2017 05/08
著者に聞く

『謎の漢字』/笹原宏之インタビュー

毎日かならず目にする漢字。しかし、それだけにさまざまな疑問も出てきます。小学校で厳しくたたき込まれた「『木』の縦棒ははねてはいけない」というのは本当か? 「嫐」「嬲」「娚」など、なんでこんな漢字がパソコンで打てるのか?(そして、こうしてウェブ上で表示できるのか?) エビにはなぜ「海老」、「鰕」、「蝦」などの漢字があるのか? 『謎の漢字』でこれらの疑問をとことん追究した笹原宏之さんにお話を伺いました。

――漢字研究を専門とされ、すでにたくさんの本を出している笹原先生ですが、既著とすこし違って、今回の本はかなりご自身の研究のプロセスについて詳しくお書きになっています。それはなぜでしょうか。

笹原:何かを「調べる」という営みが、近年なおざりになりつつあることを、随所で感じていたためです。

ときには調べることを職業とする研究者や新聞記者、テレビの制作者などの書いたものの中にさえ、プロとしてどうしたのだろうと思う、常識にとらわれたような内容が目に付くことがありました。大学生のレポートにも、誰が書いたかも分からないネット情報をコピー&ペーストして事足れりとするケースが増えています。

私自身も、時間がないときには楽に知りたいと思うことはあるので、その戒めとして、〆切と紙幅の限界まで、漢字の様々な謎に対して、調べていくことに挑戦したいと思ったのです。

研究に際してはテーマを絞ることが大切ですが、対象を絞りすぎると視野は狭隘なものとなり、成果もスケールが大きくなることがありません。小さな1冊ではありますが幅を広げたいと思い、第一部の「日本の地名・人名と謎のJIS漢字」、第二部「海老蔵は鰕蔵か」、第三部「科挙と字体の謎」と一見かなり異なる対象をあえて設定して、それらに一貫するものと、それぞれの特色とを、あぶり出してみようと考えました。

――たしかに本書では、単に結論を書くだけでなく、「問題設定→どこで、なにを調べるか→なにがわかったか、新たに生まれた問題はなにか」ということについて、意識的にお書きになっています。

笹原:何か謎だと感じたことに対して、真相を知ろうと試みること、それ以前に謎に感じることの幅をそれぞれの興味に応じて、広げていってほしいと願っています。

大学生に限らず、一般に一挙に広まったパソコンやケータイで検索し、上位にきたサイトだけを見て結論としてしまう風潮に、警鐘を鳴らしたいのです。調査した結果を完成品として本書にそれだけを提示するのではなく、調査方法の一端を示す必要がある時代にあると考えたためです。

ほぼすべての解答は機械ではなく、あくまでも人間が探しだし、作り出しているものであるという事実を改めて知ってほしい。調べるということの泥臭い苦闘ぶり、結論に至るまでの検証過程を一部ながら晒したのは、そういうささやかな願いによるものです。

もちろんただ調べるだけでなく、同時に対象に関して考えをめぐらせなくてはなりません。諦めたところまでで、探索や考究は一旦終了してしまう、それでよいのか、ということも、みずからの苦しむ姿を少しでも示すことで、感じ取ってもらえたら幸いです。
目標を定めたならば、学問の分野を超えて、手間をかけて追究するほどに、だんだんと真実に迫っていく、そういうことの楽しみも、部分的ではありますが、時系列で感じてもらえれば、という思いもあってのことです。

――執筆に当たって特に苦労したことは何でしょうか。

笹原:漢字にまつわる公私の様々な仕事を同時に並行して行っているのですが、新しい常用漢字の指針の制定など政策立案の仕事をするうえで重要だと考えるに至ったことも、本書に盛り込むこととなりました。企画段階では、まだなかったことですが、これが一つ目の苦労でした。

ことばや文字の「標準化」を行えば、7割を占める実勢を元に、世の中の傾向を10割にしてしまう結果を生み出す力が生じかねない。しかし、切り捨てられた残りの3割に、新しいものを生み出す多様性が潜んでいるかもしれません。これは、研究者としては怖いことでもあり、それだけに慎重に進めなくてはならないわけです。

ただ私が関わらなくてもこれらの政策は遂行されるわけですから、依頼されたからには、その都度少しでも理想に近いものにしていくように努めます。大変でしたが、その過程で得られた副産物もまた大きいということも本書で伝えたい、と考えました。

