ブラック・ムーン第五回

 ビーティの町。
 すでに空は暗くなっていた。午後八時は回っただろう。
 トウオムアはハヤトの手を借り、左脚をかばいながらそろそろと、馬からおりた。
 診療所は、大通りの南の町はずれにあり、ドアに〈ドクター・ワイマン〉と書かれた、木の札がかかっていた。
 ワイマンは、妻と思われる美しい女の手伝いで、トウオムアの太ももの傷を、てきぱきと手当てした。銃創(じゅうそう)と分かったはずだが、それについては何も質問しなかった。
 終わったあと、今度はハヤトの体を診察した。
 そのあいだ、トウオムアは待合室に出されたので、様子が分からなかった。
 しかし、ハヤトが出て来たとき、刺激のある芳香が鼻をついたので、塗り薬か何かで手当てされた、と察しがついた。
 トウオムアは、ハヤトが買った白人用の服を、きちんと身に着けて来たので、インディアンには見えなかったはずだ。むしろハヤトの方が、インディアンに近いいでたちだから、目立たなかったのかもしれない。
 治療代は二人で十ドルで、ハヤトがまとめて払った。塗り薬と、化膿(かのう)止めの薬の代金が込みなので、それほど高くはない。
 もっとも、長時間腹に巻いていたとかで、紙幣はみんなしわくちゃだった。
 ともかく、ハヤトがかなりの金を持っていると分かって、トウオムアは少し安心した。二人でやり繰りすれば、しばらくはだいじょうぶだろう。ハヤトが、ずっと付き添ってくれる、と仮定しての話だが。
 むろんそのときには、それ相応のお返しをするつもりだ。
 治療のあと、大通りを数十ヤードもどって、馬を厩舎(きゅうしゃ)に預けた。
 愛馬キーマに着けた鞍(くら)は、夫トシタベが持ち帰った戦利品で、もともと白人のものだから、町でも不審を招く心配はない。
 ただ弓と矢筒など、コマンチの武器類を入れた袋は離さず、金と貴重品のはいった革袋と一緒に、かついで出た。
 ハヤトが予約した、というホテルに行って、チェックインする。
 ハヤトは、とりあえず荷物をフロントに預け、並びのレストランで食事をしよう、と提案した。
 トウオムアは、自分の荷物を手元から離したくないので、そのまま持って出た。
 並びのレストランは、〈オールドマン・ビーティ〉といい、かなり込み合っていた。
 久しぶりに、肉に血や筋のついていない、したがって血の味のしない、分厚いステーキを食べた。野生のバファローとは、かなり味が違った。
 トウオムアは、ほとんど食事のマナーを、忘れていた。
 ハヤトの、ナイフとフォークの使い方も、かなりぎこちなかったが、トウオムアよりはましだった。
 コマンチはみんなで、バファローの肉の塊を勝手に切り取り、好きなように食べる。
 トウオムアは、自分の肉をおおまかに切り分け、フォークで刺して食べた。
 周囲のテーブルにいた客が、ちらちら自分を盗み見するのが分かったが、気にしないことにした。
 デザートは、いちごとクリームのパンケーキで、これは文句なしにうまかった。子供のころ、母親が作ってくれたケーキを思い出して、少し感傷的な気分になった。
 ホテルにもどると、ハヤトはフロントで荷物と鍵を二つ、受け取った。
 客室は二階にあり、階段をのぼらなければならなかった。ハヤトが、二人分の荷物をかつぎ、トウオムアは手すりにつかまって、一足ずつのぼった。
 ハヤトは鍵の一つを、トウオムアに差し出した。
 トウオムアはそれを受け取り、ハヤトに言った。
「別に、二部屋取らなくても、よかったのに。むだなお金は、遣わない方がいいよ」
 ハヤトは、おもしろくなさそうな顔で、きっぱりと応じた。
「男がひとの妻と、同じ部屋で過ごすことはない。おれの国ではな」
 それは、コマンチも同様だが、時と場合による。
 しかし、トウオムアは何も言わずに、自室にはいった。
