2017 11/02
編集部だより

崩れゆくトンネル

善光寺白馬電鉄は現在も運輸業として盛業中

長野県の長野~白馬を結ぼうとした善光寺白馬電鉄(通称は善白鉄道)は、昭和11年(1936)に南長野駅~善光寺温泉駅間の6.4kmが開業、翌年に裾花口駅まで1.0km延長した。だが、戦争中の昭和19年(1944)、不要不急路線として休止し、レールなどは南方に運ばれたという。わずか7年ほどの運行だった。

休止から40年後、文化祭の発表のためにこの善白鉄道の廃線跡を調べることになった。
資料と呼べるものは現在の地図と開業当時の写真数枚、県立図書館でコピーした新聞記事だけ。近所に住んでいた同級生に案内してもらって国鉄の長野駅から自転車で北上した。
起点の南長野駅の場所は、長野駅に近く、鉄道廃止後も運輸業として残った善光寺白馬電鉄の本社になっていたので、容易に分かる。そこからゆるいカーブを描いてのびる細い道が元線路だった。なるほど鉄道は自動車に比べて急には曲がれないからカーブもゆるいのかと、合点がいった。そう思って地図を見ると、無数の道のなかから廃線跡が浮かんでくる。あまり太くない、滑らかな一本道。それをたどっていく。

ゆるく右に曲がっていく細い道。かつてここが線路だった

すると、突然川に突き当たる。橋桁はなく、橋台だけが残され、濁流の先には未舗装の道が、やはりゆるいカーブで続いていた。たしかにここに列車が走っていたと、はじめて実感する。

裾花川に残された橋台

大回りして橋の先に向かい、茂菅(もすげ)の集落に入って畑仕事をしていたおばあさんに尋ねると、そこの石垣が駅のホームだったという。おばあさんが70歳だとすると、休止時は30歳くらい。あるいはここから列車に乗ったことがあったかもしれない。
両側の山が迫って峡谷に入ると線路の跡はますますはっきり分かり、ついにはトンネルまで現れる。市街地のすぐ横に、こんな不気味なトンネルが何十年も口を開けていたのだと思うと、薄気味悪い。

その後、さらにトンネルを抜け、土砂崩れの跡を歩いて越し、もう一つのトンネルを見つけたところで引き返した。まっくらなトンネルを抜ける勇気はなかった。
いったん戻って、対岸のすこし高い位置にある国道を通って終点あたりまで行く。見上げると西部劇に出てくるような赤茶けた禿げ山(郷路山)が聳え、さっきまでとはまったく異世界である。

善光寺温泉駅跡付近には旅館が一軒あったが、駅がどこかは分からず、終点の裾花口駅跡も不明だった。汗みどろになって廃線をたどったが収穫は少なく、文化祭では結局、善光寺白馬電鉄の会社の人に尋ねたことをまとめて発表した(鉄道運行時に就職した方がまだ在職していたのかもしれない)。
今から思えば、裾花口駅のホームもあったはずだし、車両も上田交通の上田原駅に倉庫として残っていたはずである。見てみたかった。

それからさらに30年、ふたたびこの廃線跡をたどることになった。
この間、廃線巡りは広く世間に認知されるようになり、ネットには探訪記がさまざまアップされ、善白鉄道についての本もでた。それらを調べ、昭和12年に刊行された5万分の1地図も国土地理院から取り寄せ、準備万端整えて自転車に跨がる。

(5万分の1地形図「長野」陸地測量部、大正元年測図、昭和12年第2回修正)

南長野駅跡に残されたレール、山王駅跡の階段など、昔は気付かなかったものをチェックしつつ進む。いっぽうで裾花川ぞいの線路跡はグラウンド拡張工事のために失われ、茂菅駅の待合室は取り壊されていた。住民の姿はまばらで、水田や畑には獣害を防ぐ電柵やネットが徹底的に張りめぐらされていた。

右端の石垣が茂菅駅のホーム跡

4つあったトンネルも2本目の出口あたりから大規模な土砂崩れで通れなくなっていた。善光寺温泉も土砂の流入で閉業し、裾花口駅も場所こそこのあたりだと見当はつくものの、ホームはおそらく地面の下であった。

そもそもこの鉄道の沿線は地滑り多発地帯で、開業時にも善光寺温泉駅までの開業を延期したり、線路の付け替えを検討したりしたほどだった。70年も経てばあちこち地形がかわって当然である。

天井が抜けた第1トンネル
土砂が流れこんでほとんどふさがった第2トンネル

30年経って知恵(主にネットの)と財力は増え、それで見られたものもあったが、時の経過で失われたものもあった。プラスとマイナス、どちらが多いだろうか。 (酒)