ブラック・ムーン第十八回

 ブラック・ムーンは、残ったビールを飲み干した。
 クリント・ボナーと名乗った、ハヤトの知り合いだというこの男から、二人の関係を聞かされたばかりだった。
 ビールのお代わりを頼む。
 族長の夫トシタベの命令で、コマンチのキャンプから放逐されたあと、もはやトウオムアと名乗る意味は、なくなっている。
 かといって、いきなりダイアナ・ブラックマンにもどる気も、起こらなかった。
 そこで、トウオムア(黒い月)を英語にした、ブラック・ムーンを使うことにしたのだった。そもそも、ブラック・ムーンにしてからが、月の女神ダイアナと名字のブラックを、組み合わせたものにすぎない。
 ひとがどう思おうと、本名を知られずにいることで、有利な場合もある。
 アビリーンの、大通りのはずれにあるレストランで、ハヤトとボナーを相手にいろいろと、話をしているところだった。
 ボナーは、ハヤトの説明から判断する限り、腕の立つガンファイターらしい。
 この男を信用していいかどうかは、ハヤトの話から察する以外にない。
 そのハヤトにしてからが、アメリカへやって来る以前、自分がどこで何をしていたか、記憶を失ったままなのだ。
 一年半前、一八七〇年の七月半ばのことだが、暴走するバファローの大群に踏みつけられて、ハヤトは重傷を負った。そのおかげで、息子のサモナサが命拾いしたことは、間違いのない事実だ。
 むろん、ハヤトをそのままにはしておけず、トラヴォイ(曳行架)に乗せて、コマンチのキャンプまで運んだ。
 そのために、ブラック・ムーンはトシタベや、一族の者たちからハヤトとの仲を、疑われるはめになったのだった。
 あげくの果てに、トシタベはコマンチの名誉にかけて、ハヤトと一対一の決闘をする、と宣言した。
 もっともその対決は、かたちとしてはハヤトの敗北に、終わっていた。
 しかしハヤトは、トシタベにとっても息子サモナサの、命の恩人だ。
 おそらくそれを考慮に入れて、トシタベはハヤトを掟どおりには殺さず、キャンプから追放することで、決着をつけたのだった。
 ただし、一族の疑惑を完全に消し去るため、妻たるブラック・ムーンもキャンプから、放逐する決断をした。それは、族長としての威信を保つためであり、ブラック・ムーンにも理解できることだった。
 ただ、キャンプを去る前にブラック・ムーンは、トシタベに警告した。
 自分の父親ジョシュア・ブラックマンが、孫のサモナサを自分の牧場の跡取りにするため、かどわかそうとしている。いつまた、キャンプが捜索隊に襲われるか、知れたものではない。くれぐれも油断しないようにと、固く言い含めたのだった。
 ちなみに、ブラック・ムーンは十五歳のとき、コマンチにさらわれた。
 それから十年以上たつが、ふたたび白人社会へもどったとしても、ちゃんとやっていく自信がある。そのために、英語や白人の習慣を忘れないことも含めて、ひそかに努力をしてきた。
 しかし、トシタベとのあいだに生まれたサモナサは、いきなり白人社会へ連れて行かれても、すぐにはなじめないだろう。学校へ行ったところで、いじめられるのは目に見えている。
 よく知られる、シンシア・アン・パーカーは一八三六年、十歳になるかならぬうちに、コマンチにさらわれた。ブラック・ムーンと同じく、族長の妻となって息子と娘を生んだ。
 そして、二十四年間も一族と一緒に、暮らした。
 そのあげく、シンシアは十年かそこら前、一八六〇年の末ごろに救出されて、白人社会にもどった。ブラック・ムーンは、それと入れ替わるようにして、同じコマンチにさらわれたことになる。
 シンシアと、別れわかれになった息子の方は、一族にとどまって父親の跡を継ぎ、族長を務めるようになる。今や、クオナ・パーカーといえばコマンチ、いやインディアン全体の中でも、もっとも強硬な好戦派として知られる存在だ。
 シンシアは、コマンチとの暮らしが長かったため、結局白人社会になじむことができず、二年ほど前に死んだらしい。
 そうした話を、交易所の噂などで聞いた影響もあり、ブラック・ムーンは自分とサモナサの、身の処し方を真剣に考えているのだ。
 サモナサはまだ幼く、白人社会に適応する可能性は十分にある、と思う。ただそれで、サモナサがしあわせになるかどうかは、だれにも予測できないだろう。
