ブラック・ムーン第十回


  4
 
 ドアに、ノックの音がする。
 時枝ゆらはわれに返り、椅子の上で背筋を伸ばして、返事をした。
「どうぞ」
 ドアが開き、白いエプロンをしたメイドのバーバラ・ロウが、顔をのぞかせた。
「ユラさん。ハンソムが来ましたよ」
 あわてて椅子を立つ。
 考えごとにふけるあまり、すっかり時間がたつのを忘れてしまった。先に着替えておいて、よかったと思う。
「ありがとう、バーバラさん。夕食までには、もどれると思います」
 太ったバーバラの体は、ほとんど戸口をふさいでいる。
「場所は分かるでしょうね」
 念を押されて、ゆらはうなずいた。
「だいじょうぶ。マダム・テンプルに、地図を描いてもらいましたから」
 手早く身じまいをして、おもてにでる。
 門の前に、ハンソムと呼ばれる一頭立ての馬車が、控えていた。
 ハンソムは二人乗りの、箱型の小型馬車だ。馭者台(ぎょしゃだい)は、天蓋(てんがい)の後方についており、馭者はその上から長い手綱をあやつって、馬を制御するのだ。
 馭者台には、高いシルクハットをかぶり、長くて白い口髭を生やした、かっぷくのよい老人が、すわっていた。
 ゆらは馭者台の下に行って、グロリア・テンプルが描いてくれた地図を、差し出した。
「カリフォルニア通りの、この場所へ行ってください」
 馭者は、かがんで地図を受け取り、値踏みするようにゆらを見た。
 ゆらは踏み台に上がり、扉を開いて座席に乗り込んだ。
 アメリカ人は大柄なため、二人乗りにしては狭いような気がしたが、ゆら一人には十分な広さだった。
 ゆらは、見送りに出たバーバラに手を振り、扉を閉じた。
 馬車は、急傾斜の坂道をゆっくりと、駆けおり始めた。
 こすれるような、耳障りな音が車台の下から、響いてくる。どうやら轍(わだち)に、坂道で速さを抑えるための仕掛けが、ほどこされているらしい。
 この通りは、まだすべてが石畳になっておらず、一部は砂利道のままだった。雨でも降ろうものなら、泥だらけの道になりそうだ。
 老人の馭者は、長年この仕事を続けているとみえ、腕が確かだった。馬車を、あまり揺らすこともなく、無事に坂をおりきった。
 やがて、カリフォルニア通りと標示の出た、広い道にぶつかったところで、大きく右へ曲がる。
 今度はすべて石畳の道で、馬車はあまり揺れることなく、走り続けた。
 ほどなく、馬が少しずつ足並みを、緩め始める。
 馭者が、手綱を引き締める気配がして、馬車は右側に建つ木造の、真新しい建物の門の前で、ぴたりと停まった。
 ゆらは石畳におり、門の鉄柵の上に掲げられた、横長の看板を見た。
 
