- 2024 04/08
- 特別企画
即位儀式の不思議な衣装
「光る君へ」第11回「まどう心」では、花山天皇の後、懐仁親王が即位する場面がありました。わずか7歳の新天皇は、一条天皇として知られています。花山のときには即位式は描かれず、今回の一条は、中国の皇帝のような不思議な衣装でした。
じつは天皇の即位儀式は、明治以前は中国の皇帝のような姿で行われるものでした。この衣装は冕服(べんぷく)といいます。
冕は冕冠(べんかん)といい、かぶり物の上に板を乗せてまわりに宝石をすだれのように垂らした冠のことです。
礼服も独特で、袞龍御衣(こんりょうのぎょい)といい、竜の刺繍がついている赤い上着と、赤い裳(も:巻きスカート状の着物)から出来ていて、日月や星辰(せいしん)、つまり北斗七星や縁起のいい生き物などの文様で飾られた、華々しいものです。これらの文様は皇帝を象徴しており、ドラマで新帝を呪詛しようとしていたらしい花山上皇の数珠が切れて、玉が北斗七星の形に散らばるという場面が差し込まれていたのは、多分これを踏まえています。
このような衣装は平安時代初期、嵯峨天皇の時代に「袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう:十二章とはすだれのような宝石装飾のこと)」という名で、天皇礼服と規定されたようです。もともとは正月朝賀(ちょうが)、すなわち元日に文武百官が天皇を拝賀する儀礼のときのための衣装として定められたとしています。
そして即位式は正月朝賀と同じ形で行われていたのです。
大極殿から清涼殿へ
正月朝賀や即位式にはすべての官人が入れるスペースが必要なので、大極殿とその広い前庭である朝堂院の中庭が会場となりました。現在の平城宮で復元されている大極殿は、聖武天皇の即位を意識して造られたものの再現で、非常に広い前庭を体感できます。この形は長安京大明宮の含元殿(がんげんでん)という巨大な建築と前庭を意識していたようです。
聖武天皇の時代には装飾の多い冠は被っていたものの(正倉院宝物にその残欠があります)、衣装はまだ袞冕十二章ではなく、神聖な色である白衣だったようで、平安初期に向けてだんだんと中国的に整えられていったようです。
さて、正月朝賀は奈良時代には非常に重要な儀礼でしたが、平安時代になると次第に廃れ、内裏清涼殿(せいりょうでん)の東庭から、昇殿を許された身分の高い貴族が天皇を拝賀する「小朝拝(こちょうはい)」だけになっていきます。
一条朝でもほとんど朝賀は行われず、大極殿も仁王会(にんのうえ)のような仏事や、伊勢の神に仕える斎王恭子女王の発遣(旅立ち)の儀式で使われた程度だったようです。
奈良時代から平安時代初期の天皇は定期的に姿を見せ、すべての臣下に支配者であることを認識させており、大極殿と朝堂院はそのための場だったのですが、平安中期以降、天皇は内裏からほとんど出なくなり、大極殿も荒廃していきます。
鎌倉時代に編まれた『古事談』というゴシップ集には、花山天皇が宿直をしていた藤原道隆・道兼・道長の三兄弟に肝試しを命じ、平安宮の怖いスポットに一人で行くように命じたという話があります。道長だけが成功するのですが、その行き先はなんと大極殿の高御座のある所だったのです。史実かどうかはわかりませんが、大極殿の荒廃ぶりがうかがえるエピソードです。だからこそ『大鏡』が書いて、『光る君へ』が一条天皇即位時のこととして採用した「高御座の中で生首が発見された事件」が起こりえたわけです。
大極殿と朝堂院の儀式は中国風で、大極殿は基壇の敷石の上に高御座を置いて天皇がすべての臣下を見下ろし、皇太子や大臣以下の臣下は庭に立って天皇を拝み上げます。対して内裏の清涼殿は高床式の和風建築でした。天皇の大極殿から内裏への儀式環境の変化は日本化であり、本来中国風の絶対的な存在だった天皇と貴族の距離が近くなったことの象徴とも言えます。それは同時に、天皇が外戚(がいせき)である摂関に取り込まれていく変化の表れでもあるのです。