2018 01/11
著者に聞く

『剣と清貧のヨーロッパ』/佐藤彰一インタビュー

筆者(右端)とM・ザンクフランス碑文・美文アカデミー終身事務局長(左端)、P・トゥベール教授(フランス学士院にて)

十字軍に端を発する騎士修道会、アッシジの聖フランチェスコらによって創始された托鉢修道会。この全く性格が異なる2つの修道会について詳細を明かす『剣と清貧のヨーロッパ』を刊行した佐藤彰一さんにお話を伺いました。

――本書は、『禁欲のヨーロッパ』、『贖罪のヨーロッパ』につづく三作目となりますが、本書で触れられている時代、修道制のあり方の特徴や、前著までの時代との違いについてお教えください。

佐藤:今回出版した『剣と清貧のヨーロッパ』は時間軸としては、主に12世紀から14世紀までを扱っています。この時期はヨーロッパの歴史的展開にとって極めて重要でした。今日まで続く「十字軍思想」が、一つのイデオロギーと化して、ヨーロッパのキリスト教徒の間に浸透して行く過程が、この時期開始したのです。

確かに8世紀にイベリア半島にイスラーム国家が樹立し、それとの対決が「プレ十字軍」的色彩を帯びたことは確かですが、12世紀に聖ベルナールが鮮明にした聖戦プロパガンダに結実するような動きはありませんでした。8世紀末から9世紀にかけて、カール大帝をはじめとするカロリング朝の王たちは、アッバース朝のカリフと定期的な使節の交換を実践するほどでしたから。ちなみに津田拓郎さんの研究によれば、カール・マルテルが732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで、イスラーム教徒の進撃を食い止めたという事実が、称揚されるようになったのは、十字軍時代以後のことでした。

さらに指摘しておきたいのは、この書物のもう一つの主題である托鉢修道会の出現です。ドミニコ会、フランチェスコ会、聖アウグスティノ会、カルメル会など多くの托鉢修道会がこの時代に誕生しました。
本書では最初の2つの修道会しか論じていませんが、この現象はこれに先立つ異端運動の猖獗なしにはあり得なかった事態であると、私は考えています。異端のラジカルさによって、それまでのキリスト教信仰を条件づけていた何かが消し飛んでしまったのです。

絶対的無所有という思想、日々生きる糧を完全に托鉢の結果に委ねるという考え。これらは、「神の摂理」に身を委ねるという、托鉢修道会の姿勢の根幹をなすわけですが、異端現象として現れた信仰への根源的な問いかけなしにはあり得なかったでしょうし、さらにこうした心理的、精神的潜勢は、キリストの生誕後千年を経て世界の終末が訪れるという、いわゆる「至福千年」思想がなければ生まれなかったと考えています。

托鉢修道会が唱えた「imitatio Christi キリストのまねび」という思想は、聖フランチェスコに関する本書中の記述でも指摘したのですが、新約聖書に描かれたキリストと使徒の行動にひたすら心を寄せて実践するようにという教えです。それは前著『贖罪のヨーロッパ』が扱った時代まで重きをなしていた、罪を罰する峻厳な神が前景にあった「旧約聖書」から、キリストの愛の思想を根幹とする「新約聖書」への劇的転回があったのではないかと思っています。それを象徴するのが聖フランチェスコという人物だということです。この書物を執筆する過程で、遅まきながらフランチェスコという人間を発見し、心惹かれるようになりました。

――ところでなぜ、それらの時代や修道会について取り上げようと思われたのか、動機をお教えください。

佐藤:それは『贖罪のヨーロッパ』が扱った時代が12世紀に入るまででしたから、その続きは12世紀からでしょう(笑)。

まあ、中公新書で刊行している一連の書物は、キリスト教の信仰実践の一大局面である修道制の歴史を、古代における禁欲の社会的機制の考察から始めて、キリスト教固有の贖罪が誕生した時代、信仰の内面化の托鉢修道会と騎士修道会の時代、それから宗教改革を経ての新たな布教地平(アジアと新大陸)を目指すイエズス会の活動の時代があり、17世紀初めには一転して対抗宗教改革の動きから生まれたサン・モール会という学僧たちの共同体が組織される時代というように、あくまでトピックを連ねた形になりますが、ひとまず近代までの歴史を自分なりに通観したいというのが、特に『禁欲のヨーロッパ』を書き終えた頃からの、私の思いでした。それに日本人が書いた修道院、あるいは修道制と言ったらいいのでしょうか、その通史が存在しないという事情があります。

