2019 07/23
著者に聞く

『物語 ナイジェリアの歴史』/島田周平インタビュー

ニジェール川を望むことができるジェッバの丘にて(1982年)

中公新書では、『物語 アメリカの歴史』以来、『物語 ○○の歴史』シリーズを刊行してきました。このたび、はじめてアフリカの国を取り上げました。それが『物語 ナイジェリアの歴史』です。著者の島田周平さんにお話を伺いました。

――いま、なぜ、ナイジェリアが注目されているのですか?

島田:ナイジェリアは、アフリカ1の人口・経済大国でアフリカ連合(AU)の中でも重きをなす国ですから、欧米諸国は昔からこの国の動向には注意を払ってきました。

最近、特に注目度が上がってきているのは、政治的な不安要因のためです。ニジェール・デルタの産油地域で反政府運動が起きると石油の輸入国である欧米各国は直接影響を受けます。また北部ナイジェリアでイスラーム過激派のボコ・ハラムが活動を活発化させると周辺諸国を巻き込み、サハラ以南アフリカのイスラーム圏の政治が一気に不安定化する恐れがあります。ナイジェリアの政治的混乱がもたらすリスクはとても大きいのです。

このような欧米における注目度に比べ、日本におけるナイジェリアの認知度の低さは際立っています。ナイジェリアからの最大の輸入品は液化天然ガスですが、それでも日本の総輸入額の0.1%程度にすぎません。ですから経済的にナイジェリアの重要性を実感することはできないのです。在日ナイジェリア人の数も日本に住むアフリカ人の中では最大だと言ってもわずか2600人あまりですから、日本人にとってナイジェリアはまだ注目に値する国とは言えないのでしょう。

しかし近い将来、世界の4人に1人がアフリカ人となる時代が来ます。その中で最大の人口を誇るナイジェリアの認知度を今のままにしておいていいわけがありません。これからの世界の政治経済の動きを読み誤ることのないよう、欧米並みとはいかないまでも、今よりはもっとナイジェリアに注意を払う必要があると考えています。

――ナイジェリアってどんな国ですか?

島田:危うさとしなやかさが共存する不思議な国です。今述べたようにニジェール・デルタの武装集団やボコ・ハラムによる地域紛争が続き、政治的に不安定な国に見えます。軍政時代が長く続いた国ですから、また軍事クーデターが起きるのではないかと欧米諸国は心配しています。

しかし1999年以降、民主政権が安定的に続き、最近のブハリ大統領に至っては、第1期(2015~2019年)の組閣に半年かかり、ロンドンでの病気治療のため延べ5カ月あまり国を離れていても政変は起きず、2期目の選挙(2019年)で勝利しています。これを見ていると、この国が脆いのか案外しなやかで強いのかよくわからないところがあります。

国民の国家に対する態度にも屈折したものがあり、簡単には理解できない難しさがあります。ナイジェリア人がテレビや新聞の報道で、政治家の汚職や不正のニュースに触れたときに、「見ろよ、これがナイジェリアさ(You see, this is Nigeria!)」と言うことが多いのですが、この物言いには「だからこの国はダメなんだ」という自嘲的な意味が込められています。この突き放した言い方の底には、この国が自分たちの意志とは関係なくイギリスによって創られたことに対する異議申し立ての気持ちが横たわっているように思われます。

それでは、人々はこの国に愛国心や愛着をまったく持っていないのかというと、それがそうでもないのです。もし私が、他のアフリカ諸国と比較しつつナイジェリアの問題点などを指摘すると、即座に、「ナイジェリアは大国だから、他の国とは比較にならないよ」と反論が返ってきます。1970年代の頃には、「ガーナやケニアはまだイギリスの植民地のようなものだ。それに比べこの国は世界も一目を置く大国だ」と自信たっぷりの返事が返ってくるのが常でした。

自分の国として素直に承認できないわだかまりがあるものの、アフリカの他の国とは比べようもない大国だという誇りは持っていたいという、どこかアンビバレントな感じがナイジェリア人の自国観にはあるように思われます。

――ナイジェリアを見ていると、アフリカのどんなことがわかってきますか?