 とにかく、ブラック・ムーンにとっては父親であり、サモナサにとっては祖父に当たる、ジョシュアの手元に引き取られることだけは、なんとしても阻止しなければならない。自分がそばにいればともかく、あの男の手には絶対に渡したくない。
 自分の妻であり、ブラック・ムーンの母であるアンを、あの男は肉体的にも精神的にも、口にできないほど手ひどく扱った。
 それを思い出すと、体が震えるほどの怒りを覚える。サモナサを、あの男の手にゆだねるなど、とうてい許すことはできない。
 もっとも望ましいのは、サモナサをトシタベやジョシュアではなく、自分自身の手で育てることだった。
 キャンプを追い出されたからといって、ブラック・ムーンはサモナサを、あきらめたわけではない。できれば、トシタベの手から息子を取り返し、東部へ逃げて行きたい。
 シカゴ、ボストン、あるいはニューヨークあたりなら、コマンチの手が届くことはないし、なんとかやっていけるはずだ。
 あまり気は進まないが、ニューメキシコの父親の牧場と接触し、父親と恩讐を超えて事務的に、交渉することも視野に入れてある。たとえ遺言書に、ダイアナの名がなかったところで、息子の存在が正式に証明されれば、サモナサに牧場を継がせることも、不可能ではない。
 父親も、正式に跡継ぎを手に入れるためなら、たとえ不仲の娘があいだに立つとしても、いやとは言わぬだろう。
 東部の大都市なら、そういうことに詳しい弁護士が、何人もいるはずだ。
 何よりもまず、サモナサをわが手に取りもどすには、ハヤトの助けが必要になる。これまでもハヤトは、そのために危険をかえりみず、手を貸してくれた。
 そして、今。
 ボナーがハヤトの知り合いで、しかもハヤトに劣らず腕が立つなら、もう一人助っ人を頼むのも、いいかもしれない。そうすれば、サモナサを取りもどす可能性が、ぐんと高まるだろう。
 そのとき、途中で手洗いに立ったハヤトが、席にもどって来た。
 二人を見比べながら、ボナーが言う。
「ところで、あんたたちはこのアビリーンで、何をしてるのかね。まさか、お尋ね者のジェリー・バウマンを、追って来たわけでもあるまい」
 ハヤトは、ちらりとブラック・ムーンを見てから、返事をした。
「もちろん、違う。おれが、やつに針を吹きつけたのは、ヒコックとかいう保安官より先に、拳銃を手にしていたからだ。あれでは、まともな撃ち合いにならない」
 ボナーはうなずいた。
「ヒコックの腕なら、あとから抜いても勝つチャンスはあったが、バウマンも名うての悪党だ。どちらが勝つか、微妙なところだった」
 ハヤトが、天井のシャンデリアを見上げて、ぼんやりと言う。
「どっちにしても、ヒコックにはバウマンに何が起こったか、分かるまい。それでいいのだ」
「おかげでおれは、賞金を稼ぎそこなったがね」
 ボナーがぼやいたが、ハヤトは苦笑を浮かべただけだった。
 ブラック・ムーンは、ボナーに言った。
「さっき話したとおり、あたしはハヤトの手を借りて、息子のサモナサを取りもどそうと、コマンチのキャンプを追っているの。一度キャンプを張ると、よほどの不都合がないかぎり三カ月、長ければ一年以上も移動しないわ。コマンチは今、アビリーンの南六マイルのところに、キャンプを張っている。もう、二カ月になるわ」
「こんなところで、時間をつぶしているうちに、移動してしまったらどうする」
 ボナーに聞き返されて、ブラック・ムーンは首を振った。
「キャンプの移動は、準備に時間がかかるの。週に一度、様子を見に行けば十分。ただ、あたしの父親が雇った連中が、キャンプを襲う可能性もある。そのときは、息子をかわいがってくれた、トワシという少年の妹のケムカが、知らせに来てくれることになってるの」
 ケムカには、キャンプを追い出される前に、そのことを頼んでおいたのだ。
 自分は出て行くが、キャンプには一定の距離を置きながら、ついて行く。
 たとえ移動しても、常にキャンプの北側の見えない場所に、二マイルほど距離をあけて野営する、と教えてある。
 今もそれを守っており、野営地はキャンプから二マイル北にあって、アビリーンはさらにその北四マイルに、位置している。野営地にいないときは、アビリーンに行っている、と思ってほしい。
 そうケムカに、言い含めた。
 兄のトワシは、前回キャンプが捜索隊に襲われとき、岩山で見張りに立っていた。 ただ、背後に襲撃者の一人が迫ったことに気づかず、ナイフを食らって殺されたのだった。