 ベッドの脇の、小さなテーブルに置かれた蝋燭(ろうそく)の灯が、ぼんやりと周囲を照らしている。
 あまり広い部屋ではない。
 にもかかわらず、どこか雑然としたたたずまいがあって、いやな感じがした。
 それは、十年にわたるコマンチとの生活で、自然に身についた勘のようなものだった。ホテルの使用人が、掃除をおこたったのかもしれない。
 荷物を置き、脚をかばいながら部屋の中を、一回りしてみる。
 子供のころ、牧場で過ごした時代のことを思い出すと、家具や調度はあまり上等とは言えない。慣れてしまえば、コマンチのティピーの方が、居心地がよさそうに思える。
 ベッドに腰を下ろした。ベッドに寝るのは、十年ぶりだった。
 しかし、最後に寝たときのベッドに比べて、ずいぶん固い。これなら、バファローの敷皮の方が、ずっと寝心地がいいだろう。
 なにげなく床に目を落としたとき、何かがきらりと光った。
 トウオムアは、太ももをかばいながら身をかがめ、それをつまみ上げた。
 蝋燭に寄り、あらためて目を近づける。
 それは、大豆ほどの大きさの、緑色のビーズ玉だった。
 息子の、サモナサの五歳の誕生日祝いに、自分が作って与えた首飾りの、ビーズ玉の一つに違いなかった。
 それが、何を意味するかを考えると、にわかに動悸(どうき)が速まる。偶然落ちたのか、それとも自分が教えたとおり、わざと落としたのか。
 どちらにせよ、この部屋にサモナサがいたことは、間違いない。
 トウオムアは、隣の部屋との境の板壁を、拳で三度叩いた。
 十も数えないうちに、ハヤトがノックもせずにドアをあけ、顔をのぞかせた。
「なんだ」
 相変わらず、ぶっきらぼうな口調だ。
 トウオムアは、指先のビーズを灯にかざした。
「これを見て」
 ハヤトは、ドアをあけたまま中にはいり、ビーズを見た。
「なんだ、これは」
「コマンチが、首飾りに使うビーズよ。これは今年の春、サモナサの五歳の誕生日に、あたしがプレゼントしたものだわ」
 ハヤトは、トウオムアに目をもどした。
「この部屋にあったのか」
「そうよ。足元の床に、落ちていたの。つまり、サモナサがきのうかきょう、この部屋にいたということだわ。ここが、なんとなく雑然としているのは、きっと前の客が出て行ってから、それほど時間がたってないせいよ」
 ハヤトは、トウオムアとビーズを見比べ、あらためて言った。
「間違いないか」
「ないわ。この色のビーズは、数が少ないのよ。去年、あたしが白人の密売商人から、買ったものに間違いないわ」
 トウオムアが応じると、ハヤトも三秒以上は考えず、顎(あご)をしゃくった。
「フロントの男に、話を聞こう」
 その結果、確かにこの部屋にサモナサがいたことが、明らかになった。
 ザップとソルティは真夜中、つまりこの日の夜明け前にやって来て、フロントを叩き起こし、無理やり部屋をあけさせた、という。
 間違いなく、インディアンらしい子供を、連れていた。
 二人はベッドを入れ足し、トウオムアと同じこの部屋に、三人で泊まったらしい。
 疲れていたのか、子供ともどもまる十二時間閉じこもり、食事も部屋でとった。
 その後、二人はフロントの男にチップを与え、子供を部屋から出さないように念を押して、外出した。
 そして日が沈む直前、酒のにおいをさせながらもどるなり、子供を連れてあわただしく出て行った、というのだった。
 トウオムアは、すぐにもあとを追おうと言いつのったが、ハヤトは頑強に反対した。
 焦るのは分かるが、負傷した体では無理がきかず、たとえ二人に追いついたところで、サモナサを取り返すのはむずかしい、というのだ。
 確かにそのとおりなので、ハヤトの忠告を受け入れた。
 翌朝、日の明けないうちに起きて、まずは薬を塗り替えた。すでに出血は止まり、痛みもだいぶ治まっていた。