島田:これは、答えるのが案外難しい質問です。私はアフリカ19カ国を訪問した経験がありますが、そのときの感想は「ナイジェリアは他のアフリカの国とは違うな」というものでした。これはアフリカ諸国に出かけたことのあるナイジェリア人自身も感じる感覚のようです。

ということは、ナイジェリアを見て分かるアフリカとは? と聞かれたときの答えは、「ナイジェリアを見ただけでアフリカは分からないし、ナイジェリア抜きでも分からない」という肩すかしのような答えとなるのではないでしょうか。

ナイジェリアを特徴づけている要因の一つとして、大国にありがちな内政優先主義をあげることができます。ビアフラ戦争後の政治を見ても、アメリカに反発して社会主義国のソヴィエト連邦に接近し製鉄一貫工場の建設などを押し進めたり、人権や民主化に対する国際世論を無視してケン・サロ=ウィワを処刑し英連邦の資格を停止されたり、さらに近隣諸国や世界から非難を浴びながらも外国人追放令を2度も強行しました。国際関係に多少の緊張をもたらしても内政重視で突き進んでいく傾向は1990年代まで続きました。

民主政治が始まった1999年以降は、国際世論に耳を傾ける国際関係重視の傾向が強まってきたように感じます。2013年にジョナサン大統領がボコ・ハラムの掃討作戦のためにテロ法制定を考えたときもいちおう欧米諸国の反応を確かめたうえで実施しました。ボコ・ハラム掃討作戦も近隣諸国の協力を得て共同作戦で取り組むようになりました。ナイジェリアも大国ぶらない国になりつつあると言えるのかもしれません。

しかし、トインビーが指摘した、アフリカ大陸を南北に分ける線に関わる国内問題、たとえば2017年以降激しくなってきた北部から来た牧畜民と南部の農民との衝突問題に関しては、政府は、国際世論よりも国内政治重視で取り組むのではないかと私は考えています。この点ではナイジェリアはやはり他の国とは違うユニークな面を持つ大国だと考えておいたほうが良さそうです。

――そもそも島田先生がナイジェリアを研究しようと思ったのはなぜですか?

島田:私がナイジェリアと出会ったのはアジア経済研究所に入ってからです。大学時代からイランやサハラ砂漠の研究書を読み、中東アフリカ地方に興味がありましたが、研究所に入る前に具体的な調査地域を決めていたわけではありません。

調査研究部長からタイ、イスラエル、アフリカの中から調査国を選ぶように言われ、すぐにアフリカを選んだのですが、アフリカのどの国にするかでしばらく迷いました。最初はリビアのカダフィに興味を持ちアラビア語も学びましたが、アフリカ室で先輩研究者たちの話を聞くうちにサハラ以南アフリカのほうが面白そうに思えてきたのです。

当時のサハラ以南アフリカではナイジェリアとザイール(現在のコンゴ民主共和国)が研究担当者のいない大きな空白地帯でした。ナイジェリアは現地調査が一番難しい国だが、研究対象としては間違いなく一番面白い国だと先輩が口を揃えて言うので、面白い点に賭けてナイジェリアを選んだというわけです。

私が初めてナイジェリアに出かけたのは1974年です。これ以来都合15回、日数にして3年分にあたる日々をナイジェリアで過ごしました。最初に降り立ったカノの国際空港では、税関員が悪びれることなく金品を要求しました。また到着した一級ホテルでは、予約したはずの部屋がないと言われ、さんざんもめた後にあてがわれた部屋は床が水浸しの部屋でした。

初日の印象があまりに酷いものだったので後の旅程が思いやられたのですが、翌日、街に出ると人々の明るさと活気が私の心配を払拭してくれました。そのうえ後日に起きた思わぬ出来事が初日の悪印象を流し去ってくれました。この最初の現地調査で私は、1カ月あまりをかけ、北部の諸都市カノ、カドナ、ザリア、ジョス、東部のエヌグ、ヌスカ、そして西部のイバダンを回り、各地にある大学を訪問しました。

このときにカドナのホテルで財布を無くして落胆していたのですが、その財布が500キロメートルも離れたイバダン大学に居た私のもとに中身はそのままで届けられたのです。ホテルの中庭で私の旅行目的や行程なども話題に談笑した滞在客が、私が立ち去った後に芝生の上に財布を発見し、それがどうもあの日本人の物らしいと判断して、知り合いに託しイバダンの大学まで届けてくれたのです。彼の親切心と、財布を無事に届けてくれた人々のネットワークの信頼性には驚かされました。