 ブラック・ムーン母子が、まだキャンプで暮らしていたころ、ケムカは兄のトワシとともに、サモナサとよく遊んでくれた。ブラック・ムーンにも、なついていた。
 そのため、喜んで連絡役を務める、と約束したのだ。
 ブラック・ムーンは、ボナーに聞いた。
「あんたはこの町の、どこに泊まっているの」
「ホテル・アビリーンだ」
 少し間をおき、質問を続ける。
「バウマンをつかまえそこなって、これからどうするつもり」
 ボナーは、肩をすくめた。
「保安官事務所へ行って、また別のお尋ね者の手配書をもらうさ。それよりあんたたちも、そろそろ野営地へもどらないと、いけないんじゃないか」
 ブラック・ムーンは、ちらりとハヤトを見た。
 ハヤトは、椅子の上で体をもぞもぞさせたが、何も言わなかった。
 ボナーが、ハヤトに聞く。
「ユラとピンキーは、どうした。ネヴァダでおれと別れたときは、サンフランシスコへもどる、と言っていたが」
 ハヤトは、爪を調べるような格好をして、さりげなく応じた。
「二週間ほど前、この町からサンフランシスコの連絡場所へ、電報を打った。しばらくは、サンフランシスコへもどれない、と」
「そうか」
 ボナーは短く答え、それ以上は聞かなかった。
 その電報は、ブラック・ムーンがハヤトに勧めて、打たせたのだった。
 ハヤトは何も言わないが、連れのことを気にしているのは明らかで、ほうっておくわけにいかなかった。
 打つときに文面を見たが、ハヤトはごく簡単なことしか、書かなかった。言葉の問題もあっただろうが、それだけではないようだった。
 ボナーが、あらためて口を開く。
「連絡場所というと、確かグロリアズ・ロッジとかいう、サンフランシスコの下宿屋だな。おれもユラから、聞かされた覚えがある。一度も連絡してないが」
 ハヤトは、アメリカ人がよくやるように、小さく肩をすくめた。
「便りのないのは、無事な証拠だ」
「ユラはあんたとの再会を、待ちこがれているはずだ」
 ボナーが言ったが、ハヤトは頬の筋ひとつ動かさない。
「あんたが、そう思っているだけさ」
 ブラック・ムーンには、その返事が自分のことを意識したもの、とは思えなかった。 ユラという女は、いったいだれなのか。ハヤトの恋人なのだろうか。
 かすかな嫉妬(しっと)を覚えて、ブラック・ムーンは自分でちょっと、どぎまぎした。
 ボナーが、微笑を浮かべる。
「そうかな。おれには、なんとなく分かるんだ。ユラの目の動き、口のきき方やしぐさを見れば、あんたに会いたがっていることは、明らかだった」
 ブラック・ムーンは、耳たぶを引っ張った。
 ボナーが言うことは、ほんとうなのだろうか。ただハヤトが、そのことに気づいていないだけなのか。
 もともとハヤトは、めったに感情を外に出さない男だ。
 だとすれば、そのユラというのもかわいそうな女だ、という気がする。
 ブラック・ムーンは、泡の消えたビールを飲んだ。
 ハヤトは、初めて出会ったときから自分と一緒に、西部をあちこち旅してきた。そのあいだも、ユラをはじめ離ればなれになった仲間のことを、ほとんど口にしなかった。自分にも、ハヤトが何を考えているのか、分からなかった。
 ただ一つ気になるのは、旅をしているあいだハヤトは自分に、指一本触れなかったことだ。
 キャンプを放逐されたあと、ようやくハヤトに追いついたとき、ブラック・ムーンは思わず飛びついて、キスしたことがあった。
 あのとき、ハヤトは驚いたように抱きとめたものの、あとで唇を袖でぬぐったのを目にして、頭に血がのぼったのを覚えている。
 ブラック・ムーンは、ビールを飲み干した。
 そのとき、突然入り口のガラスドアが音を立てて開き、だれかか飛び込んで来た。 ブラック・ムーンは、椅子から飛び上がった。
 それはケムカだった。
「ケムカ」
 ケムカは、ブラック・ムーンを見るなり、見るみる顔をゆがめた。
 泣きながら、駆け寄って来る。
 何ごとかと、ほかのテーブルの客たちも話をやめ、ケムカに注目した。
 ケムカは、ブラック・ムーンに飛びつくなり、コマンチの言葉で叫んだ。
「キャンプが、襲われた。大勢、殺された。サモナサが、連れて行かれた」
(つづく)

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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