 ハヤトを起こそうと思ったら、ハヤトの方からノックしてきた。
 宿泊代は前払いしたので、そのまま厩へ直行する。
 ハヤトは、厩(うまや)の中で寝ていた番人を叩き起こし、金を払って馬を引き出した。
 厩を出て、通りを歩きだしたとき、ハヤトが言った。
「白人は、馬に乗るとき左側から乗るが、あんたはいつも右側から乗るな。コマンチの連中は、みんなそうなのか」
「そうよ。あたしも、牧場にいるころは左から乗ったけど、コマンチと暮らすようになってから、右乗りに変わった。どちらからでも、乗れるようにしておいた方が、万一のときに役に立つからね」
 そう答えながら、ふと気づいて聞き返す。
「そういえば、あんたもあたしと同じように、いつも右から乗ってるじゃないか。どうしてなの」
 ハヤトは、少し間をおいた。
「おれの場合は、初めてこちらの馬に乗ったときから、体がしぜんにそのように動いた。たぶん、あんたたちコマンチと同じで、おれの国でも右側から乗るのが、ふつうだったんだろう」
 トウオムアは、それを聞きとがめた。
「たぶん、とはどういう意味」
 今度はさらに、あいだがあく。
「一年前、おれは船で日本からこの国へ、密航して来たのだ。それより前、おれは自分の国の戦争で頭を撃たれて、記憶をなくしたらしい。だから、日本にいたころのことは、何も覚えていない」
 いうべき言葉がなく、トウオムアは口をつぐんだ。
 記憶喪失、という脳疾患があることはその昔、牧場時代に聞いたことがある。しかし、それを患(わずら)う人間に出会ったのは、初めてだった。
 あらためて言う。
「その病気は、何かの拍子に治ることも、あるらしいよ。気長に待つんだね」
 ただの気休めと思ったのか、ハヤトはそれに答えなかった。
 ただ、黙って馬に拍車を入れ、速度を上げた。

 ビーティを出てから、すでに十日がたっていた。
 町を出るとき、トウオムアは比較的新しい蹄(ひづめ)のあとを探し、南東の方角へ向かった。
 追跡の途中、道が大きく折れ曲がったり、二股に分かれた場所にぶつかるたびに、馬をおりて地面を調べた。
 丹念に探すと、色とりどりのビーズが順に見つかり、追跡の道筋が正しいことが分かった。
 ハヤトはそのたびに、感心した。
「五つの子供が、そんな教えを覚えているとは、思わなかった」
「あたしたちは、子供が三つになると身を守るすべを、いろいろと教えるのさ。病気のほかにも、怪我をしたり死んだりする危険は、あちこちにあるからね」
 しかし、やがてビーズがなくなったとみえ、途中から道しるべが途絶えた。それでも、大体の道筋はニューメキシコへ向かっており、迷うことはなかった。
 ハヤトは、鐙(あぶみ)の上で脚をまっすぐに伸ばし、前方に目を向けた。
 トウオムアは、含み笑いをした。
 見渡すまでもなく、あたりは一面の大平原だ。インディアンか、白人でもすぐれた斥候(せっこう)以外に、自分のいる場所の見当がつく者は、いないだろう。
「連中は今、どのあたりにいるのだ」
 ハヤトの問いに、トウオムアは正直に応じた。
「ザップとソルティは、険しい山道や水場のない砂漠を避けて、最短距離を走って来た。白人にしては、馬の扱いの上手な連中だ」
 ハヤトは、鞍の上にすわり直した。
「おれには、今おれたちがどこにいるのかさえ、見当がつかない。ここが、どのあたりなのか、教えてくれ」
「この十日間、ネヴァダからアリゾナを走り抜けて、今日の昼過ぎニューメキシコの、北西部にはいった。そこから、少し南にくだったあたりに、いると思う」
 ハヤトが苦笑する。
「そう言われても、おれにはさっぱり分からぬ。ここは、あんたの父親の牧場からどれくらい、離れているのだ」
 トウオムアも笑った。
