2017 12/21
知の現場から

藤田一照の仕事場

 中公新書『禅の教室』で詩人の伊藤比呂美さんと対談した、一風変わった経歴をもつ禅僧・藤田一照さん。1983年に29歳で得度、87年に渡米、アメリカで禅の指導をし、2005年に帰国。現在は日本で坐禅の指導・研究を進めており、坐禅会、講演、執筆なども精力的に行っている。庵と道場のある藤田さんの住まいをたずねた。

伊藤比呂美さんとの対談が行われた庵

 藤田さんの招きで門をくぐると、さっそく庭に不思議なモノが。木と木の間に弾力のあるベルトのようなものが張られている。
 藤田さん、これは――?

「スラックライン(slackline)といいます。スポーツの一種で、この上で飛んだり宙返りしたりします。僕は、体を調えるために5年ほど前から始めました。乗れるようになると足の裏の感覚が繊細になりますよ。坐禅は身心をフルに使ってする営みだから、体の調え方のコツを知ったほうがいいんです。これはそのいい稽古になります」

編集者もチャレンジしたのだが、ベルトに乗ることすらできなかった。「踏むと揺れる、しかし、踏まなければ乗れない」という身体的公案のようなものだという

 藤田さんの生活スタイルを教えて頂けますか?

「修行道場にいるときから生活の大きな柱が3つあって、修行、作務(さむ)、学習です。それ以外は生命維持、つまり寝ると食べるですね。それぞれにどのくらいの時間を割けるかはその時々の状況で変化します。たいてい、朝起きて、からだほぐしの体操や先ほどお見せしたスラックラインなどをしてから坐ります。そのあと、日中は頼まれた講演やワークショップに出かける日もありますし、本を読んだりモノを書いたりする日もある……という具合でその日ごとに違うという感じですね。今日は、午前中は原稿を書いていました」

「3つの柱については、そのつどバランスのいい配分が出来るようにと思っているのですが、最近は、原稿書きとか講演とか頭脳労働的な作務が多すぎるのがちょっと悩みです(笑)。僕はここに管理人として住み込ませてもらっているのですが、庭掃除などは肉体労働的作務にあたります。それが今は少し疎かになってしまっています。修行の中核である坐禅をしているときも原稿のこと考えちゃったりして……どうもバランスが崩れてしまっている感じで、何とかしなきゃと思っています」

月に数回、この道場で坐禅会が開かれている

 修行と学習のつながりをたずねると「禅は頭を使うような学問を嫌う傾向もあるんですが、澤木興道(さわきこうどう)という、僕の師匠の師匠のそのまた師匠にあたる方が“仏教の基礎教学の知識なしに『正法眼蔵』を読むのは、升や秤なしに米屋を開くようなものである”と言ったのです。『正法眼蔵』というのは、道元さんが書いた難解で知られる禅の書です。坐禅という行を正確にするためにも教学の勉強は必要です。学行(がくぎょう)円満という言い方がありますが、行も学もどちらも大切なんです」とやさしく語る。

2人組で棒の端を持ち、音楽に合わせ動いていくウォーミングアップ。「棒を主役にして体を動かす」ことで、意識的に体をコントロールしている状態から抜けだす

 道場では時折坐禅会が開かれている。藤田さんはそれを「実験的坐禅会」と呼ぶ。

 坐禅会というと、坐り方や呼吸法を一方的に教えられるものを連想してしまうが、「みんなでこころとからだをほぐし、こころとからだへの関係の持ち方を変えることから始める」ための自由な探究の会ということらしい。

 なぜ体をほぐすことを重視するんですか?

座布団の上に寝かされると、「今、首は左右のどちらに行きたがっていますか?」と問われた。そう問われて初めて、無意識に「まっすぐ寝よう」と身を硬くしていたことに気づいた。“正しい姿勢”を体に押しつけるのでなくて、どういう姿勢を体が欲しているか知るために、自分の内なる声を聞くところから「坐禅」は始まるのだ

「たとえば、人間は“いい姿勢”という外側の基準に従って身体を動かし、姿勢をコントロールしようとします。猫を見てみましょう(編注・当日はどこかで寝ていてお目にかかれなかったのだが、藤田家にはテラちゃんという愛猫がいる)。猫は自由に歩いたり寝そべったりしています。必要に応じて伸びをしたりしていますが、きっと猫には必要性というコンセプトすらないでしょうね。体の求めるままに動かしています。うちの坐禅会では、いきなり坐禅を組むのではなく、まず内側の求めに従って動く原初の体を思い出せるようにしています。意識でとらえている体でない、脱落した身体。道元さんはこれを指して“身心脱落 脱落身心”と言ってます」

庵でインタビューに応じてくださる藤田さん。囲炉裏は落ち着きますね、というと、藤田さん曰く、ここに来る人たちは囲炉裏効果で「長居する傾向にある」のだとか。私たちも結局2時間以上話し込んでしまった

 身心脱落――とまでいかないものの、運動しリラックスした一行は藤田さんの庵へ場所をうつし、インタビューを続けた。

 藤田さん、仏教って、どういう宗教ですか?

「四無量心(しむりょうしん)という仏教の言葉があります。仏が衆生(すべての生き物)に対して持つ無限な心のことです。その中身は、慈、悲、喜、捨です。最後の捨が誤解されやすいのですが、捨はウペッカーというパーリ語で、いいことも悪いことも“執着なく平等に見る”という意味です」

「仏教は慰める宗教ではなく“執着なく平等に見て”現実を冷静に認識し、それに基づいて人生そのものの問題を解決する道を提示します。慰めを求める人にとっては厳しいですが、慰めではすまないということが身にしみてわかっている人には希望になります。リアリティに直面し、それにあらがうのでもなく、またそれに押しつぶされるのでもない、現実に即して創造的に、建設的に、溌剌と生きることができる道があるよ、という明るい宗教です」


 ゴムひもの上から囲炉裏端まで、藤田さんの「知の現場」は、自由闊達であたたかみに満ちていた。

藤田一照(ふじた・いっしょう)

1954年愛媛県生まれ。東京大学大学院教育学研究科博士課程を中途退学し、曹洞宗僧侶となる。87年渡米し、禅の指導、普及に従事。2005年に帰国。現在、曹洞宗国際センター所長。 著作に『現代坐禅講義』、共著に『アップデートする仏教』、『安泰寺禅僧対談』、『禅の教室』、『生きる稽古 死ぬ稽古』、『青虫は一度溶けて蝶になる』、『退歩のススメ』、訳書に『禅への鍵』『法華経の省察』、『禅マインド ビギナーズ・マインド2』など