2018 05/21
私の好きな中公新書3冊

記録すること、記録を残すこと/宇田智子

内藤高『明治の音 西洋人が聴いた近代日本』
網野善彦『古文書返却の旅 戦後史学史の一齣』
武田徹『日本ノンフィクション史 ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』

なにかを記録すること、その記録を残すことに興味がある。記録しなければ消えていく声や景色、記録しても捨てられてしまうかもしれない本や文書。どれを残してどれを捨てるか、誰が決めればいいのだろう。私にもできることはあるのだろうか。本を読みながら手がかりを探している。

『明治の音』は、幕末から第二次世界大戦前までに日本を訪れた西洋人が日本の音をどのように聴いたかを、来訪者たちの記録から探っていく。下駄の音や蝉の声、日本人たちの会話、三味線の響き、文楽や能。不快な騒音だと感じて日本へのネガティヴな印象を募らせる人もいれば、自らの関心に引きつけて音を「深読み」する人もいた。録音技術のない時代、実際に日本を訪れた人だけが聴けた音を、いま言葉を通じて想像できることがあらためて不思議に思える。

『古文書返却の旅』は、資料館設立のため戦後すぐに全国の漁村から借用された古文書を、著者が40年かけて返却した顛末記。文書の持ち主たちとの出会いや再会、文書の探索と修復、著者の歴史観、調査地の変化など多様な話題が織りこまれている。文書を何代にもわたって大切に保管してきた所蔵者たちと、その思いに全力の調査で応えようとする著者たちは、同志のような絆で結ばれていく。このような人たちが土地の歴史をよみがえらせ、次世代につないでいくのだと知った。

『日本ノンフィクション史』は、「ノンフィクション」という定義しがたいジャンルが成立していく過程をたどる。物語としての完成度を高めたい、多くの読者を得たいという作者の欲望と、事実は曲げられないという倫理が、作品を事実と物語のあいだで揺らがせる。それでも「書かれたという事実」によってフィクションもやがてノンフィクションの内側に取りこまれ、「事実の大海」に還っていくという指摘に、視界がぱっと開けたようだった。未来からいまを見つめる視点を持ちたい。

宇田智子(うだ・ともこ)

1980年、神奈川県生まれ。 2002年にジュンク堂書店に入社、池袋本店で人文書を担当。2009年、那覇店開店に伴い沖縄に異動。2011年7月に退職し、同年11月、那覇市の第一牧志公設市場の向かいに「市場の古本屋ウララ」を開店する。2014年、第7回「(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞」を受賞。著書に『那覇の市場で古本屋 ひょっこり始めた〈ウララ〉の日々』(ボーダーインク、2013年)、『本屋になりたい この島の本を売る』(ちくまプリマー新書、2015年)、『市場のことば、本の声』(晶文社、近刊)がある。