2020 08/24
著者に聞く

『万葉集の起源』/遠藤耕太郎インタビュー

モソ人の伝統的な衣裳を着た著者(左)

新聞の短歌や俳句の投稿欄には毎週たくさんの作品が掲載され、高校生たちが「俳句甲子園」に集うなど、「歌を歌う文化」は、いまの日本にも残っています。この文化をさかのぼると、文字に記録された最古の歌集である『万葉集』に行き着きます。では、『万葉集』のルーツをさらにたどると何が見えてくるのでしょうか。

『万葉集』に記された「歌垣」の風習など、「人を恋しいと歌う文化」がいまでも残る中国・雲南省の少数民族を長年調査し、『万葉集の起源 東アジアに息づく抒情の系譜』を刊行した遠藤耕太郎さんにお話を伺いました。

――はじめて「人を恋しいと歌う文化」に触れたのはいつでしたか。そのときどんなことを思いましたか。

遠藤:私が中国の少数民族の村に入るようになったのは1997年からです。その後、1998年から2000年まで、現地で暮らしました。1998年1月にリス族の人々の温泉場での歌垣を見たのが、人を恋しいと歌う文化に触れた最初です。1999年にはイ族の人々のお葬式(本書では「喪葬(そうそう)儀礼」と呼んでいます)を調査させてもらいました。ここでも、死者を恋しいと歌う文化に触れました。

本書に、私は人を恋しいと歌う文化に憧れると書きました。私たちも人を恋しいと思うし、お葬式で死者を恋しいと思うことは当然あります。でも、それを音声やメロディーを伴った歌として相手に歌いかけることは、まずありません。

しかし、彼らは歌垣なら二時間も三時間も歌い続けますし、またお葬式なら何日間も昼夜を問わず歌い続けます。はじめて彼らの声の歌に触れたとき、その膨大な歌の量に圧倒されました。

聞いていても、彼らはそれぞれの少数民族の言葉で歌っているので、意味はわかりません。でも、徐々にその時にビデオに収めた映像を翻訳していくと、この歌々は、単に膨大な量なのではなく、その膨大さは彼らの心の機微や揺れを表現する技術に支えられているということがわかってきました。本書は、そういう声の歌の技術が、文字で書かれた歌としてある『万葉集』の歌にも継承されていると考えました。

――現地で調査して、古代の日本をどうイメージされましたか。

遠藤:「現代の日本」は、近代の日本文化やそれ以前の日本文化の累積の上にあります。同じように『万葉集』を生んだ「古代の日本」というのも、それ以前の日本、つまり、まだ文字や国家がなかった東アジアの東の果ての列島の文化の累積の上にあります。

日本の古代をイメージするときに大事なのは、それ以前の声の文化を濃厚に継承しつつ、古代国家が建設される中で、声の文化が文字の文化として自立していくという見方だと思います。

その声の歌が、歌垣やお葬式でさかんに歌われていました。そういう歌をその場でビデオを回しながら聞いたり、翻訳していく中で、かつて、文字や国家のなかったこの列島にも、彼らと同じように、人を恋しいと歌う人たちが暮らしていたんだろうと想像しました。

その後、大和王朝が古代国家を建設する中で、声の歌がどのように儀礼や宴や社交の場における抒情歌へ飛躍していったのかについて思いを馳せました。

――それでは、先生がとくにお好きな『万葉集』の歌、中国少数民族の歌がありましたら、それぞれ1つずつお教えください。

遠藤:1つというのは難しいですね。私は初期万葉の歌が好きです。『万葉集』巻一冒頭からのゆうりゃく天皇やじょめい天皇の儀礼の歌、おお海人あまの皇子みこぬかたのおおきみの宴の歌など、古代国家が建設されていく若々しい息吹を感じるとともに、それが、国家以前の声の歌を継承しつつ新たな抒情歌になっていくというダイナミズムに惹かれます。

また、いわのひめ皇后が夫、にんとく天皇を思って作った四首の歌の最後の歌も好きな歌の一つです。

  秋の田の穂のらふあさがすみいつへのかたにわがこいまむ(巻2・89)

