扱いで、孝を批判・風刺しているものこそ文学的価値が高い、という風潮でした。そんな中、恩師の中野三敏先生だけは「江戸時代には教訓こそが文学だよ」と常々おっしゃっていました。現代の眼からは評価が低いわりに、当時は多くの作品に取り上げられた孝には、江戸時代を見つめ直す手がかりがあるはず。そう考えて研究に取りかかりました。これが一つ。

もう一つは、文学作品の中でも、完全なフィクションではなく、実在の人物に即したような作品を研究対象にしたい、という思いがありました。孝子伝には、実在の孝子がいて、表彰する領主がいて、顕彰する学者や庶民がいて、孝子を記した作品があります。いろいろな要素が絡み合う、面白い研究対象だと思いました。

――『親孝行の日本史』には、「孝」のエピソードがふんだんに盛り込まれています。勝又さんが思い入れのある孝子など、お聞かせください。

勝又:たくさんいますが、一人挙げるとすれば、江戸時代中期の勤王思想家・高山彦九郎ですね。彼自身も孝子でしたが、他の孝子に興味を持っていた、というところが独特です。

彦九郎は北海道と四国を除いた日本全国を旅して、詳細に日記へと記しました。その旅は従来、勤王思想の遊説だと言われてきましたが、訪れた先々で、「ここに孝子良民はいないか」と尋ねて、いれば実際に訪問する、というようなこともしていました。私は彦九郎の日記を片手に彼が孝行者に会った土地を訪ねて、彼の旅を後追いしました。当地の図書館で郷土資料を読むだけでなく、御子孫のお宅へ伺って話を聞いたり、有名なエピソードの舞台となった場所に立って「うーん、ここでの事か」と想像してみたり、と手当たり次第に調べました。この時に集めた資料や体験は、本書のベースになっています。

その頃はちょうど息子が生まれたばかりで、山の中でベビーカーを押しながら孝子の墓を探し歩いたのは良い思い出です。また福井県若狭地方の孝子の菩提寺を訪ねた時には、孝子の墓石が廃棄されそうだという話をご住職から聞いて、「我が家に引き取っても良いか」と家族会議を開いたこともありました。結局その墓石は孝子のものではないことが分かったので、事なきを得ました。

――本書を執筆する上で、苦労したところはどこですか。

勝又:専門が江戸文化なので、今回の執筆に際して、上代から中世、そして明治から現代までを記述したのが、苦労したところであり、勉強になったところでもあります。とくに軍国主義と孝との関わりは、いずれは取り組まねばならない問題だと思っていたので、良い機会になりました。

教育勅語や軍国教育と忠孝思想との関わりについては、皆さんある程度のイメージを持っておられると思います。その通りに記したのではつまらない、期待のもっと先まで行きたいと思い、軍国主義時代の少年向け雑誌を頭から読み、孝に関する記事をピックアップして行きました。読み進むにつれて戦況の行き詰まり感がじりじりと高まって来ることが感じられ、ついに昭和18年11月の雑誌で「少年諸君 軍人勅諭を奉唱せよ」という記事に出会った時にはゾッとしました。孝は忠とセットで子供たちに勧められましたが、最後には切り捨てられたのです。

――本書を書き終えて、気づいたことがあれば。

勝又:孝文化の地域的な広がりです。大名や将軍が表彰したことや、戦前の忠孝思想などから、孝というと体制に近い、中央集権的なイメージがあると思います。私もそう考えていました。しかし、土地の有力者が孝を勧め、孝子を表彰する、という行為の裾野は、自分の想像を超えて広い、ということに気づかされました。

新書第7章では大正期に表彰が行われた朝鮮、台湾、中国関東州の3つの植民地で日本が行った表彰について記しましたが、もっとその辺境を見極めたくなりました。たとえば、北海道や沖縄で行われた表彰も、日本政府による新領地での表彰、という観点から考え直す必要があるでしょう。また、北米や南米に移民した日本人のコミュニティでは、親孝行の表彰はなされなかったのでしょうか。現地で発行されていた日本語新聞を探せば事例が出てくるかもしれません。

――刊行後、反響はいかがでしょうか。

勝又:日本経済新聞で井上章一氏に書評を書いていただいたのは嬉しかったです。氏と面識はありませんが、その著書『つくられた桂離宮神話』は、個人的に本作りのお手本にして来たからです。氏のような、文章はあくまでも分かりやすく、でも切り口は革新的に、という本が自分にも江戸文化で書けないか。そのようなことを構想段階から常に意識して来ました。また、本を出せば、どこかで誰かが読んでくれている、という書物出版の力を再認識しました。

――今後のお仕事について教えてください。

勝又:色々あります。いま取り組んでいるのは、江戸の写本文化についての研究です。江戸は木版印刷の華やかな時代と認識されていますが、じつは写本こそが文化の中心だったのではないか。そう考えて、7年前から米国UCバークレー校に所蔵される旧三井文庫の写本約3500点を調査しています。写本は実際に現物を手に載せてみないと判別できない要素が多いので、昨今のコロナ禍によって残念ながら調査は滞っています。

他に気になっているのは桃太郎です。浦島太郎やかぐや姫などの古い昔話と違って、桃太郎は江戸時代生まれです。漢文に訳されたりパロディー化されたりと、江戸時代には様々に弄ばれました。もちろん教訓の材料にもなりましたが、それは帝国主義時代の描写へと受け継がれて行きます。桃太郎をどう見るか、どう扱うか、という視点から、新たな文化史が描けるのではないかと考えています。

あと、これはまだ思いつきの段階ですが、生物学者、社会学者の友人と「釣りエサの文化史」という共同プロジェクトを始めたいね、と話しています。釣りは生物との対話であり、生活を支える生業であり、さらに文化でもあります。たとえば「エビで鯛を釣る」という慣用句がありますが、江戸時代には「麦飯で鯛を釣る」「しゃこで鯛を釣る」などとも言われました。ひとつのエサに生物学、社会学、人文学の三方から切り込んだら、おのずと文理融合となって面白いんじゃないかな、と空想しています。

――ありがとうございました。

勝又基(かつまた・もとい)

1970年生まれ.九州大学大学院博士後期課程修了.ハーバード大学ライシャワー日本研究所客員研究員,ブランダイス大学客員教授を経て,現在明星大学教授.著書に『落語・講談に見る「親孝行」』(NHK出版)『親孝行の江戸文化』(笠間書院)『怪異を読む・書く』(国書刊行会,共編著)『古典は本当に必要なのか、否定論者と議論して本気で考えてみた。』(文学通信,共編著)ほか