2020 02/10
私の好きな中公新書3冊

失われた「道化」の復権/後藤護

村井則夫『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』
廣野由美子『批評理論入門 「フランケンシュタイン」解剖講義』
高橋康也『道化の文学 ルネサンスの栄光』

2019年の話題をかっさらった映画『ジョーカー』を観た人は多かろう。60年代に文化人類学者・山口昌男を中心に盛り上がった血沸き肉躍る道化論とは異なるかたちで、先行き真っ暗な汎世界的経済格差を映し出すように、悲壮極まりない道化=ジョーカーがそこには描かれていた。同じく2019年に公開された『パラサイト』も、韓国の経済格差を風刺とブラック・ユーモアたっぷりに描いたという意味で同傾向の作品と言える。

とりわけ、その副題「半地下の家族」はじつに示唆に富む。というのも、地上/地下のあいだにあり、金持ち一家にパラサイトする貧乏一家の暮らす「半地下」とは、中心/周縁のあいだをドタバタ走り回る「道化」の空間的メタファーなのだから。『ジョーカー』がベネチア金獅子賞を、『パラサイト』がパルムドール最高賞を受賞している事態からも、道化という「失われた」テーマが、より切実な問題として「復権」求めて噴火寸前に思えて仕方がない。そうした世相に鑑みて、改めて道化について考えるための三冊を選んでみた。

まずは哲学畑から『ニーチェ―ツァラトゥストラの謎』。キリストの模倣にはじまる、ツァラトゥストラのほとんど際限なき自己パロディーぶりを論じる手並みだけで十分すぎる読み応えだが、そこからさらに、すべてを相対化するニーチェお得意の「遠近法主義/相対主義(パースペクティヴィズム)」を絵画領域と切り結ぶアナロジーが本書の白眉か。「パースペクティヴ」なる語がもともと「アナモルフォーズ」という、立ち位置によって見え方が変わる「歪曲絵画」と同じ意味であったことを指摘。そのうえで、絶対的真理なるものをコケにする哲学/絵画に「マニエリスム」という接点を見出す。この道化的アクロバットには拍手するしかない。「これは新書ではない」とマグリット風の諧謔を弄したくなるほどに内容「超」充実。

続いて理論畑から『批評理論入門』を。「アイロニー」「ポリフォニー」「メタフィクション」などの小説技法が『フランケンシュタイン』を素材に解説されるが、実はこれら技法はみな「道化の文学」の属性でもある(一義的な解釈をコケにする、という意味で)。ゆえに本書は、テクスト上に迷い込んだ道化に焦点をあてたものと言え、村井の『ニーチェ』における脱‐中心化の営みにも通じる一冊。とりわけ単純な二項対立を攪乱する「脱構築」とは、トリックスターたる道化の別名に他ならない(思想家ジャック・デリダのダジャレおじさんぶりを見よ!)。

最後に文学畑から『道化の文学』を。エラスムス、ラブレー、シェイクスピア、セルバンテスという代表的な道化文学者四人が論じられる。とりわけ注目したいのは、道化は結局スケープゴートとして殺されるから、これからの世の中、したたかに生き残る悪党(ローグ)が必要だという本書エピローグの指摘。ヒップホップ文化のワルなサヴァイヴァル術を、1977年時点でこの英文学者は先取りしていた(?)。この「辛い時代」(ディケンズ)にこそ復刊希望。

後藤護(ごとう・まもる)

1988年山形県生まれ。暗黒批評。「超」批評誌『機関精神史』の編集主幹を務める。ジェームズ・フレイザー『金枝篇』(国書刊行会)の訳文校正を担当中。初の著書『ゴシック・カルチャー入門』(Pヴァイン)が話題を呼んでいる。