 〈Japanese Consulate〉
 
  英語でそうしるされた下に、漢字で〈日本国岡士館〉と書かれている。
 ゆらは、〈岡士〉の意味も読み方も、分からなかった。
 ロッジにあった英語辞典によれば、〈Consulate〉は一国の海外における、代表事務所のことだという。
 また、その事務所の長を〈Consul〉、と呼ぶらしい。
 おそらく、まだ日本ではそれに対する訳語がなく、むりやり〈岡士〉の字を当てたのだろう。
 ゆらは、ほとんど漢語の素養がないため、それをコンサルと発音するのかどうか、分からなかった。
 どちらにせよ、とにかくその事務所の長がいる場所に、間違いはあるまい。
 馭者の声が、上から降ってくる。
「ここで、よかったかね」
 ゆらは、あわてて振り向いた。
「はい、間違いありません」
「それなら、終わるまで、ここで待っとるよ」
「でも、どれくらいかかるか、分からないんです。でも一時間後に、もしほかのお客さんを乗せていなければ、迎えに来てみていただけませんか」
「いや、ここで待っとる。テンプル夫人に、ちゃんと送り迎えをするように、言われとるんでね」
 ゆらは、ほっとした。
「分かりました。ありがとうございます」
 前夜、馬車を呼んでほしいと頼んだだけなのに、いかにもグロリアらしい気配りだ。
 馬車はゆっくりと動き出し、少し先の道幅の広い場所で一回りすると、向かい側で動きを止めた。ほんとうに、待ってくれるらしい。
 門の中をのぞくと、両側に植え込みのある砂利敷きの通路が見え、その十ヤードほど先にこぢんまりした、木造の建物が建っていた。
 門を押してみる。
 鍵がかかっているのか、鉄柵は前後にがたがたと揺れただけで、あかなかった。
 門柱に、少し錆(さび)の出た鉄の鎖が取りつけてあり、〈ご用のかたはお引きください〉と書いてある。
 それを引くと、どこかで何かが鳴ったような気がしたが、気のせいかもしれなかった。 ふとあたりを見回すと、少し離れた石畳の道に立ってゆらをながめる、黒い制服を着た大柄な男が、目にはいった。
 腰の革帯に、拳銃入りの革袋をつけ、前びさしのついた黒い帽子を、かぶっている。
 ポリスマンだ。
 ネヴァダやアリゾナでは、治安をあずかる法の執行官を、シェリフと呼ぶ。一方、大きな都会ではポリスマンとか、コンスタブルとか呼ばれているのだ。
 ゆらは、そのポリスマンを以前この町で、見かけたことがあった。
 連邦保安官の、マット・ティルマンの命令でゆらを追跡した、何人かのポリスマンの中に、その男が交じっていたのを、覚えている。
 どうやら向こうも、ゆらのことを思い出したらしい。
 いかにも、何ごともないような顔で後ろ手を組み、こちらへぶらぶらと歩きだした。
 ゆらは焦り、門から十ヤードほど離れた建物の、白く塗られた玄関のドアを見た。もう一度、鎖を引っ張る。
 ようやく、ドアが開いて黒い髪の男が、顔をのぞかせた。
 ザンギリ頭に洋服を着ているが、その顔はどう見ても日本人だ。
 ゆらは、日本語で呼びかけた。
「すみません、あけてください。三時に、コンサルとご面会のお約束をした、時枝ゆらと申します」
 それを聞くと、男は相好を崩してドアをあけ放ち、ポーチに出て来た。
 ゆらの、焦っている気配を察したのか、ポリスマンがこちらへ足を速めるのが、目の隅に映る。
 ゆらは、鉄格子に指をかけて、揺すった。
「お願い、急いでください」
 せっぱつまった声を出すと、男は顔を引き締めて砂利道を走り、門にやって来た。
 男が鍵をあけるのももどかしく、ゆらは鉄柵を押して中に飛び込んだ。
 それを、みずから押して閉めなおしたとき、ポリスマンが駆けつけて来た。
 ポリスマンは、鉄柵を太い指で握り締めるなり、押しあけようとした。
 日本人の男が、ゆらをかたわらへ押しのけ、英語で大声を出す。
「おやめなさい。ここは日本のコンサラートです。日本の領土と同じです。無理やり押し入れば、国と国との問題になりますよ」
 かなり癖があるが、話し慣れた英語だった。
 ポリスマンが、大声でどなる。
「この女は、密入国者だ。引き渡してもらいたい」
 男は臆せず、落ち着いて鍵をかけ直した。
「密入国者だろうが泥棒だろうが、日本人は日本の領土内にいるかぎり、貴国の法に従う義務はありません。お引き取りいただきたい」
 断固とした口調に、ポリスマンは唇を引き結んだ。
 くやしそうにゆらをにらみつけ、未練がましく鉄柵をひと揺すりしてから、手を離す。
「そのかわり、一歩でもこの敷地から外へ出たら、即刻逮捕するから覚悟しておけ」
 さらに、少しのあいだゆらたちをねめつけてから、くるりときびすを返してその場を離れた。
 ゆらは、男に頭を下げた。
「ありがとうございました。おかげさまで、助かりました」
 男が、くったくのない顔つきで、口元を緩める。
