2023 06/28
著者に聞く

『入門 開発経済学』/山形辰史インタビュー

2011年8月、バングラデシュ北部のKurigram県Char Rajibpur郡の村で女性たちに小規模金融についてのインタビューを行った。筆者は奥の左から2人目。

世界は今でも理不尽な悲惨さに満ちています。貧困、差別、災害、疫病、戦争……。これらに立ち向かうための学問が開発経済学です。『入門 開発経済学』を刊行した山形辰史先生にお話を伺いました。

――そもそも開発経済学とは何ですか?

1986年、大学卒業間際に初めて外国に行き、タイ東北部の農家に2週間ホームステイした。ステイ先のYasothon県Loeng Nok Tha郡Nongyang村のThongfuang一家と近隣の人々と筆者(後列右から3人目)

山形:開発経済学は「国際開発をより良く進めるための経済学」だと私は思っています。
「開発」には日本の地域開発も含まれますが、国際開発は「他人の国の開発」です。他人の国のことを云々(うんぬん)するわけですから、相手にとって何が大事か、そのためにはどの方法を採用すべきか、そもそも自分がどこまで前面に出るべきか、といった多くの配慮が必要です。その意味で国際開発には、「自国の地域開発」を行う場合には求められない知識や経験や考慮が求められます。
さらに国際開発は、経済学のみならず社会学、政治学、人類学、法学、行政学、国際保健学、障害学を動員してなされますので、開発経済学者は国際開発に有用な他の学問分野の知識も持っているべきだと私は思っています。

――開発経済学についての教科書はいろいろありますが、本書はそれらの本と、どういう点が異なりますか。

1993年、友人を訪ねて行ったナイジェリアの最大商業都市ラゴスの市場にて。

山形:開発途上国は時代時代に異なる課題に直面してきました。それらの課題に答える経済分析が、その時々に出版される開発経済学の教科書に反映されてきました。

1976年に出版された西川潤『経済発展の理論』(日本評論社)は、当時の開発途上国が社会主義的な経済計画を課題としていたことから、マルクス経済学的分析を重視しています。
1979年に出版された鳥居泰彦『経済発展理論』(東洋経済新報社)は、農業国が工業国へと展開するための資本・労働移動を重視しました。
1971年に出版された村上敦『開発経済学』(ダイヤモンド社)と1986年に出版された渡辺利夫『開発経済学』(日本評論社)は、輸出をテコに産業発展を達成した東アジア経済を視野に入れ、国際貿易論からの含意を焦点にしています。
1990年に出版された石川滋『開発経済学の基本問題』(岩波書店)は、累積債務に直面する低所得国のための構造調整融資に触れています。
東アジアの成長が顕著になって、欧米とは異なる制度の重要性が認識され始めた1995年に出版された速水佑次郎『開発経済学』(創文社)は、制度の形成のされ方やその経済発展における役割をハイライトしています。
1997年に出版された絵所秀紀『開発の政治経済学』(日本評論社)は、経済開発を超え、それを包含する人間開発という新しい概念の意義を強調しています。
またマイクロファイナンスなど農村金融の成功が注目されていた2003年に出版した黒崎卓・山形辰史『開発経済学――貧困削減へのアプローチ』(日本評論社)は、農家経済分析を可能にするハウスホールド・モデルを分析の基礎に置きました。
2011年に出版されたA. V. Banerjee and E. Duflo, Poor Economics: A Radical Rethinking of the Way to Fight Global Poverty, PublicAffairs (山形浩生訳『貧乏人の経済学』みすず書房、2012)は、ミレニアム開発目標などによって、国際開発にも成果主義の採用が求められるようになったことを背景にして、プロジェクトのインパクト評価に基づいた議論を行っています。

