2019 05/30
私の好きな中公新書3冊

ありのままに意識を向ける/宮地尚子

野口悠紀雄『「超」整理法 情報検索と発想の新システム』
下條信輔『サブリミナル・マインド 潜在的人間観のゆくえ』
佐伯順子『遊女の文化史 ハレの女たち』

1993年の発刊当時、爆発的な人気を得た『「超」整理法』。私も買って、さっそくその内容の一部を実践し始めた。たとえば、角形2号封筒による時系列のファイリング。

分類をしてはいけない、時系列で並べなさいというのが、『「超」整理法』のみそだ。分類しないという方法は画期的だった。今回読み直して思ったのは、だからこそ、分類とは何かを考えるのに、とてもいい本だということだ。そして、人と共有するための分類と、自分だけのための分類は違うのだということを、つくづく感じた。自分のための分類は、今の自分と未来の自分が共有できればいいわけで、今の自分から未来の自分への「申し送り」なのだと気づいた。

「<君の名は>シンドローム」「家なき子ファイル」「ポケット一つ原則」など、ネーミングも抜群。というか、問題に名前をつけること自体が、整理の、そしてクリエイティビティの重要な一歩なのだ。四半世紀がたち、IT環境がすっかり変わって、当時はできなくて現在できるようになったことも多いが、それが何を変えたのかもよくわかる。同時に、そこで失うものは何かも考えた方がいいかもしれない。

さて、かたづけないことは本当に悪いことなのか。
今日も、私の机の上にメモやら資料やらが散らかったままになっている。せめて、「超」整理法的には片付けたいと思う。でも、手が動かない。体が動かない。おそらく、片付けてしまったら、そのことは「終わったこと」になってしまって、ワーキングメモリーから消えてしまうことを、私(の潜在意識)は恐れているのだと思う。

整理はできなくても、そのあたりに散らばせておくことで、潜在意識に働きかけさせているのだ。それらは腐葉土のように、次の種を生み出し、育てている。そんなことを考えるのは、『サブリミナル・マインド』や同じ著者のちくま新書『サブリミナル・インパクト』からの影響が大きい。

人間は、自分のしていることをあまり自覚していないし、自分の意志でやっているように思えることも、実は置かれた状況や周りからの影響であることが少なくない。極度の緊張が恋愛感情を高める「吊り橋効果」や、入会の条件やテストが厳しいほど活動が面白く感じられる「入会儀礼効果」など、実例もたくさんあって、参考になる。
人間の行動は何によって規定されるのか。潜在意識への働きかけは、今やマーケティングにおいておそろしいほど使われているが、だからこそ、サブリミナルな心理的からくりを熟知しておきたい。

性とは何か、文化とは何か、遊びとは何か。神々との戯れ、死の祝祭。聖と生と性の関係をかんがえるのに、『遊女の文化史』は役立った。性については、崇高なものとしてあがめ奉るか、徹底的に侮蔑するかの、両極端な捉え方に陥りやすい。そして、それが遊女という存在に投影されるわけだが、その振り幅の大きさを踏まえつつ、遊女と文化がどう結びつけられてきたかが歴史的に描かれている。遊女について書かれた本には、女性蔑視や、性蔑視、興味本位のものも多いが、この本は違う。遊女の多くが置かれていた、悲惨な生活環境を無視しているわけでもない。不幸が美化されてしまうこと、死ぬことが運命付けられやすいことなど、性的に色づけされた女性の行く末を考える上でも参考になった。

宮地尚子(みやじ・なおこ)

兵庫県生まれ。1986年京都府立医科大学卒業。1993年同大学院修了。1989‐92年、米国ハーバード大学に客員研究員として留学、近畿大学医学部衛生学教室勤務を経て、現在、一橋大学大学院社会学研究科地球社会研究専攻・教授。精神科医師。医学博士。専攻は文化精神医学、医療人類学、トラウマとジェンダー。著書に『異文化を生きる』(星和書店、2002)、『トラウマの医療人類学』(みすず書房、2005)、『環状島=トラウマの地政学』(みすず書房、2007)、『性的支配と歴史――植民地主義から民族浄化まで』(大月書店、編著、2008)、『傷を愛せるか』(大月書店、2010)、『震災トラウマと復興ストレス』(岩波ブックレット、2011)、『トラウマ』(岩波新書、2013)、『ははがうまれる』(福音館書店、2016)ほか