2021 01/07
著者に聞く

『明智光秀』/福島克彦インタビュー

本の帯の絵柄については、下記インタビューの後半に詳しい説明があります。

大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公となった明智光秀。本能寺の変で主君信長を討ったことは周知の事実だが、そこに至るまでの業績はほとんど知られていない。光秀とはいったい、どのような武将だったのか。「織田政権の司令塔」の副題を持つ『明智光秀』を著した福島克彦さんにお話をうかがった。

――福島さんのご専門は。

福島:中世都市史、城郭史を専門にしています。

――そもそも明智光秀に関心を持ったきっかけは。

周山城跡(京都市右京区)の西尾根の高石垣。光秀により標高約480メートルの山頂部分に築かれた総石垣の大規模な城であった。山裾に所在する慈眼寺には光秀の木坐像が祀られている。

福島:丹波地域(京都府中部および兵庫県中東部)の城を調べていく際、明智光秀の丹波攻略に関する一次史料を収集し始めたことからです。その後、明智光秀研究会の方々と目録を作成させていただきました。

――明智光秀が大河ドラマの主人公に決まったのは2018年4月でした。どう思われましたか。

福島:一般に大河ドラマの主人公は少年期、青年期から描いていきます。史料が全くない前半生をどう描くのだろうかと思いました。彼の確実な史料が現れるのは50歳前後からです。

――なるほど。光秀の生年ははっきりしておらず、没年は数え年で67歳ともいわれています(55歳説など諸説あり)。逆算すると歴史の表舞台に登場したのは50代で、当時としてはすでに老年期にさしかかっていた?

そうなります。それを逆手にとって、たまには50歳から始まる斬新なストーリーがあってもいいと思うのですが……。

――まず、光秀の主な戦績を教えてください。

遠く、八上城(兵庫県丹波篠山市)が築かれた高城山(標高約460メートル)を望む。丹波の国衆・波多野氏の本拠だった八上城は、明智軍の猛攻により落城した。明智方も、与力だった小畠永明が戦死するなどの被害を受けた。光秀の母が磔(はりつけ)になった城として知られるが、史実ではない。

福島:近江(滋賀県)北部における浅井氏との戦い、丹波攻略、大坂本願寺攻めの3つが挙げられると思います。このうち、丹波攻略の八上城攻めが彼の生き方を大きく変えたと思います。

――丹波攻略における苦闘は、ご著書『明智光秀』の大きな見所だと思いました。武人としても優れていた光秀ですが、一般の人は「本能寺の変を起こした人物」というイメージしかないようです。

福島:今回、改めてそのイメージの強さを思い知らされました。言い換えれば、光秀そのものについては意外と知られていない、関心が低いと思いました。本能寺の変を可能にした人物という視点に立てば、彼の内実を知らないと、変の要因にも迫れないと考えています。

――そこでうかがうのですが、副題の「織田政権の司令塔」とはどういった意味ですか。

福島:信長の身近にいながらも、巨大な権限を行使し得た部将であったと思います。天正7年(1579年)以降は、外交、内政についても活発に動いていたと思います。

――天正7年というと、本能寺の変の3年前ですね。信長と光秀の関係はどのようなものだったとお考えですか。信頼関係はあったのでしょうか。

福島:京都の周辺は光秀の影響下にある区域です。京都へわずかな手勢で動いているわけですから、信頼しきっていたと思います。

――光秀が謀反を起こした理由をどうお考えですか。

福島:四国の長宗我部氏への信長の政策の変化が起因していると思います。本能寺の変も四国攻めの直前に起こっています。あと、信長と嫡男の信忠がともに在京したという絶好のタイミングが、光秀に決断を促したと思っています。

――なぜ信長を討つことができたのでしょうか。

福島:光秀が信長の行動パターンをよく知っていた、分析していたからだと思います。特に、信長の京都への行動パターンは常に把握していたと思います。

――ところで、帯の絵柄について教えてください。あれは錦絵ですか。

福島:「足利義教公」と呼ばれる幕末の錦絵で、浮世絵師・歌川貞秀(1807~79)の作品です。嘉吉元年(1441年)の室町幕府6代将軍暗殺(嘉吉の変)を描いていますが、絵柄を見るとどう見ても本能寺の変です。当時は信長以降の歴史を描くことが許されなかったので、義教の暗殺に仮託して描写しています。信長を、恐怖政治を敷いていた義教にあてるなど、皮肉が効いています。

――光秀は、本能寺の変後の山崎合戦で、羽柴秀吉と雌雄を決しました。対照的な性格と描かれることの多い光秀と秀吉が「似ている」と本文中でお書きで、非常に意外でした。

福島:結局、信長に登用された部将たちは、一から兵や軍事物資を集め、国衆たち(在地勢力の武士)の信頼をつなぎ止めるような人物でないと務まらなかったでしょう。大なり小なり「人たらし」のような部将たちになったと思います。その点、光秀と秀吉は似ていたと考えています。

――そういうことですか。光秀の人となりがわかるようなエピソードがありましたら。

福島:天正3年(1575年)5月の坂本城(滋賀県大津市)における島津家久(のちの薩摩藩主とは別人)への饗応の場面です。彼がいかにもてなし好きであったかがよくわかります。魅力的な人物だったと思います。

――最後に、今後の取り組みのご予定をお聞かせください。

福島:丹波・山城(京都府南部)における国衆たちの動向について考えてみたいと思います。あと、彼が城を築いた坂本や亀山(京都府亀岡市)という都市について、もう少し内実を明らかにしたいと考えています。

福島克彦(ふくしま・かつひこ)

1965年、兵庫県生まれ。立命館大学文学部卒業。愛知県立高校教諭を経て、現在、大山崎町歴史資料館館長。著書に『畿内・近国の戦国合戦』『明智光秀と近江・丹波』などがある。