2017 03/09
著者に聞く

『フィリピン―急成長する若き「大国」』/井出穣治インタビュー

スラム街や夜の街、かつてはイメルダ夫人の「靴」、最近ではドゥテルテ大統領の「暴走」……フィリピンに対する日本人の一般的なイメージはこんなところかもしれません。しかし近年のフィリピンは成長を続け、注目すべき「大国」として存在感を発揮し始めているのです。そんなフィリピンの現状を、経済面を中心に広く描いたのが『フィリピン―急成長する若き「大国」』。著者の井出穣治さんに聞きました。

――本書を執筆した動機を教えてください。

井出:私は、国際機関のIMF(国際通貨基金)に勤務していた頃、フィリピン担当のエコノミストとして、フィリピン政府に経済政策のアドバイスをする仕事を行っていました。その当時、財務大臣や中央銀行総裁をはじめとして、経済政策の舵取りを担っている方々と突っ込んだ意見交換を行う中で、フィリピン経済が飛躍しており、大きな潜在力を持っていることを肌で感じました。

 しかし、日本でフィリピン関連の書籍を探すと、アジアの病人と揶揄されていた過去のイメージが強いのか、最近の高度成長をしっかりと解説した書籍がないことに気付きました。同じ東南アジアでも、タイであれば末廣昭先生の『タイ 開発と民主主義』、インドネシアであれば佐藤百合さんの『経済大国インドネシア』と新書が思い浮かぶのですが、フィリピン経済については、これを読めば全体が分かるという新書がなかったのです。フィリピンが高度成長国として飛躍しているからこそ、フィリピンへの理解を深める必要があるのではないか、こうした思いが本書には込められています。

――フィリピン経済が急成長しているとは知りませんでした。その特徴を紹介していただけますか。

井出:フィリピンの経済規模は10年強で3倍となっており、高度成長が続いています。大きな原動力となっているのは、世界各地の出稼ぎ労働者からの送金と、BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)と呼ばれる新しい産業です。フィリピンは、英語が公用語ということもあり、豊富な労働力を世界中に輸出しており、出稼ぎ労働者からの送金が国内の旺盛な消費に繋がっています。産業面では、顧客企業の業務プロセスの一部を請け負うBPO産業の成長が著しく、先進国の企業が、コールセンターやバックオフィスなどをフィリピンにアウトソースしています。こうした消費主導、サービス業主導の経済成長のモデルは、東アジアの中では異色です。

 労働力人口の増加が2050年頃まで続くと見込まれることも、フィリピン経済の強みであり、将来性が高く評価される理由です。フィリピンの人口は既に1億人を超えており、日本の人口を追い抜くのも時間の問題と言われています。人口が増えているということは、フィリピンが消費市場としての魅力を高めているとも言えます。実際、近年は、ユニクロをはじめ、わが国のサービス業の進出も目立っています。

――反対に、弱点といえばどこでしょうか。

井出:大きな弱点は、インフラが十分に整備されておらず、製造業が育成されていない点です。自動車産業を例に挙げてみましょう。フィリピンでは、自動車の販売台数が毎年大きく伸びているにも関わらず、自動車の生産台数はなかなか増えておらず、輸入車が増え続けています。最大の理由は、フィリピンではインフラが不足しているため、国内で製造しようとするとコストが嵩んでしまうためです。もっとも、最近では、前向きな動きも出てきています。例えば、政府は自動車産業の支援策として、国内生産を行うメーカーに対して実質的な補助金を付与する政策を打ち出しています。こうした取り組みが奏功すれば、製造業とサービス業のバランスの取れた経済成長を実現できるかもしれません。

 もうひとつの弱点は、貧富の差です。フィリピンを訪れると、貧富の差は誰もが実感するはずです。スラム街の様子、幹線道路沿いで物を売っている少年少女の姿を目にすると、貧困が深刻な問題であることが分かります。格差が固定化されてしまっていることも大きな問題です。この問題は、スペイン植民地時代に大土地所有制が広がり、少数の富裕層と多数の貧困層に社会が分断されてしまったことにも原因があり、解決は簡単ではありません。国民全体に行き渡る経済成長を実現して、中間所得層を増やす努力を続けるほかないと思います。

――ドゥテルテ大統領に注目が集まっています。批判的な報道が多いですが、本書を読むと、井出さんは比較的評価されているように見えるのですが?

井出:ドゥテルテ大統領は、麻薬犯罪対策と称して超法規的殺人を容認しているほか、長年の同盟関係にある米国との決別を宣言するなど、何かと物議を醸し出しています。超法規的殺人は、フィリピンが培ってきた民主主義の土台を覆す可能性がありますし、米国から離反する動きも、冷静に考えるとフィリピンの国益を損ねる行動に思えます。

 そうした中にあって、私自身がドゥテルテ大統領に可能性を感じているのは、彼が、階層を超えた国民的連帯を実現している側面があると考えているからです。2016年の大統領選挙で、ドゥテルテは、経済成長の恩恵を十分に受けていない貧困層からの支持を多く集めましたが、それだけでなく、中間所得層からも相応の支持を受けました。貧困層、中間所得層がドゥテルテに票を投じた動機はまったく一緒ではありませんが、「フィリピンが抱える構造的な問題を解決して欲しい」という思いは共通しているように思います。その意味では、構造的な問題の解決に向けて、階層を超えた国民的連帯が実現した面もあるのでないでしょうか。従って、私自身は、(大統領選挙を通して国民の分断が深刻となった)米国のトランプ大統領の誕生とは意味合いがまったく異なると考えています。もちろん、反ドゥテルテ勢力が結集する可能性もない訳でなく、今後のフィリピンの政治動向は注視する必要はありますが。

――最後に、フィリピンに行ったことのない読者に、フィリピンでぜひ訪れたほうがいいところ、体験したほうがいいことなどあれば、教えてください。

井出:初めてフィリピンを訪れる方に対して、スラム街に行けとはなかなか言えませんが、セブ島のリゾートやマニラの高級街だけでなく、フィリピン市民の生活を感じられる空間も体感して欲しいと思います。例えば、ジプニーと呼ばれる乗り合いのタクシーは、難易度は高いですが、市民の生活の足となっているので、是非一度は乗って欲しいと思います。

 フィリピンの歴史を感じるには、リサール記念館がお勧めです。ホセ・リサールと言うと、世界史の教科書で必ず出てくる名前なので、聞き覚えがあるか方も多いかもしれません。リサールは、現在でもフィリピン国民の間で崇拝されており、この記念館を訪れると、「権力への抵抗」が国民共通の原体験として根付いていることを実感します。リサール記念館のそばのサンチャゴ要塞にも是非足を運んでみて下さい。フィリピンは、太平洋戦争において激戦地となり、日米間の戦闘に巻き込まれる形で100万人を超えるフィリピン人が犠牲になったと言われていますが(この事実は多くの日本人にあまり共有されていないかもしれません)、この要塞に行くと歴史の重みを感じられるはずです。

井出穣治(いで・じょうじ)

1978年、東京都生まれ。2001年、東京大学法学部卒業、日本銀行入行。06年、タフツ大学フレッチャースクール(法律外交大学院)修了。IMF(国際通貨基金)のアジア太平洋局フィリピン担当エコノミストを経て、現在、日本銀行職員。著書に『IMFと世界銀行の最前線』(共著、日本評論社、2014年) 。