また、何か新しいことを知ることは、それだけで嬉しいことです。しかし、本当のこと、事実を知るためには、一度「常識」を取り払って、知るための努力をすることも必要となります。専門分野ではほとんど扱われない領域、たとえば演劇史の分野で誤伝がなぜ生まれたかに対しても、まず隗(かい)より始めよ、という気持ちで挑戦してみました。その道の専門家なら当たり前のことでも、他の分野の者から見ると新鮮で、それぞれの現象のつながりがなかなか掴めないことがいくつもあり、その関連づけには脱稿直前まで苦心しました。

今は、ネットを検索すれば分かることが増えてきていますが、紙媒体でしか判明しないことは、まだ非常に多く残されています。さらに活字になったことさえなく、当事者に取材をしたり、地元に足を運ぶことで初めて理解できることもたくさんあります。そのための調査時間を創り出すことにも大きな苦労がありました。

――本書にはいろいろな地名や資料が出て来ます。実際に訪ねてとくに印象深かった場所あるいは実際に御覧になって特に印象深かった資料はありますか。

現在のあけんばら

笹原:調査法には様々な方式があり、それぞれ効果が異なるのですが、今回は、各々を駆使しつつも、とくに文献調査に重点を置きました。当たりを付けて文献を尋ねて、実際にそこに想像した内容を見つけたときの喜びは大きいものがあり、今回の執筆ではその邂逅に幾たびも恵まれました。むろん、外れといってはいけませんが文献全体の中に求める情報が無いことを確認する、外濠を埋めていくような作業の方がその何倍も多かったわけです。50年、100年、1000年、2000年も前の人たちの漢字との付き合い方を、記録を通して新たに発掘できたことは言いしれぬ幸せでした。

科挙に関しては、調査を通して見直しした『礼部韻略』という一群の韻書の役割の大きさを改めて実感しました。それを含めて発掘しえた事実を可能なかぎり盛り込んだので、大小合わせればページごとに新しい知見が見つけられるのではないか、と密かに思っています。

土地に関しては、「あけんばら」で出会った親切にお話し下さった方のことが忘れられません。今回、再び現地の情報を得ることができ、そこからも最新の事実が盛り込めたことは、望外の喜びでした。

積み上げた高さがメートル単位になる資料を調べることはよくあるのですが、『国土行政区画総覧』も、そのような資料でした。一字一字、ふりがなはもちろん点画のレベルまで確認しつづけた当時のことも、忘れられません。

本書を書くに当たっては、資料は、言語では古文、漢文、白話文、現代中国語、文字では異体字、変体仮名など多彩なもので書かれており、さまざまなスキル、キー(鍵)を使いながら読み込んでいくことが求められました。そうした言語や文字が使われている媒体もまた無数に広がっており、活字本、版本、稿本、写本、拓本、書類から動画などさまざまで、自分はこれが好きだからこれだけを見る、などと好き嫌いを言ってはいられない状況となりました。書籍を探索しつづけ、机上も画面上も獺祭(だっさい)という日が続きました。

手間をかければかけた分だけ成果となって返ってくるのが、調べごとの楽しさであり、誰も知らなかったことを一番に知り、それをまとめて世の中に問いかけ、理解してもらい、新たな展開が得られることこそ、醍醐味といえます。今も調べをやめておらず、新たなことが分かりつつあります。仮に理解してくれる人がいなくとも、100年後、1000年後に、この本にしかない情報を見つけてくれる人がいることでしょう。さまざまな資料に残された謎は、私たちが答えを見つけ、さらに新たに作り出すことを待っているんだと思っています。

――それでは、執筆にさいしてとくに印象深かったことはなんでしょうか。

笹原:第一部で書いた「娚」で「めおと」と読むような、国訓を使った小地名の類とJIS漢字とのつながりは、私が書いておかなければ歴史に埋もれてしまうという使命感、そして危機感のようなものがずっとあり、ぜひ活字に残したいと思っていながら、ずっと果たせないものでした。やっと今回、執筆をしながら、こんなにも小地名による医学や史学を含めた一般社会への貢献が大きかったのかと、孤例の重要さと偶然の生み出す波及効果の大きさを改めて強く認識することができました。