こうした通史を書く構想のなかで、連環の一つの環として『剣と清貧のヨーロッパ』を執筆したというだけでなく、西洋中世史家として以前から興味を惹かれていたこととして、「封建革命論」、「封建変動論」の名前で表現される封建化をめぐる論争が、1980年代にフランス中世史研究のトピックになっていたからです。

フランス封建社会の成立の画期をめぐっては、西暦1000年頃に極めて短期間に成立したとする当時の大御所ジョルジュ・デュビィの説が定説として長く君臨していましたが、これへの批判が様々に展開されていました。その代表格が現在ソルボンヌで中世史を講じているドミニク・バルテルミーさんです。彼は30年来の私の年下の友人ですが、彼が1993年に出版した『西暦千年から14世紀までのヴァンドーム伯領の社会』は1100頁を超える大著で、フランス中部のヴァンドーム地方の記録を通して、変動は西暦1000年頃ではなく、それより約1世紀後の12世紀が転換期であると論じていたからです。

中世フランスでのこうした社会変革を歴史的バックグランドとした修道制がどのような在り方を示すのか、これは歴史家にとって大いに興味をそそられることです。考察の結果は、大きく言えばすでに指摘したように、宗教心性においても大いなる変革が生まれた時代ということになるでしょう。もっとも「12世紀変革論」は、すでに多くの歴史家が指摘したところですが、これまでの認識に少なからぬ新味を加えた、あるいは新しい視点を提示することができたという思いはあります。

――騎士修道会と、托鉢修道会と、一見すると全く別の性質を持つ両者が、同時に現れてきたのはなぜでしょう。

佐藤:大変な難問ですね。ある現象が生まれてくる歴史的条件を探ることだけでも大変なのに、それが同時に二つ、しかも一見すると性格が正反対のように見える事柄を説明しなければならないからです。しかしこの設問は案外本質的な意味を持っているかもしれません。つまり、両者は外見上互いに離れた事象のように見えるかも知れませんが、その実(じつ)根っ子のところで繋がっているのではないかという認識です。

騎士修道会は言うまでもなく武器をとってイスラーム教徒を一人でも多く屠り、敵手の数を減らし、聖地の守護を目ざし、キリスト教徒巡礼者の安全を守ることを使命とした組織ですね。この組織は実は対内的にも極めて厳格な規律をもった組織です。これはテンプル騎士修道会の規則書を読んでいたときに感じたことですが、様々な軍律上の厳しい掟があるだけでなく、実は生活規律の面でもそれを上まわる厳しさがあるのが印象的でした。

極めつきは個人財産の絶対的否定です。死者が少額の金を隠し持っていたことが埋葬後に判明した場合、死者は墓をあばかれ、飢えた犬の餌食にされるという、苛烈極まりない処断が待っているというのが一例です。それは激烈としか言いようがない、ラジカルさではないでしょうか。

他方でフランチェスコの生涯をたどりながら考えたことは、先にも触れましたが、その思想の根底において当時の通念を覆すラジカルさが、様々な形で感じ取られることです。時によっては裸形に近いいでたち、いかなる糧の保障もない托鉢による生き方、神学を含めての学問の忌避、自然な感性の称揚など、全てがそれまでのキリスト教説教者の生き方とは根源的な断絶を示しています。

そして同時にこうした根源的なラジカル性を具えた挙措を日常とするためには、同じくらいの攻撃的心情を内に秘めていなければなりません。愛と平和の思想は、フランチェスコ個人の「攻撃的」とも言える過激なエネルギーによって支えられていたのです。それは武器を持たないものの、十字軍兵士と変わらない攻撃的心根を蔵していたと見るべきだろうと思います。つまり変革期の12世紀という時代相が生み落とした「双生児」と言えるかも知れません。

――それらの修道会あるいは修道制を支えた当時の社会状況から、現代に生きる我々は何を読み取ることが出来ますか。

佐藤:今ふと近現代史家で、2012年になくなったエリック・ホブズボームの著作のタイトルを思いだしました。確か20世紀の歴史を考察した書物でしたが、そのタイトルは『極端な時代 Age of Extremes』と銘うっていました。それは先の質問の答えのなかで、私が12世紀について感じた印象と重なります。

20世紀と12世紀の二つの時代とも、それに先立つ時代とかなりハッキリとした断絶を示した、というより人々がそのように決断をしたというのが正しい言い方なのでしょうが、ともかく「伝統」との切断を果たして、歴史を歩み始めたわけです。
そしてそれは私の見方からすれば、宗教面では数世紀を経てプロティスタンティズムという信仰体系の根底的な変革を生み出す水脈を作り出しました。

