2018 09/18
著者に聞く

『帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘』/久保田哲インタビュー

『帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘』を刊行した久保田哲さん。日本近代史に関心を持つようになったきっかけや、執筆の動機について、お話しをうかがいました。

――そもそもなぜ歴史について、特に日本近代史に関心を持つようになったのですか。

久保田:もともと歴史が好きだったこともあり、高校時代の行き帰りなどで、歴史に関する本をよく読んでいました。往復4時間近くかかったものですから(笑)。そうしたなかで、日本近代史への関心が高まっていきました。

たとえば、司馬遼太郎の小説はほとんど読んだと思います。特に大村益次郎を主人公とした『花神』が印象に残っています。どの小説の人物も魅力的に描かれていて、幕末維新期に引き込まれていきました。その後、夏目漱石などを通じて明治の「暗さ」も知り、日本の近代を等身大に知りたいと思うようになりました。

幕末から明治にかけては、250年以上にわたって安定した秩序を保ってきた徳川幕府があっけなく瓦解し、社会のあり方が根底から変わり文明化が推し進められた時代です。これほどの激変を経験した国は、世界中を探してもなかなか見当たりません。近代日本の実相とは、どのようなものであったのか。それを解き明かしてみたいと考えるようになったんです。

――では、今回『帝国議会―西洋の衝撃から誕生までの格闘』を執筆した動機は何ですか。

久保田:明治維新と聞くと、尊王攘夷や文明開化、富国強兵といった言葉を思い浮かべる人も多いでしょう。けれどもこれらの言葉や考えは、維新の途中で立ち消えたり、途中から現れたものです。

そんななかで、幕末から明治期まで一貫して存在したのが「公議」です。政治参加を拡大し、公正な議論で物事を決めていこうという理念といっていいかもしれません。この「公議」が、維新の原動力となり、やがては帝国議会の開設に結びつきました。

明治維新の実像を解き明かしたい。そのためには、「公議」の系譜をたどる必要があると考えて、本書を執筆しました。ですのでこの本は、帝国議会の開設史であると同時に、幕末からはじまる近代日本の歩みを「公議」というキーワードで通観したものでもあります。

――帝国議会は、戦後に今の国会ができる前に存在したものですが、どういったものでしたか。

久保田:「公議」の到達点が、東洋初の近代議会である帝国議会と言っていいと思います。

帝国議会自体は、1890(明治23)年11月29日、大日本帝国憲法の施行とともに誕生しました。帝国議会は、天皇の立法権の「協賛」機関と定められました。法律は、議会の「協賛」を経て天皇がこれを裁可し、公布されたんです。

少し前までは、帝国議会は近代議会として不十分であったという評価が一般的でした。しかし、議会が「協賛」しないと法案を裁可できませんし、議会が「協賛」した法案を裁可しなかった例もありません。実質的には法案の生殺与奪は、帝国議会が握っていた。ようやく近年になり、このような帝国議会の「強さ」や意義を認める研究が増えてきています。

――西欧で定着に200年かかった議会が、なぜ日本では20年で出来たと思いますか。

久保田:大きく分ければ3つの要因があるでしょう。

第1に、議会開設の基盤となった「公議」が儒学的価値観に照らし合わせて正統なものであったことです。

江戸時代後半から、イギリスやアメリカの政治制度についての知識が、日本にも徐々に入ってきました。西洋諸国では、国の大事を「公議」によって決める。議会に集う人びとも世襲でなく選挙で選出される。そのような政治が行われるから、文明化を遂げたのだという理解です。西洋の議会政治は、儒学的にも正しいもので、多くの日本人にとって受け入れやすく、魅力的に感じられたのです。

第2に、「公議」が「自由」を求めることを意味したということです。

江戸時代、もっとも固定化されていた身分の一つが武士です。そもそも戦争が起こらないのですから、武士が立身出世をかなえる機会がありません。このような鬱屈とした状況を打破してくれる理念が、「公議」でした。外様大名でも、下級武士でも、「公議」による政治が実現されれば、国事に奔走できます。こうした政治的「自由」を求める動きが帝国議会の誕生に結実していきました。

第3に、日本が置かれた国際社会の状況です。

当時は帝国主義の時代です。日本も、いつ西洋諸国の植民地になってもおかしくありません。それを防ぐためには、日本が近代国家であると西洋諸国に認められ、対等な条約を結び直す必要があります。近代国家の指標の一つが近代議会の存在でした。また、そんな時代だからこそ、明治政府には人びとの心をまとめることが求められました。その解決策として、帝国議会が開設されたのです。