このように、それぞれの時代によって迫られている課題が異なるので、開発経済学の教科書が扱う内容やアプローチが異なると言えます。
私の『入門 開発経済学』において現下の開発途上国の課題として意識したのは、一つには新型コロナなどの感染症に対処するための医薬品開発とその普及、もう一つは中国に代表される新しい開発資金提供者とOECD/DAC加盟国に代表される伝統ドナーとの間の調整の狭間に開発途上国が置かれていること、でした。特に後者の課題は、本書の出版がなされた時点でもまだ制度設計途中だったので、未完の課題とも言えます。
さらには、世界全体の貧困削減が進んでいる中で、まだ大きな「悲惨」が残っているとしたらそれはどこなのか、を重視しました。その意味で、ジェンダー、子ども、障害者、難民と外国人労働者の貧困削減や人権擁護は今も大きな課題であることを記しました。
最後に、日本の国際協力政策です。巻末では、本書執筆時には改定作業中だった開発協力大綱(2023年)原案に対する批判に紙幅を割きました。

――執筆にあたって工夫した点、あるいは苦労した点がありましたらお教えください。

2008年8月、フィリピンの首都マニラで行った障害者生計調査の調査員チーム一同。肢体不自由、聴覚障害、視覚障害を持つ障害者を調査員としてフィールド調査を行った。筆者は前列右端。

山形:私は大学で、開発途上国の現地語を知らない若い学生さんたちに、開発途上国の人々を身近に感じてもらうために、開発途上国の人が書いた小説、監督した映画などを授業で紹介するようにしています。
この本の中では、第1章の二重経済論の箇所で、ナイジェリアの小説家であるチヌア・アチェベの『崩れゆく絆』を紹介しました。同じ箇所でセネガル人であるウスマン・センベーヌが監督した映画「Moolaadé(邦題:母たちの村)」にも触れました。第2章の児童兵の箇所では、ギニア生まれのアマドゥ・クルマの小説『アラーの神にもいわれはない』、中国人映画監督である陳凱歌の手記『私の紅衛兵時代』を紹介しました。
時代時代に人々が直面した苦難、それらへの抵抗、そして挫折や後悔や無力感は、統計数字で示すことはできませんし、私の薄い本では伝えきれないので、読者の方々には是非それらの原典(日本語訳、日本語字幕があります)を読んだり観たりしていただきたいと思います。

――山形先生は、そもそも、なぜ開発経済学を志そうと思ったのですか。

山形:大学に入ったころ(1982年)、自分が将来何をすべきか分かりませんでした。いろいろ本を読んでみたり、音楽を聴きに行ったり、映画を見たりしてみるのですが、よく分かりませんでした。
そのころ、勉強の合間に図書館の地下室の大型本を一つずつ順番に見るような習慣があって、絵とか写真とかをただ考えもなく開いては閉じ、開いては閉じしていました。
一冊目に留まったのが三留理男という写真家の写真集で『East Africa akoro――食うものをくれ!!』(週刊プレイボーイ特別編集、集英社、1981)、でした。1981年のエチオピアの飢餓を写したもので、表紙には食べ物を求めて並ぶ無数の人々の前を悠々と裸で横切るお腹の膨れた男児の姿があります。中の写真や解説を読んで、とにかく世界には大変な問題があることを示していました。飢餓、貧困、戦争、暴力は、岩手県の田舎生まれの自分にでも、どれだけ悲惨なことか想像できました(想像するだけですが)。
この問題の解決に、ほんの少しでも貢献できたとしたならば、多分それはやり甲斐のある仕事で、それは実家の家業(酒の卸売りと小売り)を継がない言い訳にできるほどの大事業なのではないか、と薄ぼんやり考えました。

それが大学1年生の冬だったと思います。そこから「自分に何ができるのだろうか」と考え始めました。一時期は、「貧困解決のためには人口抑制が必要だ」と思い込み、2年生の1年間は家族計画や避妊、断種手術のことばかり調べていました。しかし断種手術を強要するような人口抑制政策には無理があると思うようになり、3年生になると高梨和紘先生(慶應義塾大学経済学部)の下で開発経済学を学ぶようになりました。
三留理男『East Africa akoro――食うものをくれ!!』は後年、文庫本版(『アコロ――喰うものをくれ!』)を古本屋で手に入れて、今も手元に持っています。