秩序の側面では、フランス王国ではテンプル騎士修道会の圧殺として現象した「国家理性」という論理の萌芽的浸透がありました。そして封建的秩序の確立は、ドイツの中世史家ミヒャエル・ボルゴルテによれば、実は中央集権的国家構造を前提にして初めて存立しうる社会体制であると、これまでの通念とは真逆の主張を展開していることは無視できません。

これまでの考えは、公権力が力と統合力を失い、秩序維持の公的要素が欠如したがゆえに、これに代わって封建的な原理が秩序構造を支えたのだと考えられてきたのですが、こうしたいわば古典的な封建制論に、多面的かつ強力な批判が寄せられているのが洋の東西を問わず歴史学の現状ではないかと思います。史料を緻密に解釈すればするほど、人々の観念世界から「公」の観念が失われたことがないことが確かめられるからです。我々が封建的ハイアラーキーと呼んでいるのは、政治権力の序列関係という側面であって、社会構成の原基的な要素ではないという考えが、次第に強まっているような印象を受けます。

しかしテンプル騎士修道会を解体した14世紀のフィリップ美王4世を支えたのは、以前の王権には見られない権力者の権力運用術への実務的な意識でした。テンプル騎士修道会のような、王権をも凌ぐ財力と影響力を具えた存在は抹殺されなければならない。それは国家理性が命ずるところでした。その意味で国家は以前とは異なる相貌のもとに出現したのです。そしてこれを醸成し発酵させたのが、ローマ法学の復興と大学の出現と、そこで養成された初期法務官僚たちでした。

このように12世紀に開始した歴史の歩みは、様々な新生面の誕生という意味で過去との断絶がくっきりと浮かび上がる、いわばもう一つの「極端な時代」であったと言えます。とは言っても、この二つの時代の間には約千年の時代の隔たりがあり、それぞれの時代に生きた人々のありようを結びつけるのは、完全にアナクロニズムの誹りを免れないでしょうね。

しかし他方で、時代状況と無関係な人間の挙措というものがあります。この書物のなかで、今でも心に残っている二つの例があります。

一つは聖ドミニクスの行動です。本書のなかでも書きましたが、彼は1217年頃に拠点にしていた南仏のトゥルーズを引き払い、それほど多くない弟子たちをパリ、オルレアン、ボローニャ、マドリードなどの大学都市に送り込みます。学問が社会的ヘゲモニーの確たる要素になること、そしてそこで自派勢力を拡張することを彼は見通していたわけですね。
これは聖フランチェスコの生き方とは正反対でしたが、フランチェスコ派もこの聖人の死後は、ドミニクスの驥尾に付すことになります。

もう一人の人物はドイツ騎士修道会国家を清算した、最後の大総長アルベルト・フォン・ブランデンベルクの対応です。
元来ドイツ騎士修道会はローマ教皇に直属する組織、つまりカトリックの先兵であったわけですが、マルティン・ルターのもとに出向き、そして説得されプロテスタントになり修道誓約を撤回し、騎士修道会国家を解体しました。ルターとの議論がどのような内容であったかは詳らかにしませんが、おそらくポーランド王国の台頭と、騎士修道会の存在理由についての疑問とがないまぜになっての決断であったに違いありません。

どの時代にも変化はつきものですが、かたや「学識」のヘゲモニー化というそれまでのヨーロッパの歴史になかった胎動、かたや民族王権の台頭を前にしての3世紀近い間君臨した組織の「陳腐化」の意識と新たな宗教的息吹の鼓吹に一つの決断を余儀なくされた。結果論と言えばそうなのですが、この二人の決断は時代の変革のなかで妥当なものであったと評価されるでしょう。

二人とも自分たちの置かれた状況と、時代の趨勢を的確に見て取り、それとなく、あるいはあからさまに意見を求め、考え抜いた上での「判断」であったに違いありません。

「極端な時代」を生き抜くためには、さまざまの契機でその都度「判断」が求められるわけですが、それを的確に行うためにはどのような要素を思考の対象にし、短期的、中期的、長期的の多様なレンジでのその効果を想定する緻密な分析を行う、そうした挙措を身につけることが何より重要であるということではないかと思います。

――今後の関心についてお教えください。

佐藤:もうすでに挙げましたが、次の著作はイエズス会が中心になる予定です。むろんこの著作の冒頭は宗教改革と対抗宗教改革について、トレント公会議も含めて論じなければなりません。

