2019 03/26
著者に聞く

『小泉信三―天皇の師として、自由主義者として』/小川原正道インタビュー

代替わりを前にして、明仁天皇についての関心が強くなっている。31年にわたる在位とともに、象徴天皇として初めて即位し、その役割をどのように担ったのか――。天皇自身の来歴への関心も強まったといえよう。小泉信三は、戦後直後から天皇の“教育係”を務め、大きな影響を与えた人物として知られる。その評伝『小泉信三―天皇の師として、自由主義者として』を描いた小川原正道さんに、本書および小泉信三についてあらためて訊いた。

――もともと小泉信三について、どのようなイメージを持っていましたか。

 私は大学から大学院まで慶應で、いまも慶應の教員をしていますから、慶應の中でよく語られる小泉信三のイメージ、というのを共有してきたと思います。「練習は不可能を可能にす」あるいは「善を行うに勇なれ」といった、学生に対する強いメッセージを残した戦時中の名塾長というイメージですね。

 父親も塾長で、若い頃から才能を見出されて慶應の教員となり、経済学者としてマルクス主義の問題点をはやくから指摘し、若くして塾長になり、困難な時期の慶應を背負って立った、典型的なエリートという印象もありました。背も高く、戦災で火傷をするまでは美男子として知られていましたし、そういう意味でも憧れの対象でしたね。

 また、戦後は自由主義陣営に身を置くべきだとして全面講和論者と論争し、皇太子教育にも強い影響を与えて象徴天皇制の樹立に寄与した、そうした肯定的印象が強かったです。

――執筆後、小泉信三について印象が変わったことはありますか。

 経済学者としては、思想的な格闘の末に命がけでマルクス主義者と論争していた点や、塾長としても日米戦争を避けたいと思いつつ、これに協力していく葛藤と苦悩があった点、また、戦後の皇太子教育も、どう象徴としての天皇を維持していくのか、ここにも模索があったように思います。

 結果として生み出されてくる言説やメッセージは簡潔でわかりやすい面があるのですが、その背後に、格闘や葛藤、苦悩、模索、といった、名塾長というイメージでは語りきれない側面があったことを感じ取ることができました。

――小泉信三が塾長として慶大生を戦争に駆り立てた話など、戦争協力についても忌憚なく描いています。彼の戦争協力について、いまどう評価しますか。

 日本が戦争に負けたら「三等国」「四等国」になってしまう、あるいは日本が国として地球上に残るかどうかもわからない、といった小泉の危機感は、おそらく日本の独立を終始訴えた福沢諭吉以来の強烈なもので、そうした危機感にかき立てられて戦争に積極的に協力したのは、やむを得ないことかと思います。

 ただ、小泉自身が戦後語っているように、米国に勝てるとは思っておらず、少しでも有利な条件で講和したい、という思いで士気を鼓舞した、というのは、当時の政治家や軍人、知識人にはよくあることかもしれませんが、一指導者として無責任の観も否めないでしょう。実際、日米開戦には反対していて宮中工作までしていたのですから、勝てると思わない戦争については、あくまで早く終結させるために行動してほしかったと感じています。

――小泉信三は、敗戦後の1949年から東宮御教育常時参与という役職に就任して以降、10年以上にわたり皇太子時代の明仁天皇の教育全般を担います。そこで天皇にどのような影響を与えたと思いますか。

小泉信三

 小泉は、なぜあの戦争に敗れたのか、という反省から、戦後を出発しています。日清・日露戦争当時の日本の指導者は主に士族たちで、大学教育などほとんど受けていなかった。その後、指導者は大学から生み出されるようになり、良書も広まり、男子普通選挙も実施されて、日本国民はよほど賢くなっていなければならないのに、未曾有の愚かな事をしてしまった。それは、かつての士族たちがもっていた面目や廉恥、義務心に支えられた「道徳的背骨(モラル・バックボーン)」を失ってしまったからではないか。

 小泉は、この道徳的背骨を、未来の天皇である皇太子に求めました。皇太子への進講をはじめるにあたって、「責任」「君徳」が重要であること、「人格」「識見」や「勉強」「修養」が国家の運命を左右することを皇太子に説いています。こうしたメッセージは、皇太子に強い影響を与えました。