――帝国議会開設まで多くの”志士”たちが奮闘します。そのなかで特に注目して欲しい人物はいますか。

久保田:明治政府内で議会開設を推進した木戸孝允や伊藤博文などでしょうか。近年では、彼らの動向に着目した研究が増えたとはいえ、一般的には議会開設に前向きな自由民権運動、後ろ向きな明治政府といった図式が未だ残っているのではないでしょうか。

木戸や伊藤らは、国内外の状況を踏まえながら日本にふさわしい議会像を模索しました。そして、自らの権力低下につながるにもかかわらず、帝国議会の誕生を導いたのです。

もちろん、現代の議会と比べれば、帝国議会に見劣りする点はあります。けれども、世界史的に見て、維新から20数年で議会が誕生したというのは、異例の早さです。

今回、新書という広く読まれる媒体で帝国議会の開設史を描くことができたので、彼らの悪戦苦闘を知ってもらえればと思います。

――帝国議会の開設当初、また議会が機能し出すと、西欧諸国はどのように評価しましたか。

久保田:本書でも少し触れているんですが、1889(明治22)年7月から金子堅太郎が『憲法義解』の英訳を持って欧米を周遊しました。『憲法義解』とは帝国憲法の解説書のようなものです。非西洋国である日本が近代議会や近代憲法を作り文明国になったのだ、というアピールが目的です。

金子に欧米派遣を命じた伊藤博文は、西洋諸国の反応を前に臆病になっていたと語っています。伊藤の心配は杞憂に終わり、実際の反応はおおむね好意的なものでした。

もっとも、日本に先んじて近代議会を設けたオスマン帝国では、議会が機能せずすぐに閉鎖となっています。そのため、西洋諸国の評価のなかには、今後の議会運営が重要であるとの声も少なくありませんでした。

日本で議会政治が継続されたことで、その見方は徐々に上方修正され、条約改正の素地になっていきます。

――少し大きな質問ですが、歴史を学ぶ魅力とは何でしょうか。

久保田:愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ――ドイツの宰相を務めたビスマルクの言葉です。過去の人が何を考え、どのように生きたのか。現在の制度には、どのような歴史的背景があるのか。これらを知ることは、今を生きるうえでもとても重要なことでしょう。過去の人びとの人生を追体験できることも、歴史の魅力であると言えます。

ただし、歴史の解釈には慎重さが求められます。そもそも、時代状況や価値観などが今日とは大きく異なります。用いる史料が信頼に値するのか、どのような文脈で作られたのか、ということも検討しなければなりません。

もっとも、このような姿勢は、情報が溢れる現代にこそ、価値が高まっているように思います。

――最後にこれから描いていきたいテーマがあれば教えて下さい。

久保田:帝国議会は維新から20数年で誕生しましたが、誕生後の帝国議会が人びとにどのように捉えられていったのか、何を期待され、何を残したのか、その変遷を追ってみたいと考えています。日本における議会像の系譜と言い換えられるでしょうか。

また、帝国議会の開設に関わった特定の個人に着目した研究も進めていきたいと考えています。残された史料の豊富さから、従来は長州出身者が中心に描かれてきましたが、薩摩や土佐の出身者に焦点を当て、彼らの視点から日本の近代史を見つめ直してみたいです。

私の恩師がよく、「いい歴史研究は古くならない」と仰っていました。特定のイデオロギーにとらわれず、実証性を高めた歴史書は、いつまでも読み継がれていきます。私も、論文にせよ新書にせよ、「古くならない」ものを書けるよう励んでいきたいと思っています。

久保田 哲(くぼた・さとし)

1982年東京都生まれ.2005年慶應義塾大学法学部政治学科卒業.10年慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻博士課程単位取得退学.同年より武蔵野学院大学専任講師.14年より武蔵野学院大学准教授.博士(法学).専攻/近現代日本政治史
著書『元老院の研究』(慶應義塾大学出版会,2014年)
共著『グローバル化と日本の政治・経済——TPP交渉と日米同盟のゆくえ』(芦書房,2014年)
『なぜ日本型統治システムは疲弊したのか——憲法学・政治学・行政学からのアプローチ』(ミネルヴァ書房,2016年)ほか