ブラック・ムーン第八回


 空に漂う煙が、さらに薄くなった。
 そのすぐ下あたりに、小高い岩山が立ちふさがっている。さほど険しくはないが、裾野が長く南北に広がった、独特の形だ。
 トウオムアは、馬をおりた。
「あんたはサモナサと一緒に、ここで待っていてちょうだい。あたしは、この岩山の上から向こう側の様子を、確かめてみるわ」
 ハヤトに手綱(たづな)を預け、念のためライフルを鞍から抜き取って、南側から岩山に向かう。 
かなり傾斜がきつく、のぼりにくい岩山だった。太ももの傷が、かすかにうずいた。
 ところどころに、枯れかかった潅木が生えており、それにつかまりながら、のぼって行く。
 百フィートほどものぼると、岩と岩のあいだに隙間のある場所に、たどり着いた。
 トウオムアは、念のためライフルを両手で持ち、岩のあいだから眼下に広がる草原を、見下ろした。
 悪い予感が当たって、ぎくりとする。
 果てしなく続く大草原の、すぐ手前に当たる岩山の斜め下に、キャンプが見えた。
 正確には、キャンプの残骸というべきで、多くのティピーが燃やされ、くすぶり続けている。
 トウオムアは、歯を食いしばった。
 燃え残った天幕に残る、X十字を円で囲んだ赤黒い記号が、目に飛び込んできたのだ。 それは、バファローの血で描かれたコマンチの、それもトシタベの一族の目印だった。
 襲われたのは、自分たちのキャンプだと分かり、体の力が抜けた。
 ティピーのほとんどは焼かれて、きちんと残っているのは一つ、二つにすぎない。危惧したとおり、白人の集団に襲撃されたあげく、火をかけられたのだ。
 その証拠に、つば広の帽子をかぶって、拳銃を腰に着けた男たちが、ティピーのあいだを動き回る姿が、よく見える。
 およそ十人ほどの数で、何かを探しているようだ。
 もしかすると、襲った連中は父親に雇われた、追跡隊の男たちかもしれない。いや、そうに違いない。
 草や砂の上、ティピーとティピーのあいだに、コマンチの女の死体らしきものが、いくつか見える。中には、年寄りの男の死体も、まじっているようだ。
 ただし、その数はそれほど多くなく、ことに子供と男の戦士らしき死体は、一つも見当たらない。
 バファロー狩りに出た、トシタベをはじめとする戦士たちは、まだキャンプにもどっていないのだ。
 馬囲いに、一頭も馬が残っていないところを見ると、無事に逃げた者もかなりいることが、うかがわれた。
 逃げ遅れて殺されたのは、年寄りと病気の女たちだろう。
 どちらにせよ、これは問答無用の殺戮(さつりく)だ。バファロー狩りで、戦士たちが不在だったのが不運、としか言いようがない。
 トウオムアは、怒りのあまり岩角に体を押しつけ、ライフルを強く握り締めた。
 歩き回る男たちを、ねらい撃ちしたくなる衝動にかられたが、かろうじてこらえる。
 何人かは撃ち殺せるだろうが、なにしろ相手の数が多すぎる。結局は逆襲されて、自分はもちろんサモナサもハヤトも、やられてしまう。
 キャンプが襲われたのは、おそらく午前中のことだ。
 連中はひとしきり、キャンプの中や周辺を捜し回ったあげく、サモナサがいないと分かれば、すぐにも逃げたコマンチを追って、大草原を北へ向かうに違いない。
 とにかく、トシタベたちがバファロー狩りから、もどっていないことは確かだ。
 トウオムアが、二カ月ほど前に脱出したときは、キャンプはアリゾナ準州の南部に、設けられていた。
 その後遠征隊から、なんらかの知らせがあったかして、狩場に近い場所へ移ることにしたのだろう。それで、年寄りと女子供だけの集団が移動して、ここに新たなキャンプを設営した、と思われる。
 それにしても、遠いアリゾナ準州の南部の草原から、ここニューメキシコ準州の北部までは、そうとうの距離がある。おそらく、四百マイルは離れているに違いなく、かなりきつい移動だったはずだ。
