ブラック・ムーン第十六回

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 その夜、レストラン〈ピンキー〉は、貸し切りになった。
 ピンキーは厨房にこもり、腕によりをかけて料理に取り組んだ。
 弟のチャーリーに手伝わせ、何種類かの料理の下ごしらえを、てきぱきとこなしていく。その姿は、すでに何年ものあいだ修業した、シェフのようだった。
 それを横目で見ながら、時枝ゆらも忙しく包丁を使った。
 船の中では、洋食ばかりだったと聞かされて、兄新一郎のために日本料理を支度する、と決めたのだ。
 一月のサンフランシスコは、同じ時期の箱館よりも寒かった。
 市内では、まだ雪の降りそうな気配がないが、東側に横たわるシエラ・ネヴァダの山地では、すでにかなり降り積もっている、という話だ。
 この時期、日の出は午前七時半を回ってからと、かなり遅い。日の入りもまた、午後五時半ごろで、いくらか遅めだ。
 歓迎会の時間は、午後六時の約束だった。新一郎は、高脇正作が連れて来るはずなので、迷うことはあるまい。
 実のところ、ゆらは久しぶりに再会した新一郎と二人、兄妹水入らずでゆっくりと話をしたかった。
 ゆらにすれば、いわくのある正作が同じ席にいるのは、少なからず気が重い。
 とはいえ、新一郎にとって正作は、ともに新政府軍と戦った、旧幕軍の同志だ。しかも今や、同じメイスン&ヒル商会に籍を置く、同僚でもある。
 それを考えると、正作をむげにしりぞけるわけには、いかなかった。
 この歓迎会には、ほかに下宿屋の女主人グロリア・テンプルと、料理人兼雑用係のバーバラ・ロウも、来てくれることになっている。
 またピンキーの両親も、隣の精肉店の仕事を早じまいして、顔を出してくれるという。
 準備を進めながら、ゆらはいろいろなことを考えていた。
 日本の外交使節団は、上陸したあと用意された馬車に乗り、モンゴメリー通りのグランド・ホテルに、入館したはずだ。
 このホテルは、ゆらにパスポートを発給してくれた、例のブルックスという日本領事が、宿泊先として手配したものらしい。
 メイスン&ヒル商会の日本支社長、ディック・ペイジはサンフランシスコに家があり、そこへもどることになっている。新一郎には宿泊先として、外交団と同じグランド・ホテルに、宿を取ってくれたそうだ。
 商会が催すランチとやらも、そのホテルの一室で行なわれる。ランチのあと、ペイジが日本支社の仕事の首尾について、重役たちに沙汰を上げるという。
 それが終わってから、正作が新一郎を店へ連れて来る段取りだろう。
 ゆらはピンキーと一緒に、グランド・ホテルを何度かのぞきに行ったことがある。 日本では目にしたこともない、五層建てのとてつもない大きさの、石造りのホテルだった。
 建物は、通りを挟んで二つ向かい合わせに建ち、空中に専用の通路が架け渡してある。日本でいえば、高い場所に取りつけられた渡り廊下、といったところだ。
 第一層の、ロビーと呼ばれる大広間の床は、磨き上げられた大理石でできている。 ところどころ、込み入った模様の厚い敷物が敷かれた、とてつもなく広い部屋だった。日本でこれに比肩するのは、一度も目にしたことはないものの、江戸城の大広間くらいだろう、と思った。
 さらに驚いたのは、エレベーターと呼ばれる、上下に移動する小部屋だ。
 その、納戸のような狭い部屋にはいると、階段をのぼらずに上の階に行ける、珍しい仕掛けになっている、という。あいにく、乗ることはできなかったが、確かにそういう仕掛けなら、五層建ての高い建物でも苦にはなるまい。
 そのほか、第一層にはさまざまな商(あきな)い店(だな)があり、泊まり客や訪問客でいつも込み合っている。いってみれば、日本の市場のようなにぎわいだが、訪れる人びとはすべて身なりがよく、品の悪い客は見当たらなかった。
