2024 05/14
著者に聞く

『堤康次郎』/老川慶喜インタビュー

阿里山森林鉄道にて

西武鉄道や国土計画、西武百貨店に代表される西武グループの創始者・堤康次郎。2024年は没後60年に当たります。この堤康次郎の企業家としての事績を網羅した『堤康次郎 西武グループと20世紀日本の開発事業』を刊行した老川慶喜先生にお話を伺いました。

――そもそもなぜ、堤康次郎を取り上げようと思ったのでしょうか。現在、堤を再評価することにはどんな意義がありますか。

老川:私が堤康次郎という実業家に関心を持つようになったのは、本書の「あとがき」でも述べているように、由井常彦編『堤康次郎』(リブロポート、1996年)の執筆にかかわってからであります。
それまでは西武鉄道の創業者というくらいの認識しかなかったのですが、実際には箱根土地という土地会社を設立し、軽井沢・箱根の別荘地開発、目白文化村や大泉・小平・国立の学園都市などの開発を手がけたデベロッパーであることを知りました。
康次郎は、「箱根や軽井沢の風光明媚な景観が一部の富裕者に独占されていてよいはずがない。自分は、軽井沢や箱根を日々都会で働く会社員、公務員、銀行員などのいわゆる新中間層に開放するために開発をするのだ」というような趣旨のことをいたるところで述べていますが、それが私の心に心地よく響いたことも、康次郎に関心を持つきっかけとなりました。

康次郎の事業は、別荘地の開発にしても住宅地の開発にしても日露戦争後から第一次世界大戦期にかけて台頭してくる新中間層(サラリーマン)を対象とするものでした。戦中・戦後の時期を経て、戦後の高度経済成長期になると康次郎の開発事業は再び活発になります。
しかし、康次郎は東海道新幹線が開業し東京オリンピックの開催された1964年に逝去します。そして、康次郎と入れ替わるように次男の清二が独自の事業を展開し、やがてセゾングループを築きます。しかし、セゾングループは、西洋環境開発というグループ会社(デベロッパー)の破綻で瓦解してしまいます。
康次郎と清二の事業は、「土地」を基盤に成り立っていたように思います。「土地神話」という言葉がありますが、1990年代にバブル経済が崩壊するまで20世紀を通じて地価が継続的に上昇していました。本書では、康次郎をただ単に「強烈な個性とたくましい商魂」を持った大実業家であったというだけでなく、康次郎が生きた時代のなかに位置づけ、康次郎の事業を客観的(実証的)に評価してみたいと考えました。

本書の出版はたまたま康次郎の没後60年と重なりましたが、康次郎の事業を客観的に評価することによって、バブル経済崩壊後、やや停滞している日本経済を企業家活動という視点から見直すきっかけになればと考えています。

――他にも堤康次郎の伝記はいろいろ刊行されていますが、本書がそれらとどう違うか、特長をお教えください。

老川:堤康次郎に関する著作は、本書の「はじめに」で紹介したようにたくさんあります。
康次郎は、西武グループを一代でつくり上げた大実業家であると同時に、衆議院議長を務めた大物政治家でもありました。また、独特な私生活からジャーナリズムをにぎわしてもきました。しかし、本書では康次郎の事業活動を取り上げ、政治や私生活に関する事柄は基本的には取り上げておりません。

実業家としての康次郎に対しても世間の評価はさまざまです。しかし、康次郎を肯定的に評価するにせよ、批判的にみるにせよ、その多くは康次郎が「強烈な個性とたくましい商魂」を持ち合わせていた独特な実業家であることを強調しているように思います。
それに対して、本書では康次郎の事業活動を、できるだけ一次史料にもとづいて客観的に描こうとしました。
たとえば、軽井沢の開発も康次郎が先鞭をつけたように言われてきましたが、軽井沢では雨宮敬次郎、野沢源次郎、星野嘉助など、開発の先駆者はほかにおりました。東京市内外の目白文化村や大泉・小平・国立の学園都市の開発にしても、康次郎独自の考え方はあるものの、東京市内外の開発自体には多くの土地会社が取り組んでいました。