 むろん、逃げ遅れた者たちはかわいそうだが、インディアンと白人との戦いは、きのうきょう始まったわけではない。また、これで終わりということでもない。これからも、当分続くはずだから、覚悟しておかなければならない。
 ふと気がついて、トウオムアはあたりに目を向けた。
 注意して眺めると、足跡らしきものがついた土や砂、踏みしだかれた枯れ草や欠けた岩角など、人がのぼりおりした痕跡がある。
 どうやら、襲撃者たちはこの岩山の上から、眼下のキャンプの様子をうかがい、隙を見て急襲をかけたらしい。
 しかし、コマンチならその危険があることに、気がつかないはずがない。どこかに、というよりこの岩山にこそ、見張りを立ててしかるべきだ。
 トウオムアは、キャンプの男たちに気づかれないよう、そっと岩のあいだから下をのぞいてみた。
 果たして、五ヤードほど離れた真下の岩棚に、うつぶせに倒れたコマンチの男の姿が、目にはいった。
 そのねじれた横顔から、一族のトワシという若者だ、と分かる。
 トワシの背中、心臓の後ろ側に当たる部分に深ぶかと、ナイフが突き立っていた。
 トワシは、子供のころ崖から転げ落ちて、片足が不自由になった。そのため、バファロー狩りの際は見張り役として、女子供と一緒にキャンプに残ることが多い。
 この日も、ここで見張りをしているあいだに、襲われたのだろう。
 おそらく、襲撃者のうちで刃物の扱いに慣れた者が、背後からナイフを投げて仕留めたに違いない。
 トワシは、サモナサをかわいがり、よく遊んでくれた。それを思うと、強い怒りを覚える。
 トウオムアは、一度ぎゅっと唇を引き締めてから、コマンチの追悼の言葉をつぶやき、トワシの冥福を祈った。このかたきは、かならず取ってやる。
 あらためて、眼下のキャンプを見下ろした。
 燃え残った、ティピーのあいだを歩き回る男たちを数えると、正確には十一人いることが分かった。その数からして、とてもハヤトと二人だけで、戦える相手ではない。
 どうしようかと迷ったとき、突然そばの岩に何かが当たって砕け、破片が顔に降りかかった。
 驚いて首をすくめるより早く、わずかに遅れて下の方から、乾いた銃声が耳に届いた。 あわてて、岩陰から身を引く。考えごとをしているうちに、一味のだれかが岩山の人影に気づき、発砲してきたのだろう。
 それをきっかけに、にわかにキャンプの動きが、あわただしくなった。
 トウオムアは、大急ぎで斜面を滑りおり、ハヤトのところへもどった。
「気づかれてしまった。すぐに逃げよう」
 そう言って、サモナサを馬に投げ上げる。
 ハヤトが、鞍にまたがるトウオムアに、声をかけた。
「どうする。もとの方角へもどるか」
 瞬時に判断する。
「だめ。すぐに追いつかれる。岩山を、逆方向に回るのよ」
 言うなり、サモナサの手綱を取って、馬腹を蹴る。
 山裾に沿って、一目散に北へ向かった。
 ハヤトも、あとに続く。
 どうやら、欠けた岩の破片で額が切れたらしく、血が目にはいって視野が赤くなった。 それを、バンダナでぬぐいながら、トウオムアは馬腹を蹴り続けた。
 一マイルほど疾走すると、南側から回って来た襲撃者の一団が、背後から銃を撃ちかけてきた。
 反射的に首をすくめたが、馬で走りながらライフルを撃っても、この距離ではまず当たることはない。拳銃で撃つなど論外で、弾のむだ遣いにすぎない。ただ、威しをかけているだけなのだ。
 トウオムアは首だけ振り向け、サモナサに声をかけた。
「しっかり、つかまってるのよ。もうすぐ、草原に突っ込むからね」
「分かった」
 幼いながら、けなげな返事に、胸が詰まる。
 北側の山裾を回ると、そこに長い岩山の細い裂け目があり、草原に抜けられることが分かった。
 裂け目を駆け抜けると、目の前に見渡す限りの大草原が、広がっていた。
 トウオムアは、サモナサの手綱をしっかりと握り締め、躊躇なくそこへ突っ込んで行った。何も言わなくても、ハヤトはついて来るだろう。