「そうだろうね。あたしだって、地図を見せられてもどこにいるのか、正確には指させないよ。ただ、ここから南へまっすぐくだれば、二百二、三十マイルのところに、牧場があることは確かさ」
「マイルで言われても、どれくらいの道のりなのか、おれにはさっぱりだ」
「まあ、これまでのペースで馬を走らせて、あと四、五日ってとこだろうね」
「四、五日か。すると、あまり余裕がないな。少し急いだ方がよかろう。あんたの傷に、差し障りがなければ、だが」
「あたしは、だいじょうぶ。あの、ワイマンという医者は、なかなかの名医だね」
 実際、傷口はすでにふさがってかさぶたになり、痛みもほとんどなくなっている。
「おれもおおむね、もとの体にもどったようだ。これなら、あの二人と対等に、戦えるだろう」
 それが事実なら、かなり心強いものがある。
 これまでの追跡の過程で、先を行く二人組がならず者ながら、相当の腕ききだということは、理解していた。
 そもそも、五歳の子供を連れて逃げるには、それなりの時間がかかる。
 二人は、サモナサがまだ未熟とはいえ、すでに馬を乗りこなすことを、知らないに違いない。したがって、交替でサモナサを自分の馬に乗せ、相乗りで走っているはずだ。その分、当然速度は遅くなる。
 それでも、まだ追いつけずにいるからには、二人をかなり手慣れた乗り手、とみなければならない。
 そうした状況で、単身あの二人に立ち向かうことになれば、サモナサを取り返すどころか、自分が生きてもどることもむずかしいだろう。
 少なくとも、ハヤトの助太刀がなければ、サモナサの奪還はまず不可能だ。
 思い切って言う。
「今夜一晩、寝ないで馬を走らせれば、明日の明け方にはサモナサたちに、追いつけるかもしれない」
 ハヤトが、鞍の上で振り向く。
「ほんとうか」
「ええ。というより、何がなんでも、追いついてみせるわ」
 自分の勘を信じれば、たぶん不可能ではない。
「そうか。それならおれも、付き合おう」
 あっさり応じたハヤトに、トウオムアはわれ知らず涙が込み上げ、あわててそっぽを向いた。
 くやし涙はもちろん、うれし涙も何度か流したことがあるが、こういう涙には縁がなかった。なんともいえぬ、甘ずっぱい涙だった。
 これが、幼いころ母親が読んでくれた本に出てきた、シヴァルリー(騎士道)というやつだろうか。
 その日は夕暮れまで走り、早めの食事をして馬を休めるとともに、二時間ほど仮眠をとった。
 日が落ちてほどなく、ふたたび追跡を開始する。
 人間は、眠気さえ追い払えば、なんとか走り続けられる。しかし馬は、そういうわけにいかない。並足、駆け足を交互に繰り返し、四、五十分ごとに十分から十五分程度の、休憩を挟まなければならない。
 馬という動物は、走らせれば走らせるだけ走り続け、最後にはへたばって倒れる。そのまま、息が絶えてしまうことも、珍しくないのだ。
 曙光がぼんやりと、東の空を染め始めるころ。
 暗い草原のかなたに、ぽつんとほの明るい場所が、かすかに見えた。
 馬を止めたハヤトが、腰を上げてそれを見ながら、低い声で言った。
「焚き火のようだな」
 トウオムアも、目を凝らす。
「ええ、たぶんそうだわ」
「ここから、どれくらいの距離かな」
「そう、ざっと半マイルね。つまり、ゆっくり歩いて十五分、というところかしら」
 少し黙って、ハヤトが続ける。
「あんたの言うとおり、どうやら追いついたようだな」
 感慨深げな口調だ。
 思いは同じだった。
「そうだ。追いついた」
 しばしの沈黙のあと、ハヤトが口を開く。
「あの焚き火は、けだものを近づけないためか」
「ふつうの旅なら、それもあるだろうね。でも、あたしたちに追われていることは、よく承知しているはずだ。あの二人はたぶん、焚き火のそばにはいないよ」
「すると、あれは罠、ということか」
「そう考えた方がいいだろうね」
