2018 09/13
著者に聞く

『信長公記―戦国覇者の一級史料』/和田裕弘インタビュー

帯の写真は中京大学名古屋図書館所蔵の『信長記』写本

27歳の織田信長が大軍を擁する今川義元に挑み、勝利した桶狭間の戦い。今日誰もが知る有名な合戦にもかかわらず、戦闘場面を伝える良質な史料は『信長公記』にほぼ限られると聞けば、驚く人も多いのではないだろうか。のみならず、信長に関して小説やドラマで描かれるエピソードの数々は、側近によるこの一代記の記述に依拠しているという。『信長公記―戦国覇者の一級史料』を著した和田裕弘さんに詳しく聞いた。

――『信長公記』という書物はどういった意味で重要なのでしょうか。

和田:信長について書かれた軍記物は数多く伝わっていますが、史料の信憑性からみると怪しげなものもたくさんあります。一方で、当時の日記や手紙など、いわゆる一次史料は信憑性は高いのですが、断片的な情報が多く、信長の全体像を知るには情報が不足しています。そうした意味で、『信長公記』は信長を知るための広範な情報を提供してくれる重要なものです。とくに若き日の信長については、良質な史料は『信長公記』くらいしかありません。

――作者の太田牛一とはどんな人物ですか。

和田:若いころは弓衆として信長のそば近くに仕えた、いわゆる武辺者だったと思いますが、後年には検地奉行を担当するなど吏僚(行政官)としても活躍しました。メモ魔ともいうべき筆まめさに加え、勉強熱心でもあって、中国の故事逸話集である『蒙求(もうぎゅう)』について、当時一流の学僧に質問をしています。また『信長公記』の執筆にあたっては推敲を繰り返していたようで、数多くの『信長公記』の伝本(でんぽん)を見ると、当初は平仮名書きであったものを、漢字に改めているケースもあります。これも推敲の一つの表れではないか、と推測しています。牛一には他にも著作がありますが、やはり『信長公記』が最高傑作であり、信長に対する思いが強かったのではないかと思います。

――興味深いエピソードを挙げていただけますか。できましたら今回の『信長公記―戦国覇者の一級史料』で触れなかったものを。

滋賀県近江八幡市安土町に所在する天台宗の寺院、桑実寺。天智天皇の勅願による創建と伝わる。

和田:「山中(やまなか)の猿」というエピソードがあって、信長の心優しい一面を物語るものとして引用されることがあります。「猿」と呼ばれていた体の不自由な物乞いに哀れみの情を催した話です。

長篠の戦い(1575年)から約1か月後のことですが、急に上洛することになった際、山中宿(美濃と近江の国境)で馬を止め、在所の者全員を呼び出しました。信長から呼び出しを受けた村人はどんなことを言い渡されるのか、不安に思いながら集まったことでしょう。信長は持参した木綿の反物を「猿」に与え、そのうち半分を在所の者に渡して、それを費用として小屋を作らせました。さらに「猿」を飢え死にさせないよう命じ、隣郷の者に対しても、毎年、麦と米の収穫を少しずつ与えてくれたなら、信長としてもうれしく思う、と言いました。「あまりのありがたさに『猿』はもちろん、山中の人々や信長の家臣もみな落涙した」ということです。

これとは逆に信長の残忍性を語るエピソードも記載されています。本能寺の変(1582年)の1年ほど前のことです。信長は、側近衆を召し連れて安土城から琵琶湖上に浮かぶ竹生島(ちくぶしま)へ参詣に出掛けました。羽柴秀吉の居城である長浜城までは馬で往き、そこから舟で竹生島へ渡りました。陸上と湖上を合わせて往復30里(約120キロメートル)の行程で、通常であればとても日帰りできるような距離ではないと思います。信長もこの年、数えで48歳。しかし諸人が驚くような人並み以上の体力の持ち主で、これが逆に災いしました。

