2025 03/28
まえがき公開

『外交とは何か』 まえがき

『外交とは何か』(小原雅博、2025年3月刊)

米中の覇権争い、あいつぐ戦争。試練の時代に日本外交はどこへ、どう向かうべきか。本書が探るのは戦争をせず平和的に問題を解決するための要諦である。現実主義と理想主義、地政学と戦略論などの理論、E・H・カーやキッシンジャーらの分析に学ぶ。また陸奥宗光、小村寿太郎、幣原喜重郎、吉田茂、そして安倍晋三らの歩みから教訓を導く。元外交官の実践的な視点から、外交センスのある国に向けた指針を示す。


『外交とは何か 不戦不敗の要諦』の 「まえがき」を公開します。


 ナチスドイツがチェコスロバキアを併合した1939年3月、ソ連封じ込め政策で知られた米国の外交官ジョージ・ケナンは、首都プラハの米国公使館に勤務していた。第二次世界大戦が勃発する半年前である。彼は、当時の欧州情勢を振り返って、「暗い雲が広がり、わけのわからない恐怖と胸騒ぎに満ちていた」と回顧している(『ジョージ・F・ケナン回顧録』)。

 そんな暗い雲が私たちの時代にも広がりつつある。

 ロシアによるウクライナ侵略は、欧州諸国を震撼させ、安全保障観を一変させた。平和主義を標榜してきたドイツは武器供与や国防費増に動き、中立政策を維持してきたフィンランドとスウェーデンは北大西洋条約機構(NATO)に加盟した。プーチン大統領は、タブーとされてきた「核の恫喝」さえ平然と行う。習近平国家主席や金正恩総書記もその効果を学んだに違いない。

 中東では、イスラム組織ハマスによる残虐な大規模テロ攻撃が起き、イスラエルが自衛権の行使として地下トンネルに潜むハマスを殲滅すべく、ガザ一帯を激しく空爆した。多数の子供を含む民間人が犠牲となり、水や食糧や医薬品も欠乏する人道危機となった。
 ユーラシア大陸の地政学的断層である東欧と中東で起きた戦争は、3つ目の断層たる東アジアにも暗い影を投げかける。台湾海峡、南シナ海、朝鮮半島などで常態化する軍事的緊張は、戦争へのエスカレーションと隣り合わせの危うさを感じさせる。

 歴史の教訓に学ぶなら、現状を放置するのは余りに危険だ。ケナンが抱いた恐怖や胸騒ぎを覚えるのは筆者だけではあるまい。第三次世界大戦の勃発さえあり得ないことではないと思う。それを危惧する者を悲観論者と笑って済ませられるほどに人間は賢明ではない。

 そして、戦争はひとたび始まれば、容易には終わらない。ニュース番組でロシアや中東の専門家は戦争が月単位で終わると予想したが、そうはならなかった。

 そんな危機の時代にあって、国家国民の生存や安全をどう守るのかという問いかけが重く伸しかかり、抑止や防衛をめぐる議論が熱を帯びる。

 しかし、それは外交が不要だということを意味しない。もちろん外交は万能ではないし、労多くして益少ない結果に終わることもしばしばである。それでも、力を過信し、武力に訴えれば、稀代の軍事家クラウゼヴィッツが戒めた「戦場の霧」が計算を狂わせ、大きな代償を払うことになる。プーチン大統領がウクライナで始めた戦争にも、そんな誤算が見て取れた。

 世界最強の軍隊を持つ米国でさえ、第二次世界大戦後のほとんどの戦争で勝利できなかった。サイゴン陥落後に米国大使館の屋上から脱出者を乗せたヘリコプターが離陸する映像やアフガニスタン・カブール国際空港に殺到した避難民が米軍機にしがみつき振り落とされる光景は、戦争の不確実性と大国の力の限界を印象づけた。

 戦争をせずに外交によって平和的に問題を解決する。そんな意思や努力を放棄すべきではない。

 1962年、ソ連が密かに核ミサイルをキューバに配備し、核戦争の危機が起きた。ジョン・F・ケネディ大統領は強い意思と指導力を発揮して外交的解決に全力を尽くした。それがフルシチョフ第一書記を動かし、危機を回避できた最大の要因であった。危機の最中、ケネディ大統領は弟のロバート・ケネディ(当時司法長官)にこう述べている。

《もしこのこと(引用者注:キューバ危機)について今後書こうとする人がいるならば、その人は、われわれが平和を見出すためにあらゆる努力を行ない、相手側に行動の余地を与えるために、あらゆる努力を行なったことを理解するであろう》(『13日間』)

 危機の中で兄を支え続けたロバート・ケネディこそ、「その人」にふさわしい人物だった。 兄に続いて凶弾に倒れる前に書かれた『13日間』は、「人々を感動させる鋭敏な記録」(マクナマラ、1962年当時国防長官)である。それは今日も私たちに外交についての重要な示唆や深い洞察を提供してくれる。

 同書が明らかにしている通り、外交にはさまざまな制約や限界がある。それでも、キューバ危機は、外交によって解決された。外交を論じ、理解を深めることが平和への第一歩である。

 国際社会は、どうしようもなく不完全だ。しかし、わずかでも希望と可能性がある限り、私たちは外交に全力を尽くすべきだ。

 戦前の日本で、外交は軍事に圧倒され、戦争を回避できなかった。その原因はどこに見いだされるべきなのか。検証は、『外務省極秘調査報告書』を含め、多々なされてきた。そして、そこで得られた教訓は、戦後日本外交の原則や理念の中にも埋め込まれた。その柱となったのが国際協調と平和主義である。それは戦後日本外交の成功体験を支えた基本政策であったが、今日、国際環境は厳しさを増している。試練の日本外交はどうあるべきか。

 そんな問題意識を抱きながら、本書では、外交の要諦を探り、戦略的思考や外交感覚について論じ、日本外交について考えてみたいと思う。それが危機の時代にあって大切なことだと思うからだ。


(まえがき、著者略歴は『外交とは何か』初版刊行時のものです)

小原雅博 (こはら・まさひろ)

東京大学卒.1980年,外務省入省.2015年,東京大学大学院法学政治学研究科教授.21年より東京大学名誉教授.博士(国際関係学).
著書『国益と外交』(日本経済新聞社)
『東アジア共同体』(日本経済新聞社)
『日本の国益』(講談社現代新書)
『戦争と平和の国際政治』(ちくま新書)
『日本走向何方』(中信出版社)
ほか