私には、道路検問所で旅行者に威圧的に金品を要求する警察官と、拾った財布を無事に届ける親切な人々が同じ空気を吸っていることが信じられませんでした。このときに私の心に浮かんだのが、短期の滞在では窺い知れない奥深い世界がこの社会の「内側」にあるのではないかという思いです。

警察官の行動に象徴されるように公的部門では不正が蔓延しているのに、一般の人々は秩序ある「内側」の社会で平穏な日常生活を営んでいるのではないかと考えたわけです。このような奇妙な二層現象を生み出しているナイジェリア社会に私は惹きつけられたといえます。できれば公的部門の下で息づく日常的社会の「内側」に触れてみたいという強い思いが私のナイジェリア研究を支えてきたと言えます。

――研究に当たっての苦労がありましたらお教えください。

中部ナイジェリアの調査地にて(1979年)

島田:研究の苦労で最大のものは、調査許可でした。私が長期滞在していた1970年代末は、外国人研究者のフィールド調査を許可する正式な制度がありませんでした。現地のイバダン大学の研究者が実施している調査プロジェクトに参加する形でなんとか村に入ることができました。

地理の学科長に地方政府宛ての紹介状を書いてもらい、地方政府の秘書長の紹介を得て調査村に入りました。村では村長と村民の前で自己紹介をし、それから調査を開始しました。調査に入るまでには苦労しましたが、いったん村に入ると、調査補助をしてくれる若者と村の中や畑を自由に回ることができました。時々調査補助の若者が、「見かけない人物が遠巻きに君を観察している」と教えてくれることがありましたが、それらしき人物から聴取されるというようなことは一度もありませんでした。

それよりも、現地調査で最も心の負担になったのは道路の検問所にいる警官や軍人でした。彼らは検問にかこつけ大っぴらに金品をせびりました。私はこの種の要求に一度も応じたことはありませんが、代わりに体力と貴重な時間をたっぷりと使いました。

民政になった現在、軍人がこの種の検問を行うことはなくなりましたが、警官は今も健在です。以前よりはこの種の不正も減りましたがまだ無くなったわけではありません。2019年の大統領選挙で若手候補者の1人がこの点の改善を強く訴えていましたが、私もこの悪行がすぐにも無くなることを願っています。

――反対に、ナイジェリアの魅力がありましたら、お教えください。

島田:調査を始めて感じた魅力の1つに、人々の積極性と旺盛な知識欲を挙げることができます。この国での聞き取り調査は、他の国での調査より時間が長くかかります。というのは、人々が私の質問に静かに応じてくれないことがあるからです。私が質問を始めるや否や、彼らが私に質問を始めることもあります。

「何でそんなことを聞きたいのか? それを聞いてどうするのか? 日本ってどんな国で、今の状況はどんな具合か?」。質問の種は尽きません。お陰で、私が聞きたいことがなかなか聞き出せないということになります。これは1990年代に足繁く通ったザンビアの村での経験とは大きく違いました。ザンビアでは、私が聞きたいことに静かに答えてくれ、私の質問を遮って逆質問するということはまずありませんでした。

でもこの積極性に助けられたことがたくさんあります。とりわけ女性たちの積極性には助けられました。聞き取りは原則家長にお願いすることにしていて、それはほとんどの場合男性ですが、一見関心なさそうに同席した妻(たち)や嫁たちは、結婚、出産、子供の病気、親の死などの人生の節目の年代を正確に覚えていて、家長の間違いをすぐに訂正してくれたのです。時には家長が語る、ある出来事の形式的な説明に反撥し、事の顛末を口々に述べはじめ、思わず面白い魅力的な話を聞くことができました。