「どういたしまして。あの連中は、安い労賃で働く日本人や中国人を、米国人労働者の仕事を奪う、不都合な存在とみなしています。言ってみれば、邪魔者扱いなのです。われわれが、この国にしっかり根を張るまでには、まだまだ時がかかりましょうね」
 男の先導で、建物の入り口に近い事務用の部屋に、連れて行かれる。
 ゆらは、あらためてあいさつした。
「わたくしは、時枝ゆらと申します。武州は日野(ひの)、石田(いしだ)村の郷士の出でございます。卒爾(そつじ)ながら、そちらさまは」
「それがしは」
 そう言いかけて、言い直す。
「わたしは、武州忍(おし)藩の洋書調所の出で、塚原太郎(つかはらたろう)と申します。十年前、咸臨丸(かんりんまる)で当地に来て以来、こちらに根を下ろしています。どうか、お見知りおきを」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。二週間ほど前の八月下旬、ご当地に日本国の出先詰所が開かれた、と教えられました。つきましては、ぜひコンサルさまにお目どおりをして、お願いせねばならぬことがございます。どうぞコンサルさまに、お取り次ぎをお願いいたします」
「すでにコンサルには、その旨お話を通じております。ただ、ご承知おきいただきたいのですが、いまだ日本からコンサル赴任の知らせがなく、今のところはオナラリー・コンサル(honorary consul=名誉領事)が、業務を代行しております」
「オナラリー・コンサルでございますか」
 ゆらは、とまどった。
 コンサルに〈名誉〉がつくと、どういう身分になるのだろう。名義だけのコンサル、という意味なのか。
 塚原太郎、と名乗った男は心配ない、というように笑みを浮かべた。
「オナラリー・コンサルはアメリカ人で、ミスタ・ブルックスといいます。チャールズ・ウォルコット・ブルックス。これまでもずっと、当地に出入りする日本人のために、コンサル同様の業務をこなしてきた、きわめてりっぱな人物です。十年前、咸臨丸が当地にやって来たとき、親身になって日本人の世話をしてくれたことから、感謝の声が絶えませんでした。それ以来、正式のコンサルが赴任して来るまで、事実上わが国のコンサルと見なされています」
「分かりました」
 そう応じながらも、なんとなく不安に駆られる。
 塚原は、また笑みを浮かべた。
「心配いりませんよ、ゆらどの。コンサル・ブルックスが、お話をうけたまわって了解されれば、そのあとのことはわたしがきちんと、さばきますので」
 ほっとする。
「ありがとうございます。それならば、コンサルさまとご一緒に塚原さまにも、お話を聞いていただいた方がよいか、と存じます」
「承知しました。ゆらどのは、英語がお分かりになりますか」
「ひととおりは、分かるつもりでございます。長崎の英語伝習所で、フルベッキというオランダ人から、基礎を習いましたので」
 塚原は、眉を上げた。
「ああ、フルベッキのことなら、名前を聞いた覚えがあります。そういうことなら、だいじょうぶでしょう」
 十分後、ゆらは塚原に案内されて、チャールズ・W・ブルックスの執務室にはいった。
 竹の葉をかたどった、円窓の障子。
 紙で作った張り子、と思われる石灯籠(いしどうろう)。
 壁に取りつけられた、長押(なげし)の上の薙刀(なぎなた)。
 床の間ふうのくぼみに、山水画の掛け軸。
 刀掛けに飾られた、大小の刀。
 どことなくちぐはぐだが、いちおう日本ふうにこしらえられた、広い執務室だった。
 ブルックスは細おもての、まだ三十代後半と思われる男で、りっぱな口髭をたくわえ、黒のフロックコートを身につけていた。
 ゆらを見ると、椅子を立って大きな事務机を回り、そばに来て手を取った。
「ハジメマシテ。ドウゾ、ヨロシク」
 たどたどしいが、きちんとした日本語だった。
 お返しに、ゆらもていねいな英語を遣って、同じあいさつを返した。
 応接用のテーブルに着くと、ゆらはさっそく切り出した。
 さすがに、米国船で密入国したとは言えず、持参した書類を取り出す。
 唯一の頼りとなる、セント・ポール号の船長、ジム・ケインが書いてくれた、ゆらと内藤隼人の漂流証明書だ。
 内容に合わせて、漂流のいきさつを述べたあと、付け加える。
「もう一人の漂流者、内藤隼人はいささか事情があって、ただ今サンフランシスコにおりません。つきましては、とりあえずわたくしの分だけでも、あらためて日本国のパスポートを、発給していただきたいのです。パスポートさえあれば、サンフランシスコで働き口を見つけ、自立することができるはずです。よろしくお願いします」
 ブルックスは、右目に鼈甲(べっこう)ぶちのモノクルをかけて、ケインが書いてくれた漂流証明書に、丹念に目を通した。
 その証明書には、英語でこうしたためてある。
 