 ゆらも、今ではすっかりそうした光景を、見慣れてしまった。したがって、もはや最初のときほどの驚きは、感じなくなっている。
 ただ、そうしたものを目にするたびに、二年半ほど前に密出国した日本が、その後どのように変わったかを、知りたかった。おそらく江戸も、東京と呼び名が変わった程度で、このような文明の進歩を遂げている、とは思えない。
 新一郎にしても、港に出迎えたときの振る舞いからして、二年半前とあまり変わらないようにみえる。
 確かに、新一郎も髪形や装いが洋風になじみ、見慣れぬ口ひげまで生やしていた。 しかし、ゆらに抱きつかれたときの、あのどぎまぎした狼狽ぶりは、おかしいほどだった。
 あれはゆらが仕掛けた、いわば瀬踏みのようなものだったが、新一郎にとまどいを覚えさせただけに、終わってしまったようだ。
 また、自分が身につけて行った、ごくありふれたドレスに対しても、新一郎が軽く眉をひそめたのを、ゆらは見逃さなかった。
 アメリカの商社の、日本支社で働き始めたとはいいながら、新一郎はいまだに旧来の封建的な見方、考え方から脱しきれずにいる、との印象が強かった。
 そのあいだにも、歓迎会の準備は着々と進んだ。
 市内は、日本の外交使節団が無事に到着したことで、大いに盛り上がっていた。
 歓迎の幕や看板を掲げて、通りを練り歩く人びとの姿も見られ、音楽や歌声が流れ込んでくる。
 その中で、当地に在留する日本人の数が、思ったより多いと分かったことも、驚きの一つだった。
 本来なら、〈ピンキー〉もそうした浮かれ騒ぎに乗り、商売っ気を出してもいいところだ。しかし、ピンキーはそんなことをおくびにも出さず、ゆらの兄の歓迎会に店を使うように、自分から言い出したのだった。
 新一郎のために、ピンキーが迷わず店を貸し切りにしてくれたことで、ゆらはいささかならず心苦しいものがあった。
 店は、調理場を広く取ったせいで客席が少なく、四人掛けのテーブルが五つあるだけだ。
 ピンキーはこの日のために、それを全部中央に寄せて大きな席をこしらえ、そのまわりに全員がすわれるように、配置を決めた。
 ちなみに店の二階には、賭博場だったころに使われた、小さな個室が二つあった。 一部屋は、ピンキーが寝泊まりする寝室。もう一部屋は、居間になっている。
 なんでも、以前は女が客の相手をする部屋として、使われていたらしい。それをピンキーが、ちゃんとした部屋に改装したのだった。
 居間の方はふだん、ゆらを給仕頭とする配膳の女たちが、一息入れたりくつろいだりするのに、使われている。
 午後五時半になると、グロリア・テンプルとピンキーの母親マーナが、前後して姿を現した。バーバラ・ロウは、下宿人の食事の支度をすませたあと、みずから焼いたパイを持って、駆けつけるという。
 マーナは、その朝届いたばかりという極上の牛肉を、塊のまま持って来た。
 新一郎と正作が到着したのは、定刻の六時の二分前だった。
 ただちに、調理場からでき上がった料理が運ばれ、歓迎会が始まった。
 最初にゆらが立ち、新一郎の経歴を差し支えのない程度に、説明する。
 ついで、新一郎自身が立ち上がり、自分のことを簡単に紹介した。三年ほどのあいだに、新一郎の英語はゆらに負けないほど、流暢(りゅうちょう)になっていた。
 そのあと、出席者全員が一人ひとり立って、自己紹介をする。
 途中から、ひととおり調理を終えたピンキーも、座に加わった。
 ピンキーは新一郎に、セント・ポール号でのゆらとの出会いから、その後のさまざまな逃避行、追跡、戦いなどのあらましを、手際よく語って聞かせた。
 歳三のことも、ハヤトの名でいくらか触れはしたものの、正作との果たし合いについては、何も言わなかった。
 口止めしたわけでもないのに、ピンキーがその件をふせてくれたのは、ゆらにはありがたいことだった。その件は、いずれおりを見て自分の口から、新一郎に告げるつもりでいた。
