ブラック・ムーン第十四回

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 翌朝、日がのぼる少し前。
 ティピーの列を挟んで、キャンプの中央を南北に貫く広い通路に、人垣ができ始めた。
 トシタベは、通路の北の端に馬を引き出し、目をこらした。
 南の端には、ハヤトが同じように馬を引いて、立ちはだかる姿が見える。空は、すでに明るみを増し、視界はよかった。
 遠目にも、白人の鞍(くら)をつけたハヤトの馬が、トウオムアの愛馬キーマだ、ということが分かる。
 口だけでなく、実際にキーマを貸し与えたと分かって、トウオムアの本心がまた読めなくなる。
 トシタベは、焦りを感じた。
 なぜなら前夜、トウオムアは迷ったあげく思い切って、という風情でトシタベに、意外な事実を打ち明けた。
 なんでも、ハヤトは口の中に細い針を何本も含み、敵の目に吹き当てる不思議なわざを、会得しているらしいのだ。むろん、離れた位置からではむずかしいが、接近戦や肉弾戦になった場合は、強力な武器になるという。
 確かに、針で目を傷つけられれば、戦う能力が大きく落ちる。へたをすると戦意を喪失して、そのままやられる可能性もある。
 それを承知しておいた方がいい、とトウオムアは言うのだった。
 そうしたハヤトの隠しわざを、なぜ自分に打ち明けるのかと、トシタベはいぶかった。
 もし、トウオムアがハヤトと関係を結び、トシタベが負けるのを願っているなら、そのような秘密を事前に漏らすはずはない。
 あるいは、自分からそれを明かすことによって、トシタベが一騎討ちをやめる気になるのを、期待したのだろうか。
 しかし、今さらそれを中止するわけには、いかなかった。部族全員の目が、この一騎討ちに向けられているのだ。
 トシタベは深呼吸をして、右側の人垣の端に立つトウオムアを、ちらりと見た。
 トウオムアの目は、らんらんと強い光を放っていたが、何を考えているかは読み取れなかった。
 トウオムアは、いったいどちらの勝ちを、願っているのだろうか。
 トシタベは、もう一度通路のかなたに立つハヤトに、目を向けた。
 二人のあいだは、おとなが両腕を広げた長さを一幅として、およそ四十幅ほど離れている。白人の単位を用いるならば、二百フィート少々といったところだ。
 矢は十分に届く距離だが、機敏な相手ならよけることができる、中途半端な間合いだった。
 ここはやはり馬を使って、確実にねらいをはずさぬ位置まで、一気に間を詰めるべきだろう。
 キーマを借りた以上、ハヤトも馬を使うつもりに違いない。ただ、あのカタナという武器は、長さに限りがある。
 むろん、敵に向かって投げることはできようが、万一ねらいをはずした場合は、手元に武器がなくなる。
 したがって、それはやらないだろう。
 おそらく、ハヤトは馬同士をぎりぎりまで接近させて、吹き針の隠しわざでこちらの虚をつき、カタナで仕留めにかかるに違いない。
 トシタベは、はっとわれに返った。
 だしぬけに、山の端から曙光(しょこう)がさっと流れ出し、平原をオレンジ色に染めたのだ。
通路の両側の人垣が、どっとどよめく。
 トウオムアは、山猫の毛皮を張った矢筒を、背負い直した。深呼吸をして、厚い毛布を敷いた馬の背に、ひらりと飛び乗る。
 バファローの毛皮でくるんだ、同じバファローの肋骨(ろっこつ)製の鞍の上に、腰を落ち着ける。鞍は、前後に支えの出っ張りがあり、それで体を安定させるのだ。
 南の端で、同じように馬にまたがるハヤトの姿が、曙光に照らし出された。遠目にも、右の肩の上に突き出たカタナの柄(つか)が、よく見える。
 あのカタナを、なんとか封じ込めるように、立ち回れないものか。
 南北に分かれているため、どちらも日の光が直接目に当たらぬ位置で、互いに有利不利はない。
 トシタベは、鞍の前部の出っ張りに縛りつけた、太いロープの輪を取り上げた。バファローの、脚の腱(けん)を固くよじり合わせて作った、じょうぶなロープだ。
 それを頭の上から通して、胴にしっかりと巻きつける。
 こうしておけば、馬上で体を前後左右に揺らしたり、移動させたりしても落ちることなく、全身を支えることができる。