というのは、20世紀の日本は産業化・官僚化が急速に進み、開発への意欲がきわめて旺盛な時代であったからだと思われます。それならば、康次郎の事業活動を一次史料にもとづいて再構成することによって、20世紀という時代の特徴の一端を描けるのではないかと考えました。
したがって、他の堤康次郎関係の著書と異なる本書の特徴ということになれば、康次郎について書かれたこれまでの著作については参考にはしましたが、頭から信用せずに一次史料を確認しながら康次郎の事業活動を具体的に描いた点にあると思います。

――本書ではたびたび「新中間層」という言葉が出て来ます。これらの人びとは具体的にはどのような人たちなのでしょうか。またいわゆる「中流階級」とはどう違いますか。

老川:「新中間層」とは産業化と官僚化の進行によって形成された階層で、技術者・管理職・専門職・事務職などのことです。日本では日露戦争後から第一次世界大戦期にかけての時期に形成され、サラリーマン、ホワイトカラーなどと呼ばれる人びとのことを言います。
一方、中流階級とは上流階級と労働者階級の間の階級で、第三次産業従事者から公務員・中小産業資本家まで幅広い社会層を含んでいます。しかし、実際には新中間層と重なる面も多くあると思います。

――堤の事業はその時代に特有のものだったのでしょうか。今のような経済情勢・社会構造だったら堤はどうしていたでしょうか。

老川:確かに康次郎の事業は新中間層をターゲットにした開発事業が中心でしたので、バブル経済が崩壊した1990年代以降の日本経済は康次郎の開発事業には適していないといえるかもしれません。
しかし、康次郎の事業は開発事業のみであったわけではありません。たとえば、東京護謨の経営は第一次世界大戦後の不況のなかでも堅調に推移しており、今でも西武ポリマ化成株式会社として存続しています。
康次郎は商機をとらえるのに長けていましたので、今のような時代でもさまざまな事業を展開していたのではないかと思われます。

――老川先生は堤清二氏とお会いになったそうですが。

老川:堤清二さんとは、由井常彦先生を中心に前掲『堤康次郎』を執筆しているときに何度かお会いしました。この企画は清二さんからの依頼によるものでしたので、清二さんが康次郎をどのようにみていたかなど、世間話も含めて楽しいお話を聞かせていただきました。

清二さんは、康次郎をマックス・ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』のなかで展開したような合理的な近代の資本家と重ね合わせているように思えました。しかし、われわれ執筆者には一切注文をつけず、康次郎をどのように描くかは執筆者に任せるという姿勢を貫いておりました。清二さんの康次郎評は、清二さんが2004年に出版された『父の肖像』(新潮社)に凝縮しているように思います。
本書の終章には、「事業の継承」という章を置きましたが、清二さんのお話をうかがっているなかで、事業の手法に注目すれば康次郎の事業を継承したのは世間で言われているように三男の義明さんではなく、清二さんであると言えるのではないかと考えるようになったからです。

――本書を執筆していて、「これはすごい」と思ったこと、あるいは「これはちょっといただけない」と思ったことはありますか。

老川:康次郎は、1946年4月に「東京耐火建材会社」の商号を「復興社」に変更しました。東京耐火建材というのは、康次郎が戦時中の1941年11月に設立し、爆撃に備えて耐火材を製造していた会社ですが、戦後復興のためには建築や各種土木工事用の砂利、砕石、鉄筋、セメント、木材類の大量生産が必要であるとして復興社に再編しました。
同社の事業は、砂利・砕石事業、建築事業、鉄道建設事業、不動産事業などからなり、戦争直後の西武鉄道など康次郎の事業を支えてきました。
「これはすごい」と思ったわけではないのですが、戦時から戦後復興期へと時代が変わるなかで自らの事業を臨機応変に変えていくのはいかにも康次郎らしいと思いました。復興社についてはもっと詳細に記述したかったのですが、とりあえずこの程度にとどまりました。機会があれば、もう少し詳細な記述ができるよう調べてみたいと思います。