 一段落すると、ピンキーが配膳の女たちにも声をかけ、座に加わるように言った。 二人のうち一人は黒人で、もう一人はメキシコ人だった。二人ともよく働き、性格も陽気なので、客にも人気がある。
 そのうえ、どちらも歌がうまい。楽器はなかったが、二人は交替でそれぞれ黒人の歌と、メキシコの民謡を披露して、喝采を浴びた。
 バーバラは、パイを焼くのに時間がかかるのか、なかなかやって来なかった。
 そのあいだに、新一郎が二階にある手洗いに立ち、いなくなった。
 しばらくすると、ピンキーがゆらのそばに来て、耳元でささやいた。
「シニチローが、話があると言ってるよ。二階の居間で、あんたを待ってる」
 いつの間に、そんな段取りをつけたのだろう。
 見回すと、だれもがまだあきる様子もなく、おしゃべりの最中だった。
 正作も、最近では珍しくよく飲んだとみえ、ピンキーの父親エイブラムと、楽しげに話し込んでいる。
 ゆらは席を立ち、階段を上がって奥の居間に行った。
 日本風にいえば、六畳ほどの広さしかないが、質素ながら居心地のいい部屋だ。
 敷物が敷かれた、部屋の中ほどに低いテーブルがあり、二つ並んだ安楽椅子の一つに、新一郎がすわっていた。
 ゆらは新一郎と向き合い、布張りの長椅子に腰をおろした。
 テーブルには、新一郎が持参した三合入りの徳利と、塗り物の杯(さかずき)が二つ置いてあった。
「どうぞ、兄上」
 ゆらは、新一郎の前に置かれた杯の一つに、徳利(とっくり)の酒をついだ。
「おまえも、ひとつどうだ」
 新一郎に勧められて、ゆらも自分の杯を満たす。
 二人は杯を上げ、かしこまって乾杯した。
 新一郎は酒が強く、いくら飲んでも様子が変わらないし、顔色にも出ない。
「長い船旅で、さぞお疲れでございましょう。きょうは、ほどほどになさった方が、ようございますよ」
「日本の酒なら、案ずることはない。昼間飲んだ、バルボンとかいうこちらの酒は、強いだけでうまくなかった」
 ゆらは、含み笑いをした。
「それより、アメリカの土を踏まれて、どんなことをお感じになりましたか。グランド・ホテルの威容には、驚かれたのではございませんか」
「驚いたことは驚いたが、さほどでもなかった。日本の支社には、一月足らずの遅れで、こちらのニュースペーパーが、送られてくる。それを読んでいたゆえ、だいたいのことは、思惑がついていた。むろん、見ると聞くとは大違いで、驚いたことは驚いたがな。ことに、あのエレベーターというしろものには、度肝を抜かれたわ」
「あれには、わたくしも驚きました。日本にはまだ、はいっておりませぬか」
「おらぬ。まずは、あれほどの建物を建てるのが、先だろう」
 ゆらは酒を飲み干し、杯を伏せて置いた。
「ところで、日本は箱館戦争の終わったあと、どう変わったのでございますか」
「どこがどう変わったのか、おれにもよく分からぬ。新政府は、おおむね薩長の田舎侍に、牛耳られておる。旧幕臣で、新政府に登用された者もいるが、恭順の意を示した木っ端役人ばかりよ。榎本(武揚)も大鳥(圭介)も今は獄中だが、いずれは新政府に取り立てられるだろう。おれたち賊軍の兵は、野にくだるしかないのだ」
 自嘲めいた口調だ。
「さりながら、兄上や高脇さまはお縄にもならず、たとえアメリカからとはいえ、扶持をいただいているのでございますから、恵まれた方でございましょう」
 ゆらが言うと、新一郎はぐいと唇を引き締めて、杯を干した。
「その高脇正作のことで、いささか話がある」
 あらたまった口調に、ゆらは少し身構えた。
「どのようなお話でございますか」
「土方さんや、おまえとの行き違いについては、先刻正作から聞かされた。正作が、片足を引きずるようになったのは、土方さんと斬り合って崖から落ちたせいだ、というではないか」
 ゆらは驚いて、顎を引いた。
「高脇さまが、そのようなことを、お話しされたのでございますか」
「そうだ。それだけではない。おまえに言い寄って、手厳しくはねつけられた、という話もな」