 右手を肩越しに伸ばして、矢筒から矢を三本抜いた。それで決着がつかなければ、残りの二本を使うことになる。
 トシタベは、周囲のざわめきがすっと引くのを、体と耳で感じ取った。
 一瞬、人垣の動きが凍りついたかとみる間に、それまで静止していたハヤトの馬、キーマがゆっくりと動きだした。
 それを見て、トシタベも軽く馬腹を弓で打ち、同じように歩を進める。あたりは静まり返り、自分の呼吸が聞こえるような気がした。
 互いの距離が、わずかながら縮まったと思った、そのとたん。
 突然、ハヤトの乗ったキーマが、躍(おど)り上がるようにたてがみを振り立て、ものすごい勢いで駆け始めた。
 トシタベも、負けじと馬の腹を蹴り立て、全速力で走りだす。走りながら、すばやく一の矢をつがえた。
 見るみる距離が近づき、髪を後ろになびかせたハヤトの姿が、迫って来る。
 気のせいか、一瞬その頬がふくらんだように見え、トシタベはとっさに体を左に倒して、馬体の左側に身を沈めた。
 間髪をいれず、馬の首の下からハヤトを目がけて、一の矢を放つ。
 それはハヤトをはずれ、疾走するキーマのたてがみをかすめて、人垣の頭上を飛び去った。
 そのときには、トシタベはすでに二の矢をつがえ直して、すれ違いざまハヤトに射込んでいた。
 次の瞬間、目に留まるいとまもあらばこそ、ハヤトは肩越しに抜いたカタナで、その矢をみごとに切り払った。
 トシタベは、幻を見たと思った。
 矢は二つに断ち割られ、すれ違った二頭の奔馬の頭上をくるくる、と回りながら吹き飛ぶ。
 十幅ほど走り過ぎてから、トシタベははずみをつけて全身を回転させ、鞍上(あんじょう)に体をもどした。
 向き直ると、最初の半分ほどの距離をおいた北側の位置に、キーマが足を止めるのが見えた。
 ハヤトが手綱を引き、くるりと馬を向き直らせる。
 いつの間にか、通路の両側の人垣が腕を振り上げ、さかんに声を上げているのに気がついた。だれもが、自分を応援しているのだ。
 トシタベは馬首を立て直し、大きく深呼吸をした。
 自分が射た矢を、当たる直前で切り払う者がいるとは、夢にも思わなかった。この男は、やはりただ者ではない。
 まだ息が収まらぬうちに、ハヤトがキーマに拍車を当てるのが、目に飛び込んでくる。休む間を与えまい、という魂胆らしい。
 寸時に、トシタベは決断した。
 こちらの馬を動かさずに、ここで待ち受けるのだ。十分に近づいたら、三の矢をキーマの首にお見舞いして、狂奔させる
 ハヤトが落馬したら、そこで四の矢と五の矢を浴びせかけ、腰のナイフを使って、とどめを刺すのだ。
 キーマを傷つければ、トウオムアはもちろんサモナサも、悲しむだろう。しかし、今はそれを心配しているときではない。ハヤトを倒すのが先決だ。
 キーマに乗ったハヤトが、しだいに近づいて来る。
 トシタベは、右手に残った三の矢に加えて、矢筒から四の矢と五の矢を引き抜き、指のあいだに継ぎ足した。
 三の矢をつがえ、軽い速歩で近づいて来るキーマの首に、ねらいをつける。
 すると、ハヤトはその気配を察したのか、急に手綱を左右に引きさばいて、キーマの腹を蹴った。
 キーマが、あわただしく首を振り立てながら、にわかに速度を上げた。
 見る間に、距離がせばまる。
 トシタベは、すばやく鞍に足をかけて中腰になり、弓を引き絞った。
 キーマ目がけて、ひょうと矢を射かける。
 しかし、矢は首を振り立てるキーマからそれて、人垣のあいだにのぞく潅木(かんぼく)の茂みに、飛び込んだ。
 しまった。二度もねらいをはずすとは、これまでにないことだった。
 あたりに群がる、部族の者たちがいかにも残念そうに、足を踏み鳴らす。
 すかさず、四の矢をつがえたトシタベの目に、やおら馬上に腰を起こしたハヤトの姿が、くっきりと映った。
 その頬がふくらみ、急に唇がとがるのに気づいて、トシタベはすぐさま体を沈め、目を閉じた。
 次の瞬間、突然馬が脚を突っ張って、急停止する。
 トシタベは、とっさに鞍の出っ張りにつかまり、必死に腰のロープを引き絞った。鞍で体を支え、かろうじて落馬を逃れる。
 停止した馬が、悲鳴を上げるように大きく、いなないた。