第二部の「鰕蔵」については、調べれば調べるほど、「海老蔵」から改名した江戸期の当人の心境や、勘亭流などで書かれた文字の奥に潜んでいた文字感、舞台上で語られる口上を一言一句書き留める周りのファンの人たちの熱狂と記録魔たちの様子が明らかになってきて、文献の果たす役割の大きさと底力、そしてさらなる可能性を改めて痛感したものです。

第三部の科挙の漢字に関する「常識」については、個々の時代の種々の文献がまだ具体的な検証を待つ状態にあったことを、先行研究を読み直し、各時代の一次資料を検証する中で知りました。役人の建前や、1つの辞書の中での言行不一致など、かなり根の深いことがいくつも見つかりました。

「女」という字は、第一部から第三部までを通して、直接間接に扱われるのですが、他の字と自在に組み合わされたり、逆に字の内部の点画の形状まで細部まで細かく見られる対象となったりするのです。実は、本書には、一見関連がなさそうに見えながら、共通する筋が縦横に斜めにといくつも流れています。漢字というものは個別性を持つとともに、様々なレベルで他と連関をもっており、だからこそ一つの大きな体系と歴史を作り上げているといえるのです。

さらに第一部、第二部での日本人のおおらかな応用、第三部での日本人の厳密すぎる制約(採点)といった対比も見つかることでしょう。

関心がある方は、随所に示した参考文献などを手掛かりに、さらに調査を進めて頂ければと願っています。読みながら、上に挙げた水脈だけでなく、そうした異なる海域もぜひ見つけてみてください。

――本書を読んだ読者へのおすすめの本や映画などを教えてください。

笹原:読売新聞社会部の『日本語の現場』です。パソコンなどなかった昭和の後半の時代に、夜討ち朝駆けを地で行き、足で稼いだ、しかし知性のみなぎる本です。多くの関係者に取材し、そして手書きの生の紙片や看板までも資料に据えて、日本語と漢字について数々の事実を鮮明に世に示した画期的な本です。今でも中古で出回っています。

取材された記者のお二人に、取材させて頂いたことがあり、大いに手法を学ばせて頂きました。先人の営為や文献への敬意、問題に対する感度の高さ、探究心から生じる素朴な疑いを解明するためのエネルギッシュな行動、建設的で健全な批判など、いつ見ても奮い立たされます。

――最後に、今後のご研究の関心についてお聞かせください。

笹原:身近なことばや文字にも、「謎」は無数にあり、簡単に解けないものが無数にあるわけです。本書に示したとおり、手の届くところから投網を掛けたり、一本釣りをしたりしながら、一つでも多くの闇に光を当てていきたいです。

 その過程では、必ず思わぬ分岐が発見でき、そして無関係な事象に逢着することもあり、謎は新たな謎を生み、海というよりも沼のような世界を感じることもあります。互いに無関係と思えたものであっても、意外なつながりを読み取ることができます。体系の網や歴史のダイナミズムを知り、それらを多くの人に伝え、また問いかけていきたいのです。

そのためには、事実の探索と解釈を縛ってしまうような理論を先行して打ち立てるよりも、実際に人々がどういうふうに文字を使っているのか、そして社会の制度はそれをどう形成したり束縛したりしているのか、そしてそれらを構成している一人一人の個人の心性の傾向性や一般法則のようなものについて知りたいと思っています。

 まだ誰も知らなかった漢字に関するさまざまなレベルの真相を、バランスよく調査研究を推進することで、この先も、一つでも多く見出していきたいと願っています。

笹原宏之(ささはら・ひろゆき)

1965年、東京都生まれ。1988年、早稲田大学第一文学部(中国文学専修)卒業。1993年、早稲田大学大学院文学研究科日本文学(国語学)専攻博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。国立国語研究所主任研究官等を経て、現在、早稲田大学社会科学総合学術院教授。三省堂『新明解国語辞典』編集委員、文部科学省文化庁文化審議会国語分科会漢字小委員会元副主査。2007年、第35回金田一京助博士記念賞受賞、2017年第11回立命館白川静記念東洋文字文化賞優秀賞受賞。専攻・日本語学。
著書『日本の漢字』(岩波新書、2006)、『国字の位相と展開』(三省堂、2007)、『訓読みのはなし』(光文社新書、2008。角川ソフィア文庫、2014)、『方言漢字』(角川選書、2013)、『漢字に託した「日本の心」』(NHK出版新書、2014)、『漢字の歴史』(ちくまプリマー新書、2014)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル、2015)ほか