――開発経済学に携わってきて、何か印象的な経験がありましたらお教えください。

バングラデシュの首都ダッカのゲストハウス「グリーン・グース」のスタッフたち。ポーズをとっているのがコビール(左)。インコがゲストハウスに迷い込んできたので記念撮影したと記憶している。2009年、筆者撮影。

山形:バングラデシュでの印象深い出来事について述べたいと思います。
私は2000年1月に、当時の勤務先のアジア経済研究所から1年間の予定でバングラデシュに派遣されました。首都ダッカのBangladesh Institute of Development Studiesという研究所の客員研究員をしました。帰国後もバングラデシュには毎年2回ほど足を運ぶような頻度で行き、研究を行っていました。

2011年3月11日に東日本大震災がありました。私は岩手県の内陸の出身です。自分の実家の被害は大したことはなかったものの、沿岸の地域の人々が大きな被害を受けました。自分は小学校高学年のころ、毎夏、岩手県に隣接する宮城県気仙沼市の大島に2週間程度、家族で夏休みに行く習慣がありました。その大島も壊滅的被害を受けました。テレビで何度も大島や気仙沼、そしてその他の沿岸の町が大波に洗われ、多くの人が流されるのを映像で見て、ただただ泣いていました。
東京に住む同世代の友人の医師は、自分の車に積めるだけ救援物資を積んで被災地に向かったとSNSで知らせていました。自分は車の運転ができず、車も持っておらず、医療も知らず、その一方で、アジア経済研究所(千葉県千葉市)には研修生が残っていて、彼らの研修が自分の役割だ、と思い定めて、千葉に留まっていました。
2011年の5月ごろに、アジア経済研究所の出張でバングラデシュを訪れました。ダッカにグリーン・グース・ゲストハウスという定宿があり、そこでいつものスタッフに、いつも通り温かく迎えられました。
そんなある日、スタッフの一人のコビールと会話していました。彼は20代後半ぐらいの男性で、比較的最近スタッフになったのですが、お金の出納も少しは任され、ゲストハウスの中ではちょっとした将来の幹部候補生のように見えました。受け答えが誠実かつ率直で、それが彼の好感度を高めていました。
その彼が言いました。
「山形バイ(兄貴の意)。日本は大変なことになっているじゃないですか。ダッカでもテレビで津波の映像が流れて、本当に心が痛みます。それで考えたんですけど、僕が日本に行って、何かできることがないでしょうか。瓦礫があんなに積み重なって、あれを元に戻すのは大変ですよね。大変な数の人手が要るんじゃないですか。自分にも何かできるのではないでしょうか?」
多分彼は、自分が飛行機代を負担して日本に行くとか、無償で働くとかいったことを考えていたのではないと思います。それらは誰かが負担してくれることを暗黙裡に想定していたと思います。その一方で、彼が日本の高賃金を得るために、この機会を利用して日本に出稼ぎに行きたいといったわけではないことも確かです。そんな深い考えは何もなく、ただ単に「大変なことが起こっているのだから、その助けになりたい」と言ったのだ、と自分は受け取りました。
その質問に対して私がどう回答したのか、もう覚えていません。ビザを取るのが難しいとか、何か理屈をつけて、彼に「それは無理だ」と伝えたのだと思います。しかし私は彼の発言に対して、手を合わせたいような、ひれ伏したいような、逆に天を見上げて叫びたいような、ありがたさを感じていました。コビールは純粋に、誰かが大変困っているから、自分が何かできることをしたい、と素直に申し出たのだと思いました。

国際協力は、外交や国際関係改善のために行うとか、国益や企業価値やブランド・イメージを高めるために行う、という人たちがいることは否定できません。そういう動機の方が全体として強いのではないかという解釈もあります。そういった現実を否定する気はありません。
しかしその一方で、コビールが示したような素朴な共感を、国際協力に関わる多くの人が一定程度持っていることも確かだと自分は思っています。そういう人たちは、国際開発という分野にやり甲斐を感じ、国を超え、言葉を超えて、相手国の人たちと連帯ができるのだと思います。そのことを、この機会に書き留めておきたいと思います。