 前脚を上げ、その場で竿立ちを繰り返しながら、狂ったように回り始める。
 たまらず、トシタベはあっけなく鞍の上から、すべり落ちた。落馬する寸前、腰に回した輪に支えられるかたちで、体が宙づりになる。
 馬はそれにかまわず、首を振って何度も竿立ちを繰り返しながら、あたりをぐるぐると回り続けた。
 トシタベは、輪から体を抜いて逃れようと、必死にもがいた。
 しかし、暴れる馬に翻弄されて、自由がきかない。死に物狂いで輪にしがみつき、地面に叩きつけられないように、体を支えるのが精一杯だった。
 いつの間にか、弓も矢も手から離れた。
 やがて、馬が竿立ちを繰り返すうちに、鞍に輪を固定していた結び目がはずれ、トシタベはどうとばかり地面に転げ落ちた。
 苦痛に耐えながら、ごろごろと地面を転がって馬の蹄(ひづめ)を避け、腰のナイフを引き抜いた。
 膝立ちになって、ハヤトの姿を目で追う。
 ハヤトはキーマから飛びおり、カタナを振りかざしてトシタベの方へ、まっしぐらに駆けて来た。
 しかし、途中でにわかに足を止めて、トシタベの様子をうかがう。
 それから、かざしたカタナをためらう様子もなく、背中の鞘(さや)に収めた。
 あっけにとられて、トシタベはハヤトを見返した。ハヤトは身をかがめ、地面から何か拾い上げた。
 それは、ついさっきハヤトが切り飛ばした、矢先の半分だった。
 鉄の鏃(やじり)は研ぎすまされ、鋭くとがっている。返し止めの顎があるので、矢を引き抜けば矢柄だけが取れて、鏃は体内に残る。
 鏃を取り出すためには、刺さった矢を逆に奥へ押し込んで、反対側に貫くしかないのだ。
 トシタベは、唇を引き締めた。
 ともかくハヤトは、トシタベの手にナイフしかないと分かって、自分も短い得物に持ち替えたのだ。
 アパッチやカイオワなら、そのような情けは決してかけず、かさにかかって攻撃するだろう。
 トシタベは、見ようによっては自分たちと同じ、先住民に似たこの正体の知れぬ男に、畏敬の念を覚えた。
 ハヤトの背後で、トシタベの馬がまだ狂ったように、首を振りながら躍り狂っている。
 トシタベは、その馬の左目から血が一筋、流れ出ているのに気づいた。
 それを見て、ハヤトは直接トシタベではなく、馬の目に吹き針を浴びせて、狂奔させたのだと悟った。
 突然、人垣の中から何かが放り投げられ、トシタベの目の前に落ちた。重い音がして、砂が舞い上がる。
 それは、大きな刃のついた、トマホークだった。だれかが、武器を投げてくれたのだ。
 トシタベは、それを人垣に向かって蹴り返し、手にしたナイフを構え直した。コマンチの誇りにかけても、仲間の武器を借りるわけにはいかない。
 ふと、場違いな考えが、頭をよぎる。
 ハヤトのように、正々堂々と戦おうとする真の戦士が、他人の連れ合いをものにしようなどと、たくらむだろうか。
 トウオムアの言うとおり、ハヤトに一騎討ちを持ちかけたのは、間違いだったかもしれない。
 とはいえ、もう戦いは始まってしまった。決着だけは、つけなければならない。
 そして、そうである以上は、ハヤトを倒さなければならない。
 かりにトシタベが敗れたところで、ハヤトは部族の他の戦士たちによって、殺されることになる。
 どのみち、ハヤトも生きてこのキャンプを出ることは、かなわないのだ。
 だとすれば、自分がハヤトに引導を渡してやるのが、まだしもだろう。
 トシタベは、ハヤトのふところに飛び込み、ナイフを横になぎ払った。
 ハヤトが、すばやく飛びしざるのに合わせ、とっさにナイフの向きを変えて、左の肩口に叩きつける。
 間一髪、ハヤトは左手を上げて、トシタベの右手首をつかみ、ナイフを止めた。
 負けじとトシタベは、つかまれたまま右腕に力を込め、ハヤトの首筋にナイフを突き立てようとした。
 トシタベの、バファロー狩りで鍛えた筋力は、ハヤトのそれを上回った。
 ハヤトが受け身になり、トシタベに押されて膝をつく。トシタベは、ナイフを持つ手に力を込めて、ハヤトをつぶしにかかった。
 さらに、渾身の力を振り絞ってのしかかると、たまらずハヤトは膝を折り曲げて、後ろざまに倒れた。しかし、トシタベの右手首を握った手は離さず、ナイフは首筋に届かなかった。