「これはちょっといただけない」と思ったのは、1973年に西武鉄道の人事課が社員教育用に作成した『堤康次郎会長の生涯』という本です。
堤康次郎は、早稲田大学在学中からさまざまな事業を手がけていましたが、多くはうまくいきませんでした。のちに事業家として成功してから、康次郎はその失敗を反省して開発事業こそが世のため人のための事業であると悟り「感謝と奉仕」という理念を獲得したと述べております。そして、それから事業は何事もうまくゆき、西武コンツェルンを形成するまでになったというのです。
康次郎本人がこのようなサクセスストーリーを描くのはやむを得ないとしても、康次郎の死後9年も経っているのにろくな検証もせずに、西武鉄道がこのような本を社員教育用に作成したのは「ちょっといただけない」と思いました。このサクセスストーリーが何の根拠もないことは本書で明らかにした通りです。社員教育のためなら、事実をしっかりと掘り起こして伝えていかなければならないのではないかと思います。

――本書執筆のご苦労等ありましたらお教えください。

老川:何といっても、ほぼ原稿を書き上げたところで一瞬のうちにワードの文字が消えてしまったことです。眠いのを我慢して原稿を書いていたのですが、一気に目が覚めてしまいました。それなりのお金を使ってデータの復旧に努めたのですが、康次郎の原稿だけが復旧できませんでした。プリントアウトしたものが少し残っていたので、それを頼りに書き直しました。
しかし、そのおかげで本書の出版が康次郎の没後60年という区切りの年と重なりました。意図していたわけではないのですが、何かの縁があったのかもしれません。

――最後に今後の関心をお教えください。

老川:鉄道経営者の研究では、小林一三(『小林一三――都市型第三次産業の先駆的創造者』PHP研究所、2017年)、堤康次郎(本書)を一冊の著書にまとめることができましたので、今度はもし機会があれば渋沢栄一の鉄道事業史をまとめてみたいと思っています。

渋沢は、幕末期に徳川昭武に随行してフランスの万博に参加しますが、鉄道に大変興味をもち日本に帰ったらぜひ敷設してみたいと考えるようになりました。
渋沢は、生涯500社余りの企業にかかわったと言われていますが、業種別にみると鉄道会社がもっとも多くなっています。また、1906~07年の鉄道国有化についても積極的な発言を行っており、当初は鉄道民営論を主張していましたが次第に国有論に傾いていったと言われています。
このあたりのことは、果たしてそうなのか検討の余地は十分にあると思っています。

渋沢栄一を称して「公益の追求者」と言うことがあります。鉄道は典型的な公益事業ですので、渋沢も多くの鉄道会社の経営にかかわってきました。
しかし、その割には渋沢が鉄道事業にどのように取り組んだかについてはほとんど研究されていません。渋沢は有名人ですので、多くの伝記が執筆されていますが、どういうわけかどの伝記を読んでも鉄道に関する記述はあまり多くありません。

そこで、近年の渋沢研究の成果を踏まえて、彼の鉄道事業について検討してみたいと思っています。自由主義経済の立場からの渋沢の鉄道事業の展開をみておくことは、今日のJRの鉄道経営を考える上でも参考になるのではないかと思っています。

老川慶喜(おいかわ・よしのぶ)

1950年埼玉県生.立教大学大学院経済学研究科博士課程単位取得退学.経済学博士.関東学園大学経済学部専任講師・助教授,帝京大学経済学部助教授,立教大学経済学部助教授・教授,跡見学園女子大学観光コミュニティ学部教授を務める.立教大学名誉教授.1983年の鉄道史学会設立に参加,理事や会長を務め,現在は顧問.
著書『日本の鉄道――成立と展開』(共編著,1986,日本経済評論社,第12回交通図書賞受賞),『近代日本の鉄道構想』(日本経済評論社,2008,第34回交通図書賞),『井上勝――職掌は唯クロカネの道作に候』(ミネルヴァ書房,2013,第8回企業家研究フォーラム賞),『日本鉄道史 幕末・明治篇』(中公新書,2014),『同 大正・昭和戦前篇』(中公新書,2016),『同 昭和戦後・平成篇』(中公新書,2019),『堤康次郎』(共著,エスピーエイチ,1996),『阪神電気鉄道百年史』(共著,2005,第15回優秀会社史賞),『西日本鉄道百年史』(共編著,2008,第17回優秀会社史賞),『京阪百年のあゆみ』(共編著,2011,第18回優秀会社史賞),『もういちど読む山川日本戦後史』(山川出版社,2016),『小林一三――都市型第三次産業の先駆的創造者』(PHP研究所,2017),『満州国の自動車産業――同和自動車工業の経営史』(日本経済評論社,2020年)ほか