 ますます驚き、言葉が出てこない。
 それがまこととすれば、なんとなく先手を打たれたようで、いやな感じがした。
 新一郎は続けた。
「おまえが、ひそかに土方さんのことを慕っているのは、おれもよく承知している」 前触れなしに指摘され、さすがに頬が熱くなる。
「そ、そのような」
 言いかけるゆらを、新一郎は手で制した。
「隠さずともよい。兄と妹の仲だ。箱館にいるころから、とうに気づいていた」
 ゆらは言葉を失い、唇の裏を噛み締めた。
 確かに、血を分けた兄に分からぬはずがない、と納得する。
「兄上が、わたくしを歳三さんに同行させたのも、それが理由でございますか」
 新一郎は目を伏せ、耳の後ろを掻いた。
「まあ、そうなっても差し支えはない、と思ったのは確かだ」
 心が千々にみだれて、ゆらは口をつぐんだ。
 新一郎が続ける。
「ただ、土方さんは自分の出自をいまだに、思い出せないそうではないか。しかも今また、だれとも知れぬ白人の女と姿を消したまま、行方が知れぬと聞いた。それは、まことか」
 ゆらは、膝の上でドレスの襞をぎゅっと握り、声を絞り出した。
「まことでございます。高脇さまとの果たし合いで、崖から落ちたあげく川を流されたまま、いっこうに行方が知れませぬ。もはや、一年半ほどにも、なりましょうか」 胸が詰まって、口を閉じる。
 新一郎もしばらく、黙ったままでいた。
 階下からは、相変わらずにぎやかな話し声が、聞こえてくる。
 やがて、新一郎が言った。
「おまえ、正作のことを、どう思っているのだ」
 予期せぬ問いに、ゆらは顎を引いた。
「どうと言われましても、なんともお答えいたしかねます。どうとも思っていない、としか申し上げられませぬ」
 少し間があく。
「正作も、これまでの愚かな振る舞いを、深く悔いているようだ。土方さんに、無益な果たし合いを挑んだことも、おまえに理不尽な申しかけをしたことも、間違いであったと認めている。ついてはおまえに、聞きたいことがあるのだ。ありていに、正直に、答えてもらいたい」
 それを聞いて、ゆらは新一郎を見た。
「何を、お聞きになりたい、と」
 新一郎が息を吸って、おもむろに言う。
「正作が、おまえをぜひにも嫁にほしい、と所望している。おまえの、正直な答えを聞きたい」
 ゆらは絶句し、混乱したまま新一郎を、見返した。
 答えもあえず、口を半開きにしたまま、頭を整理しようとする。
 そのとき。
 ドアを、あわただしく叩く音がして、ゆらははっと背筋を伸ばした。
 新一郎が怒ったように、ドアに向かって言う。
「カモン・ニン(どうぞ)」
 ドアがあいて、太った黒人の女が、はいって来た。
 バーバラだった。
 われに返ったゆらは、わざとらしく明るい声で、呼びかけた。
「あら、バーバラ。ずいぶん、遅かったじゃないの」
 髪を、白いスカーフで包んだバーバラは、手にした紙切れを差し出した。
「ユラさんに、電報が届きました」
 それを聞くなり、ゆらは長椅子から飛び立って、バーバラのそばに行った。
 近ごろ、グロリアズ・ロッジの通りの真向かいに、新たに電信局ができた。そのため電報が、すぐ手元に届くようになったのだ。
 ゆらは、バーバラの手から電報用紙を取り、急いで広げた。

 〈Can't come back SF for the time being. Hayato〉

 当分SFにはもどれず。隼人

 顔から血の気が引く。
 ゆらは、電報を手にしたまま、その場に立ちすくんだ。
 一年半も音沙汰がなかったあげく、久しぶりの電報がこの文言とは。
 にわかに目の前が暗くなり、ゆらは長椅子の背につかまった。

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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