  一八六九年八月三日火曜日十五時十分、本船は太平洋をアメリカへ向けて航海中、北 緯二五度三二分、西経一三四度二八分付近の洋上を漂流するボートを発見、日本人の男女二名を救出、収容した。女の姓名はユラ・トキエダ、男の姓名はハヤト・ナイトウ。両名は、同年七月半ば江戸から蝦夷へ向け、ジンゴマル(神護丸)にて日本沿岸を航海中、颶風(ぐふう)のために遠く太平洋を流され、その後同船が別の颶風により転覆して、二名だけが生き残り、ボートで漂流していたことが判明した。
  本船は、この事実に相違がないことを保証し、近年の米日間の友好関係にかんがみて、 両名に対し官憲の理解ある措置を要請する。
  一八六九年八月十一日
   セント・ポール号船長
  ジェームズ・ケイン
 
 おおむね、そうした趣旨のことが署名入りで、書いてあった。
 この種の文書が、アメリカ官憲に対してどれほどの効果を有するものか、にわかには判断できない。しかし、母国日本の海外出先詰所の役人ならば、なんとかしてくれるかもしれない。
 そう思って、面会の約束をとりつけたのだが、コンサルがアメリカ人とは、予測していなかった。
 しかし、案ずるより産むがやすしで、ブルックスはすぐに塚原に証明書を渡し、それを読んで善処するように、と指示した。
 塚原は、ゆらとともに事務室にもどって、さっそくパスポートの再発給に、取りかかった。
 ゆらは、塚原から問いを発せられるまま、正直に自分のことを告げた。
 それをもとに、塚原は新しい海外旅行印章を作成し、コンサル・ブルックスの署名をもらってきた。
 できあがったパスポートは、本国で発給される書式に準じるもの、という。
 塚原が、ブルックスの署名をもらった印章には、次のような事項が記されていた。
 
  第一一一二號
  限五年
  生国武州日野石田村 時枝ゆら
   (當年十九歳)
 
  身長五尺二寸 軆重十二貫二百匁
  面長 口小サキ方 鼻筋トホル 耳常軆 無疵
 
   書面ノ者 太平海漂流中米國船せんとぽーる號ニ救助セ
   ラレ 桑港ニ上陸セル者ナルガ 生憎海外旅行印章ヲ所
   持セザル故 ココニ桑港日本國名誉岡士ぶるくすノ名ニ
   於イテ 新タニ印章ヲ發給スルモノナリ 何レノ國ニテ
   モ無故障通行セシメ危救ノ節ハ相當ノ保護有之候様其國
   官吏ニ頼入候
  明治三年八月十四日
  桑港日本國岡士館
  Japanese Consul
  Charles W. Brooks (署名)
                                    
 
 
 

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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