 ただしはぐれないように、気をつけなければならない。
 草はいわゆるトールグラスで、トウオムアやハヤトの背を超えているが、馬に乗ると胸から上が出てしまう。体を低く、伏せるしかない。
 ただし、そうした条件は追っ手の側も、変わりがない。草原の中では、待ち伏せされて反撃を受ける危険があり、逃げる側が有利になることもある。
 馬も視界をさえぎられる上、へたをすると草の葉先で目をつぶされるから、拍車を入れすぎるわけにいかない。
 体を起こし、振り向いて背後を見る。
 背を伏せたハヤトの、百ヤードほど後ろで草原が大きく揺れ、追って来る男たちの上半身が、のぞいている。
 さすがに今度は、銃を撃ちかけてこない。発砲するとしても、五十ヤードくらいに迫ってからだろう。
 どちらにせよ、これだけ人数に差があると、待ち伏せして反撃するのも、得策とは言えない。
 なんとか、深い草原の波にまぎれて、追っ手をまくしかない。
 しばらく走り続けると、百ヤードほど先に幹の太い大木が、まるで森から取り残されたように、ぼつんと立っているのが見えた。
 そのとき、どこからともなくかすかな、ごろごろという音が聞こえてきた。
 一瞬、雷かと思って目を上げたが、空はよく晴れている。遠雷かもしれないが、どこを見渡してもそれらしい雲は、目にはいらなかった。
 ほとんど間なしに、馬の足並みが乱れ始めるのが、伝わってくる。
 速度を落とすと、雷に似た腹に響く不思議な音とともに、草におおわれた大地がかすかに揺れるのを、馬を通じて感じ取ることができた。
 馬が、にわかに四本の脚を突っ張らせて、走るのをやめる。同時に、前脚を振り上げて大きくいななき、飛び跳ねようとする。
 トウオムアは手綱を引き絞り、その場で馬の向きを真後ろに変えた。
 すると、サモナサとハヤトの馬も同じように、飛び跳ねている。
 サモナサもハヤトも、振り落とされまいとして必死に、鞍がしらにしがみつく。
 距離を詰めていた、追っ手の男たちの馬も狂ったように、ぐるぐる回っている。
 ハヤトが叫んだ。
「地震だ」
 トウオムアも、一瞬そうかと思った。
 しかし、自分では一度も地震を経験したことがなく、それがどんなものか分からなかった。
 馬首をもう一度巡らし、正面に向き直る。すると、異様なものが目に映った。
 驚くべし、五百ヤードほど前方に広がった草の海が、まるでツナミのように盛り上がって、揺れ動きながら押し寄せてくるのだ。
 そうだ。
 子供のころ、百科事典か何かで海の波が急に高くなり、猛スピードで襲ってくるという話を、読んだ覚えがある。確かツナミ、と書いてあった。
 それが、海でもないのにこの大草原で、同じような光景を目の当たりにして、度肝を抜かれた。
 次の瞬間、激しく揺れる草の海のあいだから、黒いものがちらちらと姿をのぞかせながら、こちらへ向かって近づきつつあるのに、気がつく。
 大地の揺れがますますひどくなり、雷に似た轟音はさらに大きさを増して、急激な速度で迫ってきた。
 そのとき、トウオムアははっと気がついた。
 思わず、呪いにも似た言葉が、口をついて出る。
「スタンピード、スタンピード」
 そうだ。
 これは、めったに見られないバファローの、スタンピード(大暴走)なのだ。
 何かにおびえて、いずれかのバファローが狂奔し始めると、つられて近くのバファローも走りだし、それがどんどんほかのバファローに伝わって、ついにはすべての群れが同じ方向に、大暴走を始める。
 トウオムア自身、話には聞いていたものの、実際に目にするのは初めてだった。
 大声で指示する。
「ハヤト。左手の岩山に逃げるのよ。急いで」
 サモナサの手綱を持ち直し、愛馬キーマの鼻先を真横に引き絞って、思い切り腹を蹴りつける。 
キーマは、はじかれたように体を揺すり、猛然と岩山へ向かって走りだした。