イグナティオ・デ・ロヨラが1540年に組織したイエズス会は、それまでの修道会がラテン語でOrdoと形容されていたのに対して、「Societas」という全く異なる「社団」的な形容語で自らを表現しました。共同で寝起きする場所としての修道院を持たない組織でした。このイエズス会を中心にして、ドミニコ会、フランチェスコ会を混じえたアジアとアメリカ大陸での布教活動が中心的な主題になります。

キリスト教布教の歴史を繙いて見ると、7世紀初めに教皇大グレゴリウスが、キリスト教の布教をローマ帝国の旧版図を超えて実践するように指示し、その結果イングランドやアイルランドの本格的宣教が開始されました。

それから9世紀間を隔てフランチェスコ会やイエズス会などが、アジアや中米の布教に乗り出すわけです。当然、ここで日本の歴史がヨーロッパの歴史と「接続」されることになります。私の見方は従来の我が国における「キリシタン史」の視点とは異なり、ヨーロッパ史の文脈からのアプローチになる筈です。

方法論と叙述の両面でこの分野は注目を浴びています。ニュー・デリー生まれのインド人歴史家で、2013年にフランスの最高峰学府コレージュ・ド・フランスの教授となったサンジャイ・スブラフマニアムが提唱している「接続された歴史 Connected History」の着想や、同じような視点から新大陸史を研究して注目されているセルジュ・グリュザンスキの見方、あるいはスブラフマニアムの2年後にコレージュ・ド・フランス入りしたパトリック・ブシェロンの視点と方法を吸収しながら、一方で伝統的な手法でフランチェスコ会やイエズス会などの海外布教を探求している若手研究者の成果からも学ぶ必要があります。結構骨が折れそうです。

――最後に本書と関連するおすすめの本や映画など何かありますか。

佐藤:聖フランチェスコについてはフランコ・ゼッフェリ監督の『ブラザーサン シスタームーン』とリリアーナ・カヴァーニ監督の『フランチェスコ』の2本が頭に浮かんで来ます。ゼッフェリの方はちょうど学生紛争の風が世界各地で吹いていた時期に作られたこともあって、フランチェスコとキアーラは何か既存の体制に抵抗する男女の学生の趣がありました。

カヴァーニ作の『フランチェスコ』は、それから10年以上後に作られた、より重厚な作品でしたが、ヘレムボナム・カーターがキアーラというのは悪くはないけれど、ミッキー・ルークがフランチェスコを演じているのは、当時やや抵抗感がありました。しかし今度書物を書き終えてから思い返してみて、それほどミスキャストではなかったと反省しています。主人公の軽薄・享楽的な一面と、微かな狂気を纏った一途な思い込みをルークはうまく表現していたとの感を深くしています。

騎士修道会に関しては、ノヴゴロド大公アレクサンドル・ネフスキーが、侵略を続けるドイツ騎士修道会に戦いを挑み勝利する『アレクサンドル・ネフスキー』が有名ですね。戦前の1938年の作品ですが、監督があの傑作『戦艦ポチョムキン』を作ったセルゲイ・エイゼンシュテインですから、一見の価値があります。今時ですからDVD版が市販されていると思います。この映画は国威発揚映画ですから、ドイツ騎士修道会は言うまでもなく侵略者の悪者扱いで、かなり単純化されています。1242年の4月に氷結したテュード湖(エストニア)の上での騎兵戦の迫力は相当なものです。

佐藤彰一(さとう・しょういち)

1945年山形県生まれ。1968年、中央大学法学部卒、1976年、早稲田大学大学院博士課程満期退学。名古屋大学教授などを歴任。同大学名誉教授。日本学士院会員。専攻・西洋中世史.博士(文学)。著書『禁欲のヨーロッパ』『贖罪のヨーロッパ』『剣と清貧のヨーロッパ』(いずれも中公新書)、『西ヨーロッパ世界の形成』(中公文庫[世界の歴史])、『カール大帝』(山川出版社[世界史リブレット人])、『中世世界とは何か』(岩波書店[ヨーロッパの中世])、『歴史書を読む』(山川出版社)、『中世初期フランス地域史の研究』『ポスト・ローマ期フランク史の研究』(ともに岩波書店)、『修道院と農民』(名古屋大学出版会、日本学士院賞)。訳書にベルンハルト・ビショッフ『西洋写本学』(瀬戸直彦と共訳、岩波書店)ほかがある。