ブラック・ムーン第十一回

第三章

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 嵐に巻き込まれたように、すさまじい勢いで大揺れに揺れる、トールグラスの大草原。
 その中を、漆黒の濁流と見まごうばかりの、バファローの大群が駆け抜けて行く。 それはさながら、大地を揺るがす激震に見舞われたような、想像を絶する地響きだった。
 トウオムアも、これほどのスタンピード(大暴走)を、目にしたことがない。
 それどころか、その渦の真っ只中に身を置くなどという、血も凍る恐怖を味わうはめになるとは、考えたこともなかった。
 自分が立つ岩も、まるで奔流に押し流されるような、名状しがたい錯覚を覚えるほどに、激しく揺れ動く。
 われ知らず岩の上に身を伏せて、とがった岩角に必死にしがみついた。
 どれほどの時間がたったか、分からない。
 ひどく長い時間のようにも思えたが、実際には三分もたっていなかっただろう。
 周囲が、突然静かになる。
 うねっていた、トールグラスの揺れが少しずつ収まり、潮が引くように動きが止まった。
 嵐に似た轟音が、あれよあれよという間に遠くへ去り、それとともに岩の揺れも小さくなる。
 耳を聾(ろう)するばかりの、重い蹄(ひづめ)の音もしだいに耳から離れ、やがて遠雷のようにはるかかなたへ、遠ざかっていった。
 やがて草原に、何ごともなかったような、静寂がもどる。
 トウオムアは体を起こし、サモナサとハヤトが姿を消したあたりへ、必死に目をこらした。
 傾いたトールグラスのあいだから、疾走するバファローの群れに押し倒された、例の大木の枝が何本かのぞいている。
 トウオムアは、すぐさま岩から飛びおりると、容赦なく踏みしだかれ、なぎ倒されたトールグラスを掻き分けて、二人が姿を消した場所へ突き進んだ。
 ちぎれた草に、足を取られてよろめくたびに、不安が喉へ込み上げてくる。
 あの、すさまじいスタンピードに蹴散らされた今、サモナサとハヤトが無事でいることなど、とうてい期待できるものではない。
 ただ、万に一つの可能性を、神に祈るだけだ。
 絶望に押しつぶされつつ、トウオムアは壁のように立ちはだかる、トールグラスを両腕で押し分け、掻き分けしてようやく横倒しになった大木に、たどり着いた。
 刃の広いボウイ・ナイフを抜いて、かぶさった木の枝や葉を切り払い、幹の根元へもぐり込む。
 すると、厚く茂った葉の下に、ハヤトの鹿皮の上着が、ちらりと見えた。
 はっとするとともに、冷たい汗が首筋を伝う。
 なぜか、サモナサの姿は見えなかった。
「ハヤト。ハヤト」
 呼びかけてみたが、ハヤトは返事もしなければ、ぴくりとも動かなかった。太い枝が、ハヤトの背中に斜めにかぶさり、体を押さえつけているのだ。
 その周囲をのぞいてみたが、やはりサモナサの姿はなかった。
 もしかすると、サモナサはバファローの蹄にかけられたあげく、引きずられて行ったのかもしれない。
 恐怖と絶望にさいなまれ、トウオムアは思わずその場に、へたり込んだ。そのとたん、折れた枝の先がこめかみに当たり、鋭い痛みが走る。
 固く目を閉じて、その痛みをなんとかやり過ごそうと、バンダナでこめかみを押さえた。
 とがった枝の折れ口に、はずみでぶつけた痛みは思いのほか強く、なかなか収まらなかった。
 それが、サモナサを失った絶望を、なおさら大きなものにした。
 ようやく痛みをやり過ごし、ハヤトの体を揺すってみようと、枝のあいだに手を伸ばした。
 すると、ハヤトの鹿皮服の背にはっきりと残る、円形の土の汚れが目に飛び込んできた。
 われ知らず、ぞっとする。
 それは、バファローの蹄の跡に、相違なかった。ハヤトは、暴走するバファローの群れに、踏みつけられたのだ。
 次の瞬間、その鹿皮服の背のあたりが、かすかに動いた。
 ぎくりとして、目をこらす。
 気のせいではなかった。鹿皮服の背中が、わずかながら上下しているのだった。