 ハヤトが、低く笑う。
「なるほど、やつらにも考える頭が、あるらしいな」
「そうさ。ただ、あいつらの手の中には、サモナサがいる。いざとなったら、あいつらはサモナサを、盾に使うだろう。それをさせないためには、まずサモナサを助け出すことから、始めなきゃならないよ」
 トウオムアが言うと、ハヤトはしばらく考えを巡らしていた。
 やがて、さりげない口調で言う。
「では、おれがおとりになって、まっすぐ焚き火に向かう。あんたは、そのあいだに周囲の様子を見て、どちらの男が息子をつかまえているか、確かめるのだ」
 トウオムアは、首を振った。
「いいえ。おとりには、あたしがなるよ。あんたは、焚き火がよく見えるあたりまで、忍んで行くんだ。それを確かめたら、あたしはキーマに拍車をくれて、焚き火に突っ込んで行く。そうすれば、ザップもソルティもあたしを目がけて、銃をぶっ放すだろう。そのときの火花で、二人がひそんでいる場所の、見当がつく。夜が明けないうちは、あたしたちの方が接近戦に向いている。あたしも、焚き火を飛び抜けたらキーマを捨てて、どちらかを片付ける。それで、いいだろうね」
 ハヤトは、トウオムアの言うことを、じっと聞いていた。たぶん全部は、理解できなかったに違いない。
 聞き返してくる。
「二人が、同じ場所に隠れているかどうか、分からぬだろう」
 トウオムアは、うなずいた。
「そうだ。二手に分かれている可能性もある。あんたは、向かって左手を受け持ってちょうだい。あたしは、右手を引き受けるわ」
「分かった。支度をしてくれ」
 ハヤトは自分の馬を、手近の潅木(かんぼく)の枝につないだ。
 トウオムアは、キーマの背中に毛布を広げ、鞍を着ける。
 腹帯を、いつもよりきつく、強く締めた。
 鞍に縛りつけた袋をあけ、バファローの毛皮を重ねて作った、盾を取り出す。かなりの至近距離でないかぎり、銃弾をもとおさない強さがある。
 さらに愛用の弓と、矢筒に矢を五本。
 ロープを腰に巻きつけ、しっかりと縛りつける。それから、ロープの端に小さな輪をこしらえ、それをサドルホーン(鞍がしら)に引っかけた。
 そのロープで体を支え、キーマの左右に身を振り替えつつ、馬首の下側から矢を射続ける。これは、コマンチしかできない、高度のわざだ。
 トウオムアは武器を持って、キーマにまたがった。
 ハヤトが、見上げてきた。
「銃は、使わないのか」
「弓の方が、使い勝手がいいのさ。ただし、矢がなくなったら、銃を使うよ」
 ハヤトは、キーマの手綱(たづな)を取った。
「行くぞ」
 そう言って、歩きだす。
 さいわい、空には厚い雲が一面にかかり、星明かり一つ漏れてこない。
 それだけに、目印の焚き火はくっきりと見える一方、こちらの姿は見えないはずだ。だいいち、草原を埋め尽くす草は五フィートに達し、完全に視界をさえぎっている。
 トウオムアは、鞍の上に平たく体を伏せて、馬の頭より低い姿勢をとった。
 ハヤトも、手綱をできるだけ低く、引き絞っている。
 しだいに、焚き火との距離が縮まる。火の勢いは、だいぶ衰えているものの、暗闇の中ではまだ明るさを保っている。
 あと百フィート、というあたりまで近づいたとき、キーマが突然つんのめるように、足元を乱した。
 そのとたん、缶の中で石ころが転がるような、うるさい音が響き渡った。
 しまった。クラッパー(鳴子)が、仕掛けてあったのだ。
 その瞬間、草原のかなたにそびえる山の端から、太陽が顔をのぞかせたとみえて、あたり一帯に光の絨毯(じゅうたん)が、さっと広がった。

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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