- 2017 08/01
- 私の好きな中公新書3冊
入江昭『日本の外交 明治維新から現代まで』
篠原初枝『国際連盟 世界平和への夢と挫折』
北岡伸一『清沢洌 外交評論の運命 増補版』
世界には力の論理がまかり通っている。しかしだからこそ、私たちは力の論理を超えた世界を希求してやまない。
力の論理を超えられるか-歴史からこの問いに接近する3冊である。
入江は、日本外交の歴史的な特質は、「あるべき」世界を語ることを控え、現に「ある」秩序を前提に国益を追求する「無思想の外交」にあったとする。もっとも入江が「無思想」の語にこめるニュアンスは必ずしも否定的ではない。
明治の日本は、西欧諸国が圧倒的なパワーを持つ「現実」を前に、正義に照らしてその秩序を批判することより、西欧と協調することを選んだ。対照的に1930年代の日本は独善的な大義を掲げて、秩序の破壊者となった。空虚な理想主義は、力の論理を抑制するどころか、野放図な力の論理を解放してしまう。
では、戦前日本には力の論理を越えようとする試みはなかったのか。
篠原は失敗の烙印を押されてきた国際連盟の平和への貢献、そこでの日本の活躍に光をあてる。新渡戸稲造や安達峰一郎ら連盟で活躍した人々は、抽象的に国際協調を信奉したわけではない。彼らは、連盟の平和活動に積極的に関わり、日本の国際的な信用と発言権を高めていくことに、長期的な国益を見出していた。連盟への関与は、彼らの理想主義のみならず、現実主義の要請でもあった。
清沢洌は昭和の日本で、過酷な批判に晒されながらも強靭な精神力で、日本の生きる道として国際協調を説き続けた。その壮絶な戦いは、戦争が終わると忘れ去られた。北岡は含蓄をこめていう。「自己の主張が実現されることによって、その存在意義を失うのが優れた評論家の運命なのである」。
私たちが清沢を忘れてきたのは、彼が望んだ世界が実現されたからか。それとも私たちは、平和や自由は当然に存在するものではなく、不断の努力により、勝ち取られ続けねばならないものであることを忘れてきたのか。
今日にあって清沢の評論は、役目を終え、忘却という運命を辿るには光を放ちすぎている。