 トシタベは、今や両脇の人垣がばらばらに崩れ、戦う二人を輪になって取り囲んで、さかんに声援を送ってくるのを、意識した。
 それをはずみにして、なおも右腕に力を込める。
 そのとき、食いしばったハヤトの歯のあいだから、しゅっと軽い息が漏れる気配がした。
 はっとするより早く、トシタベは眉と眉のあいだに鋭い痛みを覚え、体の動きを止めた。
 思わず、ナイフを握る手を引こうとしたが、逆にハヤトは手首を離そうとしない。
 トシタベをにらみ、歯のあいだから言う。
「ネクスト、アイ」
 トシタベは、ぎくりとした。
 白人の言葉で、次は目だ、と言ったのだ。
 眉のあいだの鋭い痛みは、ハヤトの吹き針が刺さったからだと、寸時にして悟る。さらに、トシタベは脇腹に別の痛みを感じて、体を硬直させた。
 また、ハヤトの口から、言葉が漏れる。
「ユア、アロー。ストップ、オア、ダイ」
 トシタベは、脇腹に突き当てられたのが、自分の折れた矢の先だ、と察した。
 ハヤトは続けて、戦いをやめなければ死ぬ、と言っているのだ。
 トシタベは、必死に考えを巡らした。
 もし、ナイフを持つ手に力を込めれば、ハヤトに吹き針で目をつぶされる。それと同時に、脇腹に当たった矢の先がずぶりと、突き入れられるだろう。
 もはや、勝ち目はなかった。
 どちらにせよ、戦いをやめさえすれば、ハヤトに自分を殺す気はないのだ、とトシタベは悟った。
 しかもハヤトは、そのように持ちかけていることを、まわりの者たちに悟られまいと、配慮する様子を見せた。白人の言葉を遣ったのは、そのために違いない。
 トシタベは深く息をはき、ナイフを持つ手から力を抜いた。
 手首を握った、ハヤトの手からも力が抜けたが、自分から離そうとはしない。
 トシタベは、おおげさに右腕を振ってその手をもぎ離し、ハヤトの上から飛びのいた。
 ナイフを腰の鞘に収め、恩着せがましく言ってのける。
「命だけは、助けてやる」
 ハヤトは、仰向けざまに横たわったまま、いかにもほっとしたように、口元を緩めた。右手に握った矢を、さりげなく体の下に押し込む。
 同時に、まわりを囲んでいた戦士たちのあいだに、トシタベを称える歓声が上がった。
 それとともに、ハヤトにとどめを刺さなかったことに対する、不満の声がいっせいに漏れる。
 トシタベは両手を上げ、まわりの人垣に向かってどなった。
「この男は、おれとよく戦った。おれは、真の勇者を殺したくない」
 歓呼とも失望ともつかぬ、大きな喚声があたりを包む。
 いずれにせよ、トシタベの体面は曲がりなりにも、保たれたのだった。

 トウオムアは、キーマの腹を蹴り続けた。
 ハヤトがキャンプを去ってから、すでに三時間近くたっている。追いつけるとしても、明日の昼前になるだろう。道を間違えば、もっとかかるかもしれない。
 トシタベとハヤトの一騎討ちは、予想外の結果に終わった。トウオムアは、どちらかが死ぬまでは決着がつくまい、と観念していたのだ。
 迷ったあげく、前夜トシタベにハヤトの吹き針の、隠しわざを教えてしまった。その時点で、ハヤトが敗れることを、ほぼ確信していた。
 ハヤトは、まだ体力が十分に、回復していない。吹き針がきかないとなれば、トシタベに対抗することはできない。
 トシタベは、予想どおり得意の弓を、得物に選んだ。
 当然、ハヤトもライフルか拳銃を選ぶもの、と予想していた。たとえ、射撃に習熟していないにせよ、カタナでは対抗できるはずがないからだ。
 しかしハヤトは、カタナを選んだ。
 そのときトウオムアは、ハヤトが吹き針を使うつもりだと、確信した。
 相手に知られていなければ、吹き針は不意をつくのにもってこいだ。接近戦になれば、カタナのわざを十分に発揮できる。そう考えての判断だろう。
 それを知りながら、トシタベをハヤトと戦わせることは、フェアではない。
 またハヤトも、妻たる自分がその隠しわざの秘密を、トシタベに教える可能性が十分にあることを、承知していたはずだ。
 吹き針の秘密を知ったトシタベは、用心して接近戦を挑まないだろう。
 一騎討ちが始まったとき、トウオムアは二人の馬が動きだすと同時に、人垣の背後を抜けて南へ走り、通路の中ほどに場所を移した。