 生きている。ハヤトは、生きている。
 トウオムアは、目を見開いた。ハヤトは、まだ死んではいなかったのだ。
「ハヤト。ハヤト」
 もう一度呼びかけたが、依然としてハヤトの肩も首も、動かない。
 手を精一杯伸ばし、動いた上着の裾を指先でそっとめくると、その下から何かがのぞいた。
 トウオムアは、ごくりと唾をのんだ。
 それは茶色の、小さな手だった。細い指が、閉じたり開いたりしている。
 電撃を受けたように、体の奥で何かがはじけた。
 動いたのは、ハヤトの背中ではなく、サモナサの手だったのだ。
「サモナサ。サモナサ」
 思わず声を上げて、サモナサの手を握り締めた。
 その手が、かすかな力とともに、握り返してくる。
 トウオムアは手を離し、ナイフを口にくわえた。
 腰の後ろから、トマホークを抜き取る。厚みのあるその刃を、ハヤトの上にかぶさる枝に、力任せに叩きつけた。
 生木が、半分ほど裂けたところで、全体重を枝の上にかけて、必死に押し下げる。 一度体を起こし、もう一度枝にトマホークを叩きつけて、ようやく折り曲げた。さらに、ささくれ立った折れ口を切り広げ、枝を払いのける。
 すると、長く伸びたハヤトの体の下から、サモナサがもそもそと這い出して来た。
「サモナサ」
 トウオムアはもう一度叫び、息子を枝のあいだから引っ張り出すと、両の腕にしっかりと抱き締めた。
 サモナサも、さすがに心細かったとみえ、泣き声を上げて母親にしがみつく。
 トウオムアは、少しのあいだ安堵と感動にひたっていたが、はっと気がついた。
 サモナサを、なぎ倒されたトールグラスの上に横たえ、すばやくその体に目を走らせる。
 手足に、多少の擦り傷があるだけで、たいした怪我はしていない。
 ほっとしながら向き直り、今度はハヤトの肩に手をかける。
「ハヤト。ハヤト」
 呼びかけたが、ハヤトはやはり返事をせず、身動きもしなかった。
 トウオムアは、胸がつぶれた。
 ハヤトは、押し寄せるバファローの大群と、なぎ倒された大木のあいだに、馬から体を投げ出したに違いない。
 そうすることで、滑り落ちたサモナサの上におおいかぶさり、身をもって息子の命を救ってくれたのだ。
 そのためにハヤト自身は、暴走するバファローの群れに踏みつけられ、命を失ってしまった。
 いや、まだ死んだとは、限らない。
 トウオムアは、ハヤトの体をおおうじゃまな木の枝を、必死になって切り払った。 幹に生えた何本かの枝は、厚いトールグラスがクッションの役を果たし、地面に緩く突き立っている。
 そのために、太い幹と地面のあいだに、空間ができたのが分かる。
 ハヤトの体は、さいわいにもその隙間に、はまり込んでいた。そのおかげで、まともにバファローに踏みつぶされる不運を、免れたように見える。
 トウオムアは、胸に灯がともるのを感じて、にわかに元気づいた。
 支えになった枝の、じゃまな小枝と葉をきれいに切り払うと、ハヤトの全身が現れた。
 服の襟首をつかんで、木の下から引きずり出しにかかる。
 しかし、服があちこちで折れた枝に引っかかり、容易には引き出せなかった。そのたびに、ナイフで服を切り裂く。
 作業の途中で、恐るおそる手首に触れてみると、かすかながら脈が感じ取れた。ハヤトはまだ、息があった。
 トウオムアは気を取り直し、さらに力を入れて意識のないハヤトを、引っ張り続けた。
 ようやく、草の上に全身を引き出したときは、さすがに息が上がった。
 ハヤトは薄目をあけたまま、そこに横たわっていた。
 胸に耳をつけると、心臓の鼓動が感じられる。確かに、生きているのだ。
 ほっとして、自分の体にまた熱い血が巡り始めるのを、はっきりと意識した。
 水を飲ませようと、トウオムアはナイフを口にくわえたまま、トマホークを草の上に置いた。
 そのとき、背後のトールグラスの陰から、声がかかった。
「動くんじゃないぞ、ダイアナ」
 本名を呼ばれ、はっとして振り向く。
 トールグラスを掻き分けて、見知らぬ男が姿を現した。