 皇太子自身、モラル・バックボーンのある人となりたい、と語っていますし、小泉からは強い影響を受けたとも話しています。天皇に即位後も、常に自らの責任や徳、人格や識見を自覚してそれを高めようと勉め、あの戦争に対する慰霊と追悼の旅を続け、被災者や障害者に寄り添い続けてきた根には、小泉の残した遺産があると思います。

――小泉信三は美智子妃選定に深く関わり、その後も良好な関係を続けましたが、美智子妃にはどのような影響を与えたと思いますか。

 皇太子は小泉と結婚について話し合うなかで、自分は生まれからも周囲の境遇からも、世間の事情に疎く、人に対する思いやりが不足する心配があるので、人情に通じて思いやりのある人の助けを受けなければならない、と語っており、小泉は美智子嬢にそのことを伝えています。小泉も、この点は同感だったのでしょう。

 成婚後の二人の軌跡を顧みるとき、美智子妃は見事にその役割を果たしたと思います。戦時中の1945年1月に小泉が妻の誕生日に花を贈り、その後も亡くなるまでその習慣を続けたのですが、小泉の没後は美智子妃が代わって花を贈っていたそうです。美智子妃が小泉に対して敬愛の念を抱いていたことは、そのことからもわかると思います。

――戦争が繰り返された激動の20世紀を小泉信三は過ごしましたが、彼は日本にとってどのような存在だったと思いますか。

 冷戦下で非武装中立論を批判し、自由主義陣営に身を置いて一日も早い独立を訴えたことは、やはり先見の明があったと言えるでしょう。小泉が支持し、支援した吉田茂の敷いた軽武装・経済外交の路線の上で、日本は戦後の復興を果たしました。小泉ははやい段階からソ連を警戒し、マルクス主義を批判しましたが、その後のソ連とマルクス主義陣営の崩壊を考えると、これも時代を先取りしていたと思います。

 小泉はしばしば「日本の師表」「勇気ある自由人」などと呼ばれますが、こうした言論活動が文字通り命がけだったことを思うと、その名にふさわしい役割を果たしたのだと思います。

 もちろん、日中戦争以降の日本の戦争を支持したことは、その評価に影を落としますし、開かれた皇室を展開させたことは、皇室がマスメディアの好奇の対象とされることにもなりました。それでもなお、象徴天皇制の未来を模索し、その礎を築いたことは、譲位が行われる今になってなお、国民の大きな支持が天皇・皇后に寄せられていることからも、その貢献は大きかったと思います。

――刊行後の反響はいかがでしょうか。

 やはり、平成の終わりというタイミングで、その起源を回顧するような著作として、受け止めて下さった方が多いように思います。いいタイミングですね、とよく声をかけていただきました。

 お手紙やメールを下さった方は、やはり慶應関係者が多いですね。名塾長といわれた人物の、陰の部分まで含めてバランスよく書いてくれたと、好意的な反応をいただくことが多々ありました。『海軍主計大尉小泉信吉』に出てくる、出征する長男・信吉に宛てた小泉の手紙は、少なからぬ人の心を打ったようです。

 先ほどお話した「モラル・バックボーン」の現代的意味について考えさせられた、という反応もありました。もちろん、小泉は毀誉褒貶のはげしい人ですので、戦時下の言動や反マルクス主義的言動については許せない、といったご意見もいただきました。

――これからの関心・執筆についてお聞かせ下さい。

 私のもともとの専門は明治期の政治思想史ですので、そこに立ち戻ろうと思っています。小泉の語った「モラル・バックボーン」が生きていた時代、武士的教養を身につけた指導者が、実際に政治の舞台で活躍していた時代に回帰し、その時代の政治家・政治思想家の思想形成過程や思惟構造を分析して、評伝をまとめていきたいと思っています。

小川原正道(おがわら・まさみち)

慶應義塾大学法学部教授。1976年長野県生まれ。99年慶應義塾大学法学部政治学科卒。2003年同大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程修了、博士(法学)。武蔵野学院大学助教授などを経て、現職。専攻・近代日本政治史・政治思想史。
著書に『大教院の研究』(慶應義塾大学出版会、2004年)、『評伝 岡部長職』(慶應義塾大学出版会、2006年)、『西南戦争』(中公新書、2007年)、『近代日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ、2010年)、『福沢諭吉―「官」との闘い』文藝春秋、2011年)『明治の政治家と信仰』(吉川弘文館、2013年)、『日本の戦争と宗教』(講談社選書メチエ、2014年)、『西南戦争と自由民権』(慶應義塾大学出版会、2017年)他多数。