男性が比較優位に立っていた情報はといえば、人と人との繋がりのネットワーク情報で、その情報量は驚くべきものでした。この人的繋がりに関して心温まる経験がありますのでそれを紹介してみたいと思います。それは、調査の一環として、大学のあるイバダンの町を出て3つの町を回った時のことです。私はこのときホテルに泊まることなく、紹介された人たちの家々で4泊5日の旅をしました。最初に大学の友人Aにイロリンに住む彼の知人B宛の紹介状を書いてもらいそこに2泊させてもらいました。次にBから次の町に住む友人Cを紹介してもらいその家に1泊し、翌日はCに書いてもらったメモをもって次の町に住むDの家に泊めてもらい、その翌日にイバダンに戻りました。もちろん私にとってB、C、Dは初めて会う人たちでした。彼らは見ず知らずのアジア人の私を快く受け入れ、夕食も朝食もふるまってくれたのです。

このようなホスピタリティの習慣が悩みの種だと大学の友人から聞いたことがありましたが、金のない若者や旅先の地理に不案内な者にとってはとても助かる援助システムだと思いました。これは、魅力的な社会の「内側」を垣間見ることができた貴重な経験だったと思います。

――ご専門は人文地理学ですが、歴史に興味をもたれたキッカケはどのようなものでしょうか?

島田:地理学は自然から社会まですべてを対象にする学問です。私は、1つの農村社会を、現地調査(フィールドワーク)をもとに自然環境も含めて総合的に捉え、それをモノグラフとしてまとめてみたいと考えていました。

フィールドワークが中心になると、どうしても1つの村か地域社会に研究が絞られがちになるのですが、私は、調査対象の社会が国家という枠組みの中でどのような特殊性をもっているのかという視点を失わないよう常に意識してきました。ナイジェリアでは、辺鄙な田舎であっても人々は国の政治に翻弄され文化的軋轢に揉まれ、国の中における自分たちの位置を常に意識せざるをえない状況にあったからです。

国の中における地域社会の位置をより良く理解しようとすると、過去の歴史を知る必要がでてきます。調査地の様子を描くために最低限必要な歴史だけは自分なりに勉強しておかなければならないという思いは最初から強くありました。この思いから作っていたノートの一部が、この「物語」の材料となっています。ですからこの本は、私の歴史理解の方法を反映しているといえ、地理学者の性として地図も多くなっています。

ナイジェリアはアフリカの中でもとりわけ「地域」が政治性を持って語られる国です。その地域単位は行政地域でも経済圏でも民族地域でも良いのですが、とにかく地域を意識する地理的感覚がないとこの国の政治理解は難しいと思います。この点で、地理学出身の私が歴史を書くことも許されることかなと考えています。

――最後に、読者とくに若い人へのメッセージがありましたら。

島田:この本を書いた者としては、アフリカのことにもっと興味を持ってほしいということに尽きますが、広く言えば未知なる世界にもっと積極的に飛び込んでほしいということでしょうか。

中学・高校の地理や世界史の授業でアフリカが取り上げられる時間は限られています。中には授業でアフリカを取り上げない学校もあるようです。この本をきっかけに、アフリカのどの国でも、他の世界と同じように分厚い歴史が存在することを知ってもらい、自分の知的好奇心の世界を広げてもらえれば、それだけでも私がこの本に込めたメッセージは届いたことになると思います。

コラムでは歴史に直結しないことも取り上げました。このコラムを通してある疑問が生まれ、それが出発点となってナイジェリアやアフリカに対する興味が膨らんでいくことがあれば良いなという期待も持っています。これも私がこの本に込めたメッセージの1つです。アフリカをいろいろな角度から見て楽しみつつ学んでもらいたいと思っています。

今の若い人たちよりも若い年代に限ると、世界の3人に1人はアフリカ育ちという時代がやってきています。アフリカは自然だけではなく歴史も魅力にあふれた大地であることを実感してアフリカのことをもっと知ってほしいと思っています。

島田周平(しまだ・しゅうへい)

1948年,富山県生まれ.71年,東北大学理学部地理学科卒.理学博士.アジア経済研究所調査研究員,立教大学教授,東北大学教授,京都大学教授,東京外国語大学特任教授等を経て,現在,名古屋外国語大学世界共生学部教授.京都大学名誉教授,アジア経済研究所名誉研究員.日本地理学会賞優秀賞,大同生命地域研究奨励賞.
著書『地域間対立の地域構造――ナイジェリアの地域問題』(大明堂,1992年),『現代アフリカ農村――変化を読む地域研究の試み』(古今書院,2007年),『アフリカ 可能性を生きる農民』(京都大学学術出版会,2007年)ほか