 その瞬間、手にしていたサモナサの手綱が強く引かれ、手の中から滑り抜けた。
 あわてて振り向くと、サモナサの馬が狂ったようにたてがみを振り立て、揺れ動く草の波に向かって、疾走するところだった。
「待って、サモナサ。馬を止めて」
 そう叫んで、自分の手綱を引き絞ろうとしたが、キーマはその指示に従おうとせずに、そのまままっすぐ岩山の方へ、走り続ける。
「ホールト、ホールト(止まれ)」
 そう叫びながら、必死に引き留めようとするのに、興奮した馬は言うことを聞かず、手綱を引きちぎらぬばかりの勢いで、狂奔する。
 そうするあいだにも、バファローの暴走の波は止まるところを知らず、すでに目前に迫りつつあった。
 その波に向かって、サモナサの馬が突進して行く。
「サモナサ」
 トウオムアは、必死になって名を呼びながら、体をねじって後ろを見た。
 すると、最後尾にいたハヤトが手綱で馬に鞭をくれ、サモナサを疾風のように追いかけるのが、目に映った。
「ハヤト」
 そう叫んだものの、言うことを聞かぬキーマをなだめるのが、精一杯だった。
 その場で、ぐるぐる回り続ける馬を制御しつつ、トウオムアは首の向きを変えながら、サモナサの姿を目で追った。
 サモナサの馬が、さっき見つけた大木に向かって、突進する。それをハヤトが、必死に追って行く。
 サモナサは死に物狂いで、鞍がしらにしがみついているが、だんだん体が傾いていくのが、見てとれた。
 そこへ、ハヤトがなんとか追いつこうと、馬の腹を蹴り続ける。
 二人が、例の大木にたどり着くのと、バファローの暴走の波が押し寄せるのと、どちらが先かの競争になった。
 しかし、バファローの波は横にも広がっており、トウオムア自身もその暴走の波に、のみ込まれる恐れがある。
 トウオムアは、とっさにいちばん近い岩にキーマを寄せ、その上に飛び移った。
 立ち上がって、ハヤトに呼びかける。
「ハヤト、ハヤト。早く、早く。サモナサを、助けて」
 その声は、バファローの暴走する轟音にかき消されて、もはや自分の耳にも聞こえなかった。
「サモナサ」
 トウオムアが叫んだとき、サモナサの体が鞍の横に傾いて、落馬しそうになった。
 とっさに、サモナサに追いついたハヤトが、シャツの襟首をぐいとつかんで、馬上に引きもどそうとする。
 しかし、次の瞬間ハヤトもバランスをくずし、サモナサと一緒にあっけなく落馬した。 二人は、トールグラスの中にまっさかさまに転落し、そのまま姿を消した。例の大木まで、十フィートも残していなかった。
「オウ、ノー」
 トウオムアは叫び、天を仰いだ。久しぶりに、白人の神に祈った。
 あの大木が障壁になって、二人をバファローの大群の暴走から、守ってください。
 時をおかず、草の波は大きく盛り上がりながら、大木に殺到した。同時に、トウオムアが乗った岩にも、押し寄せてくる。
 トウオムアは、岩の周囲に生い茂るトールグラスが、川面に出た石で水の流れが分かれるように、左右に割れるのを間近に見た。
 バファローの黒い巨大な体が、草のあいだを見え隠れしながら、岩を挟んで二つの流れに分かれながら、なだれを打って走り過ぎる。
 視線を上げると、突進するバファローの大群に押されて、大木が前後に大きくゆれるのが、目にはいった。恐るべき、大暴走の圧力だ。
 なんとか、もってくれ。
 トウオムアの祈りもむなしく、傾き始めた大木が走る蹄(ひづめ)の轟音にも負けぬ、めりめりという大きな音とともに、バファローの進行方向へどうとばかり、倒れ込んだ。
「サモナサ、サモナサ」
 トウオムアは、両手を膝に打ちつけながら、繰り返し呼び続けた。

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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