秋の田の稲穂のあたりに立ちこめる朝霞はなかなか晴れることがない。そのように私の恋はいつになっても晴れやることがないといった意味です。

私の切ない恋はいつになっても晴れやらないという、何か自分の心を客観的に突き放しているような感じが好きです。この歌の前には、訪れのない夫を、山を越えて迎えに行こうかどうしようかと逡巡する歌(86)、こんなに恋い慕って苦しんでいるくらいなら、いっそ山の岩を枕にして死んでしまいたいという歌(87)、そして、やはりこのままずっと待っていようと、前歌の気持ちの(たか)ぶりを反省するような歌(88)が並んでいます。逡巡から気持ちが昂ぶり、反省し、そして自らを突き放すような諦めの境地に至るという、自分の心の揺れをじっと見つめるような歌です。

そういう心の揺れを表す歌は少数民族の人々の歌にもたくさんあります。お葬式で近親の女性が歌う歌(き歌)をあげてみましょう。

  私の母よ、私の家の庭の辺りで、あなたを見たら悲しくないが、あなたの影しか見えないので悲しくなります。

この歌の前に「私たちの家は三日間、お茶を煮ていません」、「囲炉裏の火も寂しくなりました」という歌が歌われています。もう母は死んでしまったということがわかってはいるのです。でも、その直後に歌われるこの歌は、「あなたの影しか見えない」と歌います。この影というのは、「母が生きているように感じる雰囲気」だと歌い手は言います。体はもう死んでいるが、その生きている雰囲気は感じられるというのです。

さらに、この歌の後では、「あなたは亡くなったようにならないでください」、「あなたは生きているようです」とだんだん母がもう死んだという事実が逆転させられていきます。
死んだということはわかっている。死者はあの世に行かねばならない。送らなくてはならない。そういうこともわかっている。でもそういう流れ(本書ではストーリーと呼びました)に抗していこうとするのです。そこに、母を失った悲しみや、なぜ死んでしまったのかという恨みや、不安や恐怖や絶望や、もう何とも言えない思いが立ち現れるのです。

磐姫の歌も、女は男を待つものだというストーリーに抗して、逡巡したり、気持ちが昂ぶってしまったりする。けれど、そこにストーリーの力が加わって自らを突き放すような境地に至る。ストーリーとそれに抗する歌を拮抗させるところに、心の揺れ、抒情を表現するという方法は、このお葬式の哭き歌と同じだと思います。

――日本人にとって、歌を歌うのはどういう意味があるのでしょうか。

遠藤:今述べたように、ストーリーに則った歌と、それに抗する歌を拮抗させるところに、心の機微や揺れのようなものを表すというのが、声の歌の獲得した技術です。

歌垣における恋の歌なら、それぞれの民族の理想的な結婚に収斂するストーリーを持つし、お葬式の歌であれば、死者をあの世に送っていくというストーリーを持ちます。ストーリーに則らなくては社会は成り立ちません。

でも、人間の心は常にそのストーリーから外れてしまいます。本当にこの人と結婚していいのかとか、死んだのはわかっていても離れられないとか。

『万葉集』の歌も現代の短歌も、そういう、ストーリーに則った心と、それに抗する心を拮抗させて心の揺れを表現するという声の歌の技術を起源として、抒情を表現していると思います。そのストーリーはその時代や社会に見合った制度や秩序といった社会的な性質を持っています。

ということは、ストーリーに則った歌とそれに抗する歌を拮抗させるということ、つまり私たちが歌うということは、社会と自分との折り合いをつけ、心のバランスを保つということなのではないでしょうか。

――最初の調査から23年経ちましたが、いまでも現地に調査に行かれているのですか。また、変化はありましたか。

遠藤:はい、1998年からの調査は向こうに住み込んで行なったのですが、2000年に帰国してからも毎年夏に行っています。行けなかったのはSARSの蔓延した2003年だけですが、今年もコロナで行けないだろうと思います。

私の入っている雲南省西北部は、雲南省の中でも貧しい地域です。それでも、2000年以来継続されている中国の西部大開発政策によって、大きな変化がありました。

少数民族の歌の多くは声の文化の中にありますが、中国語教育が行なわれ、現在は急激なグローバル化、市場経済の波が押し寄せています。私が現地にいたころには電気もなかったのに、2000年に電気が通ってからの変化はすさまじく、今ではみんながスマートフォンを操っています。そういう中で、彼らがどのように声の文化を大事にして、それを飛躍させることができるかが問われていると思います。