 顔の下半分に、真っ黒な髭をびっしりと生やした、背の高い中年の男だった。髪の乱れた頭から、革紐のついた帽子が背後へ脱げ落ちて、肩口からつばだけのぞいて見える。
 右手には拳銃が握られ、いつでも撃鉄が起こせるように、親指がかけられていた。その顔つきからして、まともなカウボーイには見えず、無頼のガンマンに違いなかった。
 頭に血がのぼり、トウオムアはくわえたナイフの刃を、強く噛み締めた。
 追っ手のことを、すっかり忘れていた。
 あのスタンピードで、連中もバファローに押しつぶされて死ぬか、運がよくても重傷を負ったはず、と思い込んだのがうかつだった。
 実のところは、自分たちと同じく生き延びた者がいて、トールグラスの中を迂回しながら、忍び寄って来たのだ。
 男が言う。
「あのスタンピードを、無事に切り抜けることができたとは、お互いに運がよかったなあ、ダイアナ」
 にやりと笑って、あとを続ける。
「そのまま、ゆっくりと立つんだ。トマホークに、手を出すんじゃねえ。ナイフは、口にくわえたままでいろ」
 トウオムアは、ナイフの刃をもう一度噛み締め、そろそろと立ち上がった。
「後ろへ下がれ。そのがきは、おれがいただいて行く。おやじから、おまえには手を出すなと言われたが、じゃまをするなら容赦しねえ。分かったか」
 男は念を押し、銃口を動かした。
 新たな絶望と戦いながら、トウオムアは両手を肩の高さまで上げ、抵抗の意志がないことを示した。
 男は、油断のない顔で茂みから踏み込んで来ると、仰向けに横たわるサモナサの、頭の後ろに立った。
「おい、坊主。さっさと立て」
 サモナサは目だけ動かし、何を言ったか分からないという風情で、男を見上げた。 実のところ、サモナサはある程度英語を理解するし、自分でも話すことができる。男が言ったことも、分かったはずだ。
 子供心にも、分からないふりをしているに違いない。
 男が、油断なくトウオムアを見ながら、軽く銃口を動かす。
「おまえがこのがきを、おれの馬に乗せるんだ。馬のところへ、連れてってやる」
「馬はどこ」
 トウオムアは聞き返した。
 それと同時に、歯のあいだから滑り落ちたナイフを、とっさに下ろした右手で受け止めた。
 すると男は、まるでそれを予期していたように、さっとひざまずいた。
 すばやく、サモナサの襟首をつかんで引き起こし、自分の盾にする。
「その手は食わねえよ、ダイアナ。ナイフを捨てろ。がきを抱いて、一緒に馬のとこへ行くんだ。がきの命が惜しかったら、言われたとおりにしろ」
 トウオムアは、奥歯を噛み締めた。
 ここから、父親の牧場がある南部のシルバー・シティまでは、そうとう長い距離がある。まだ、サモナサを取り返すチャンスは、残っている。
 今のところは、言われたとおりにするしか、方法がない。
「さっさと、ナイフを捨てろ」
 もう一度、男がいらだった声で言い、撃鉄を起こす。
 その瞬間、男は声を上げてのけぞり、サモナサの襟首から手を離した。
 トウオムアは、とっさに握ったナイフを振り上げ、男を目がけて投げつけた。
 それはもののみごとに、男の胸に突き立った。
 同時に、男の拳銃が火を噴いたものの、弾はどこか遠い空のかなたへ、飛び去っていった。
 男は仰向けに倒れ、左の目を押さえた左手がゆっくりと、草の上に落ちた。
 開いたままの目に、かすかに光るものが突き刺さっているのが、目に映る。
 トウオムアは、腕の中に飛び込んで来たサモナサを抱き留め、背後を振り返った。 同時に、わずかに持ち上がっていたハヤトの首が、がくりと草の上に落ちる。
 その、半開きになった歯のあいだから、吹き残した針が二本か三本、日の光を受けてきらり、と光った。

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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