――最後に読者、特に若い人たちに対して、これだけは言いたいというものがありましたら。

山形:若い人に言いたいことはありません。むしろ自分と同じ年代やそれ以上の年齢層の人たちに言いたいことがあります。
自分を含む高齢者は、自分たちより若い人たちに「席を譲る」べきだと思います。高齢者は今後も、電車で席を譲られることはあるでしょう。それは受け入れましょう。しかし、社会の中で意思決定をする「席」に着く人は、特に日本においてもっと若返るべきだと思います。
その理由は、高齢者は変化を受け入れにくいからです。過去に多くの変化を受け入れてきた高齢者は、新しく起こる変化に適応するのが億劫になるのが自然です。
自分が学生だった1980年代から現在まで、技術や社会が大きく変わりました。情報保存手段はテープレコーダー、磁気テープからカセットテープ、ビデオテープ、フロッピーディスク、デジタルカメラ、携帯電話、スマートフォンのように移り変わりました。
1980年代初めには対外開放度がかなり低かった中国やインドが、今ではどの国にとっても大きな貿易相手国となり、国際政治経済の重要なプレーヤーにもなりました。東アジアの多くの都市の生活水準は先進国並みになりました。
グローバル化が感染症の拡大を促進することを、我々はCOVID-19で思い知らされました。さらにロシアという先進国かつ核保有国が国家間戦争を起こしています。社会では男女平等、性的少数者の尊重、障害者の社会進出、国籍や文化の多様性の受容といった変化が求められています。
我々高齢者の行動様式や思考パターンは、我々の過去の経験や環境に強く規定されています。さらに、社会的かつ生物学的人生の終わりが目の前にちらついてくるため、変化に対応する能力も、そして誘因も欠けてきます。
そういう世代が、社会の重要な決定をするポジションを独占するのは、次世代のためのみならず、我々高齢世代にとっても良くないことだと考えます。

フランスのマクロン大統領は就任時39歳でした。ニュージーランドのアーダーン前首相は37歳でその地位に就いています。スナク英首相は42歳で就任しました。アーダーン氏は女性、スナク氏はインド系、ヒンドゥー教徒でもあります。
このように世界では性別、国籍、宗教、そして年齢の面で政治・経済的意思決定が多様な層の人々によって担われているのに対して、日本の政治・経済のリーダーのほとんどが高齢男性であるのは異様であるのみならず、日本社会の活力を削いでいると言えます。私は60歳になって高齢男性グループに入ったので、その内側から高齢男性社会に異を唱えたいと思います。
私は高齢者が、政治や企業の指導者的地位から身を引き、より若い方々に意思決定権を引き渡すべきだと思います。そのうえで高齢者は、組織や企業を代表せず、一人の専門家として社会に貢献すべきだと考えています。組織の上に立つことで権限を行使するのではなく、自分の能力やスキルだけで世の中のお役に立つことが、これからの高齢者の道だと考えます。

山形辰史(やまがた・たつふみ)

1963年,岩手県生まれ.1986年,慶應義塾大学経済学部卒業.2000年,米国University of Rochesterより博士号取得(経済学).日本貿易振興機構アジア経済研究所研究員,バングラデシュ開発研究所客員研究員などを経て,現在,立命館アジア太平洋大学アジア太平洋学部教授.元・国際開発学会会長.2013年度国際開発研究・大来賞受賞(森壮也氏との共著に対して).
著書 森壮也・山形辰史『障害と開発の実証分析――社会モデルの観点から』勁草書房,2013年.黒崎卓・山形辰史『開発経済学――貧困削減へのアプローチ』(増補改訂版)日本評論社,2017年.紀谷昌彦・山形辰史『私たちが国際協力する理由――人道と国益の向こう側』日本評論社,2019年ほか.