安土城の留守居の女房衆は、信長は長浜城で1泊してくると思い、鬼の居ぬ間に洗濯とばかり、二の丸に行ったり、ほど近い桑実寺(くわのみでら)へ参詣に出掛けたりしました。そこへ信長が帰城したので、城内は上を下への大騒動となりました。信長の性格を間近に仕えて知り尽くしているだけに、恐怖がよぎったと思います。桑実寺へ出掛けていた女房衆は恐ろしさのあまり城内に戻れず、長老に頼んで詫びを入れてもらいました。これが火に油を注ぐ結果となり、烈火のごとく怒った信長は、助命嘆願した長老まで成敗したといいます。女房衆のなかには有力家臣の親族もいたはずなので、全員を成敗したとは思えませんが、詳しいことはわかっていません。ちょうどこの頃、鳥取城に籠城していた敵将吉川経家の書状に、「安土で不慮のことがあり、信長が取り乱したという噂が届いている」と伝聞が記されていますので、この事件が噂として広まったのでしょう。

――そのほかにも、印象に残っている意外なエピソードがありましたら。

信長には直接関係のない市井の事件です。当時としても珍しかったため牛一も書き留めたのだと思います。「京都に前代未聞のことあり」と特筆しています。

70歳ほどの老女が一人娘と暮らしていました。ある夜、娘は母親に美味しい酒を強く勧めて酔い潰し、母親を刺し殺しました。この家には下女が一人いましたが、娘は美しい小袖を与えて口止めしました。しかしこの下女は恐ろしくなり、京都所司代の村井貞勝のところへ走り入って、事の顛末を話しました。貞勝はすぐにこの娘を捕らえて真相を自白させました。事件から4日後、娘は車に乗せられて京の市中を引き回され、六条河原で処刑されました。残念ながら、下女がその後どのような処分を受けたのかはわかっていません。

『信長公記』は、このほかにも市井の事件を書き留めています。賄賂を使って検校(「けんぎょう」と読み、盲人が得ることのできる官職の最高位)になった者、人身売買をした女性、偽造文書で裁判の判決を覆そうとした町人などの悪事が記されていますが、いずれも露見して処罰されています。

――和田さんがこれまで実際にご覧になった「伝本」とはどういったものですか。

和田:伝本には自筆本と写本があり、合わせて70点以上存在していたことが確認されています。太田牛一本人による自筆本は数が少なく、写本がほとんどを占めています。

自筆本は牛一の息づかいが感じられ、『信長公記』の完成に向けて推敲を繰り返していた様子がうかがえます。自筆本を閲覧した時に、もっとも注目したのは修正箇所でした。すでに先行研究で指摘されていますが、先に書いてあった文字を摺り消して新たに文字を書き込んでいることがわかります。ただ、追記したのが牛一本人かどうかについては判断の難しいものもあります。

数多く伝わっている写本については、他の伝本にはない記述があるのかどうか、どの系統に属するのかということにも注意を払いました。伝本の数が多いので、伝本間での詳細な異同についての研究はこれからだと思っています。また、未確認のものや所在不明のものもあります。今後も新たな伝本の発掘に努めていきたいと思っています。

――『信長公記』に関して、今後の取り組みのご予定は。

和田:以前も少しお話ししましたが、『信長公記』には良質なテキスト(定本)がありませんので、まずは自筆本や史料的価値の高い写本を比較検討してテキストを作りたいと思っています。『信長公記』は比較的良質な史料ですが、やはり編纂物でもあり、また明らかな誤りも見受けられます。すでに先行研究で指摘されている誤りもありますが、あまり知られていない不備もあります。信長について重要な事柄なのに記載されていないことも少なくありません。他方、登場人物が多く、人物像がイメージできない側面もありますので、簡潔な注釈を施す必要があるでしょう。このあたりも踏まえて、ゆくゆくは『信長公記』を土台にした信長の伝記に挑戦したいですね。

和田裕弘(わだ・やすひろ)

戦国史研究家。1962年、奈良県生まれ。著書に『織田信長の家臣団―派閥と人間関係』『織田信忠―天下人の嫡男』『天正伊賀の乱』『柴田勝家』などがある。