2024 11/20
まえがき公開

『脳の本質』 まえがき

『脳の本質』(乾敏郎/門脇加江子著、2024年11月刊)

なぜ細胞の集合体である脳から自我が生まれ、感情が湧くのか。どうして相手の心がわかるのか。脳はいかに言語を操るのか。そもそもなぜ生命を維持できるのか。鍵は、脳がする「予測」と予測誤差の修正だ。本書では、知覚、感情、運動から、言語、記憶、モチベーションと意思決定まで、脳が発達する原理をひもとく。子どもの学習や障害、意識の構造も一望。人類に残された謎である、高度な知性を獲得するしくみを解き明かす。

『脳の本質 いかにしてヒトは知性を獲得するか』の 「まえがき」を公開します。


 脳は実に不思議な器官です。私たちは美しい景色を見ることも、さまざまな思い出を想起することもできます。細胞の集合体に過ぎない脳で、どのようにして多彩な高次機能――言語や記憶をあやつり、知性を発達させること――が生じるのか。これこそが、脳研究に関する単純かつもっとも根源的な疑問であり、筆者が脳を研究するモチベーションです。

 脳に関してはたくさんの書物があり、個々の脳機能を詳細にわかりやすく説明したものも数多く出版されています。しかし、先の疑問に答えられる入門書はわずかかもしれません。なぜ細胞の集まりがさまざまな精神活動を生み出せるのかという疑問に対して、また精神疾患や神経発達症(発達障害)はなぜ生じるのかという疑問についても、統一的に説明できる原理を用いて、一般の読者にもできる限りわかりやすく解説したいと思ったのが、本書を書くきっかけでした。

 脳機能を考える上でまず筆者が着目する点は、私たちがこの世界に存在できているという事実です。第1章では、脳の本質を考える上で重要な科学的概念、その歴史的背景を紹介します。その上でこれらの概念を基礎に、ダイナミックに変化する環境にありながら、私たちが存在し続けるために最低限必要とされるものが何であるかを考えます。

 第2章と第3章では、脳が五感を通して外側の環境を正しく捉え、並行して、内側の身体を認識するプロセスに注目します。そして、どのようにして自我が芽生え、豊かな感情が湧きおこるのかについて考えます。第4章では、人間が持つ基本機能がどのように発達するのかに焦点を当て、あわせて一部の神経発達症に関するメカニズムを紹介します。

 人間には他の動物とは比較にならないほどの洞察力や想像力があります。第5章から第7章では、脳の学習から記憶(過去を考える)、意思決定(未来を考える)、言語コミュニケーション、意識の由来まで、人間が持つ高度な知性がいかにして実現されるかを考察します。最後に、脳の本質の見取り図を描き、人間の脳との対比で今後のAI(人工知能)に必要な機能を明らかにします。

 乾は、認知神経科学者として、脳の発達原理、脳の言語的・非言語的コミュニケーション機能を専門に研究してきました。門脇は、予防医療、心理臨床領域に身をおき、精神疾患の予防行動に関する分析を行っています。脳の高次機能という根源的なテーマを解明するべく、本書は研究分野をまたいで、2人の筆者がすべての章を一緒に執筆しました。

 神経や脳機能に関する理論的な研究は、1940年代から積み上げられていましたが、今世紀に入りそれが人工知能(AI)研究と融合したことにより、理論化は飛躍的に進みました。この結果、私たちが日頃利用している音声認識や機械翻訳、あるいは対話型AIといった技術が可能となりました。一昔前には人間にしかできないと思われていたさまざまなことが、機械学習の進歩により実用化されています。

 おりしも、第7章で紹介するヒントンが、理論脳科学において連想記憶の研究を進めたホップフィールドとともに2024年秋、ノーベル物理学賞を受賞しました。今のところまだ、人間が持つ多様で高度な精神活動にとって代わるほどの技術は見られませんが、今後はますます機械との対話が進み、まもなく人とロボットが共存する日が訪れるでしょう。

 長い年月をかけて絶え間なく進化を遂げてきた人間の脳、本書では奥深いその本質を探求します。人間を人間たらしめている脳を読み解くことで、読者の皆さんにとって、人間とはそもそも何であるかを考えるきっかけになれば幸いです。


(まえがき、著者略歴は『脳の本質』初版刊行時のものです)

乾敏郎(いぬい・としろう)/門脇加江子(かどわき・かえこ)

乾敏郎:大阪大学大学院基礎工学研究科修士課程修了.京都大学文学博士.京都大学大学院文学研究科教授,情報学研究科教授を経て,現在,京都大学名誉教授.日本認知科学会フェロー,日本神経心理学会名誉会員,日本認知心理学会名誉会員,日本高次脳機能学会特別会員.専門は認知神経科学,認知科学,計算論的神経科学,発達神経科学.著書に『イメージ脳』(岩波科学ライブラリー),『脳科学からみる子どもの心の育ち』(ミネルヴァ書房),『感情とはそもそも何なのか』(ミネルヴァ書房),『脳の大統一理論』(岩波科学ライブラリー),『自由エネルギー原理入門』(岩波書店,共著)など.

門脇加江子:立命館大学文学部で実験心理学を学び、追手門学院大学大学院心理学研究科で臨床心理学を修める.現在,スクールカウンセラー.臨床心理士,公認心理師,保健師,看護師.脳と身体の関係を焦点に,児童や成人のカウンセリングに従事.専門は臨床発達心理学,メンタルヘルス.共著に『脳科学はウェルビーイングをどう語るか?』(ミネルヴァ書房)がある.