2020 03/06
私の好きな中公新書3冊

なつかしい「理想の教科書」/與那覇潤

入江昭『日本の外交 明治維新から現代まで』
小菅信子『戦後和解 日本は〈過去〉から解き放たれるのか』
波多野澄雄『国家と歴史 戦後日本の歴史問題』

大学で日本の近代史を教えていたころ、中公新書はまさに理想の教材だった。廉価で入手しやすく、現在に通ずる大きなテーマについての全体像を、歴史的な奥行きとともに伝えてくれる。紹介する3冊はどれも、ゼミで輪読するテキストに選んだ作品だ。

戦前期を主に扱う『日本の外交』が描き出した、「政府の現実主義と民間の理想主義」のテーゼは、専門家のあいだで常識となったいまでも、なお多くの読者を驚かせるに足るだろう。無残な敗戦を経た後でふり返るかぎり、現実を見失って暴走したのは「政府」の側だという――「民間」の免罪と裏腹の――先入見に、つい私たちは囚われるからだ。しかしそれを一度取り払わないと、過去の実像は見えてこない。

アウグスティヌスの正戦論まで遡る『戦後和解』を読むと、近現代の国民戦争に対する責任を考えるにも、じつはそれ以前と対照する視点が必要なことに気づかされる。近世までの傭兵による戦争では、和解は記憶ではなく「忘却」を通じて行われるのが普通だった。いま、そうした解決ができなくなったのは、自国への帰属を正統化する物語――「歴史の記憶」を兵士たちに刷り込むことで、戦意を調達してきた近代以降の負債である。

『国家と歴史』が扱うのは東京裁判以降の戦後史だから、時間軸としての射程は短い。しかし痛切に読者の胸をうつのは、同時代には「進歩」として語られた平成初頭の首相たちによる「侵略戦争」という用語の採用が、じっさいには国内での戦後合意を破綻させたとする示唆である。政府は(中国戦線を除き)あくまで侵略とは言わないが、被害国からそう呼ばれている事実は認め、平和憲法の護持こそが反省の証だと表明する。その作法で左右が折りあうやり方は、不可能になって久しい。

どの書物もアクチュアルな主題と盛りだくさんの内容が、平明な文体で綴られ、学生にも好評だった。眼前の話題を論じるさいに無意識に陥ってしまう構図を、数十~数百年単位の視座をとることで、いったん崩す。そうした思考のリフレッシュをもたらす「歴史の効能」が、携行可能なポケットサイズで手に入るところに、日本のペーパーバックの栄光があったと思う。

もっともそれはもうすぐ、なくなってしまう文化なのだろう。近年話題になる歴史の新書には、人名や事項名などの固有名詞を主題に掲げて(むろんそれも新書の大事な役割だが)、仔細を解説する、いわば「好事家が引くための丁寧なウィキペディア」が多い。いっぽう単行本の世界で流行の「ビッグ・ヒストリー」になると、むしろ一千万年単位の時間軸を採用し、人類学や進化生物学(あるいはSF的想像力)の領分に属する書籍が中心で、もはやそれらを歴史学と呼ぶ人はほぼいない。

はじめるに時があり、終えるにも時がある。人びとが生きるのにもう歴史を必要としないなら、老醜をさらすよりもせめて、華やかな葬列を出したい。ほんとうにそれを大切にした人の手もとには、たとえば遺影や形見分けのように、これらの書物が残っていくのだと思うから。

與那覇潤(よなは・じゅん)

歴史学者。1979年生まれ。東京大学教養学部卒業、同大学院総合文化研究科博士課程を経て、2007年から15年まで地方公立大学准教授として教鞭をとる。専門は日本近現代史。博士(学術)。著書に『翻訳の政治学』(岩波書店)、『帝国の残影』(NTT出版)、『中国化する日本』(文春文庫)、『日本人はなぜ存在するか』(集英社文庫)、『知性は死なない』(文藝春秋)、『歴史がおわるまえに』(亜紀書房)、『荒れ野の六十年』(勉誠出版)がある。近業に「「歴史」の秩序が終ったとき―三島事件と歴史家たち」(『文學界』2019年10月号)、「歴史がこれ以上続くのではないとしたら―加藤典洋の「震災後論」」(『群像』2020年4月号)。