少数民族の人々の中には、漢字やローマ字を使って自民族語を表記する方法を身に着け、声の歌を記録したり、自民族語で書かれた歌を創作する人も出てきています。

また、ナシ族の暮らすれいこうやモソ人の暮らす湖は大観光地になりました。標高が高く涼しいので、夏には多くの中国人が避暑に来ます。

その一方で、多くの若者が都市部に出稼ぎに行ってしまうことになりました。若者が中心だった歌垣はほんとうに減りました。つい数年前まで、一晩中行われていた歌垣も、お年寄りが少し歌を掛け合う程度で終わってしまうようになりました。

お葬式では、今でもたくさんの、死者を恋しいと歌う歌が歌われています。お葬式を執り行なう呪的職能者も、数はどんどん減っていますが、まだまだ元気です。たくさんの呪文を唱え、死者を死者の世界に送る歌を歌います。また多くの生贄を殺して死者をあの世に送っています。あの世は、彼らの祖先の暮らすところです。

ただ、昨年の夏に、こんなことを聞きました。中国政府が幹線道路の近くに新しい街を作り、少数民族の人々の村をそっくり、強制的に移住させるのだそうです。彼らはその街の高層マンションで暮らし、道路工事などに従事することになります。街でこれまでのようなお葬式はできないでしょうから、今後、お葬式に関しても大きな変化が起こるに違いありません。それは彼らの死生観を根本から変えてしまうことになるでしょう。

――本書執筆にあたって苦労した点はなんでしょうか。

遠藤:私のこれまでの本は、菊版で400ページとか700ページにわたる本文に、VHSやDVDを付けたものでした。それは資料が膨大だったから、厚くなってしまったのです。

アジア民族文化学会の研究者仲間がこんなことを言っていたのが強く印象に残っています。「資料百年、論文十年」。資料は百年間生き続けるが、論理は十年しか持たないということです。ほんとうにそう思います。今、彼女とはそういう膨大な資料(映像資料や文字資料)をデータとして、どうやって残していこうか、頭を悩ませています。

今回は、そういう資料をほんの少しにして、『万葉集』の起源という視点を前面に打ち出しました。膨大な資料のどの部分をどう紹介するかを考えるのに、かなり苦労しました。

――最後に、若い読者にとくに伝えたいことがありましたらお願いします。

遠藤:私は1997年から雲南少数民族の人々の村に入り、歌垣やお葬式をビデオ映像に収めて、それを資料化して理論化するという研究をずっとやってきました。1997年というと31歳のときです。

調査にはお金もかかるし、資料作成には時間もかかります。当時、この資料が『万葉集』とどうかかわるのか、なかなかわかりませんでした。今もはっきりわかったとはとても言えません。

それでも続けてきたのは、彼らの声の歌に圧倒されたときに生まれた、何かよくわからない情熱のようなものだった気がします。20年ほど、そんなことをやっているうちに、徐々に自分が何のために調査をして資料を集めていたのかがわかってきたような気がします。本書はそのわかってきたようなところをまとめたつもりです。

今、多くの大学では教育改革といって、初年次にはここまでできるようになり、二年次にはここまで、三年次には……と、階梯的に学んでいくようなカリキュラムに編成しなおすことが求められています。今はここまでできればいいというのは、ほんとにわかりやすい。

でも、こういうやり方は、先が見えているからできるのであって、新たな先、つまり新たな未来を創り出すときにはほとんど役に立たないと思っています。

若い世代――大学生をイメージしていますが――の読者に伝えたいのは、よくわからない情熱を大事にしてほしい。それがどういうものかは、20年くらいすれば見えてきます。わかりにくいからといって、あるいは、ほかの大勢の人たちが“説明もできないようなことは意味がない”と言っても、その情熱を棄てないでほしいと思います。

遠藤耕太郎(えんどう・こうたろう)

1966年,長野県生まれ.1998年,早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学.博士(文学).日本学術振興会特別研究員PD,共立女子短期大学非常勤講師等を経て,現在,共立女子大学文芸学部教授.一般社団法人アジア民族文化学会代表理事.専攻・日本古代文学,中国少数民族文化.
著書『モソ人母系社会の歌世界調査記録』(大修館書店,2003),『古代の歌――アジアの歌文化と日本古代文学』(瑞木書房,2009),『対歌文化論――日本与雲南白族対歌的比較研究』(共著,科学出版社〔北京〕,2016)ほか.