 案の定、戦いの火ぶたは、そこで切られた。
 トウオムアは、すぐそばでその一部始終を、見届けた。
 一騎討ちは、トウオムアの予想を裏切って、意外な結果に終わった。トシタベもハヤトも、互いにわずかな傷を負っただけで、ともに命を失わずにすんだのだ。
 かたちの上では、確かにトシタベが勝利を収めた。
 しかもハヤトに情けをかけ、あえて殺さずにおいたように、よそおった。
 そのときのことを、思い起こす。
 実のところ、トシタベがハヤトを地面に押し倒し、首にナイフを突きつけたところで、まわりの者たちは実質的に勝負がついた、と見ただろう。
 しかしトウオムアは、そうでないことを見破った。
 トシタベは、ハヤトの吹き針のわざを知りながら、あの体勢に持ち込んだのだ。
 一方、トシタベのナイフを食い止めたハヤトは、吹き針を相手の目に向けてではなく、あえて眉間に吹きつけた。
 あれは、攻撃をやめなければ目をつぶす、という警告だったに違いあるまい。
 さらにハヤトは、トシタベの脇腹に折れた矢の先をあてがい、いつでも突き殺せることを知らせた。
 そのときトシタベは、負けを悟ったはずだ。
 しかし、仲間の戦士たちのてまえ、負けを認めるわけにはいかない。
 おそらく、頭の中が空白になると同時に、トシタベはハヤトの考えを、読み取ったのだ。
 つまり、ハヤトもまた自分自身の勝ちを、望んでいるわけではないということを。
 戦士たちの中には、とどめを刺すのを避けたことで、トシタベに不満を抱く者もいただろう。コマンチは、敵に対するいらざる慈悲よりも、はっきり白黒をつけることを、好むからだ。
 そうした者たちに対しても、トシタベは断固たる姿勢を、見せる必要があったに違いない。
 そうしたいきさつから、トシタベはまずハヤトをキャンプから、放逐(ほうちく)した。
 それに続いて、同じくトウオムアをもキャンプから、追い出すことに決めたのだ。
 トウオムア自身も、それは覚悟していた。
 ただし、自分の命こそ助かったものの、もう一つの命ともいうべき息子、サモナサは手放さざるをえなかった。
 サモナサは、トシタベとその母親の手元に置かれ、トウオムアだけが追放された。ただ、愛馬キーマを引き渡してくれたのが、せめてものトシタベの慈悲だった。
 その措置に、トウオムアは一言も抗議しなかった。族長の決定は絶対で、苦情を申し立てることはできないし、抗議してくつがえるものでもない。
 ただ、トウオムアはトシタベに、言い残すべきことがあった。
 自分の実の父親、ジョシュア・ブラックマンが、自分の跡継ぎに据えるために、今後もサモナサを奪いに、ポシー(追跡隊)を送り込んで来る。したがって、決して油断せず、サモナサから目を離してはならない、と。
 キーマの息が荒くなった。
 すでに、かれこれ一時間以上も、走り続けている。このままでは、つぶれてしまう恐れがある。
 休憩することにして、トウオムアはキーマの手綱を、引き絞った。

 一連の出来事が、まるで夢のように感じられる。
 ときどき背中の上に、岩がいくつも転げ落ちてくるような、いわれのない衝撃を受ける。錯覚だと分かっているが、実際に恐ろしい苦痛を覚えるのだ。
 バファローという、巨大な牛の群れが背中の上を駆け抜けた、と聞かされた。
 頭の中で、霧が渦巻く。
 五稜郭(ごりょうかく)で、新政府軍を相手に激戦を繰り返したのは、いつのことだったか。あれもまた、夢だったのか。
 記憶がはっきりしないうえに、これまでのことを飛びとびにしか、思い出せない。
 いつの間にか、自分はアメリカに渡っていた。船に乗って、長旅をしたようだ。なぜアメリカに来たか、思い出せない。
 おぼろげに、時枝新一郎(ときえだしんいちろう)の妹ゆらが一緒にいた、という記憶がある。
 そして、いっとき新選組に籍を置いた、高脇正作(たかわきしょうさく)もこちらに来ていた。
 あの男は、小太刀(こだち)を遣わせればなかなかの腕だが、酒癖と女癖が悪いのが玉にきずだ。
 正作と、どこかで刀を交えたような気がするが、はっきりした記憶がない。
 すべてが、まだら模様になっている。
 馬の蹄の音が聞こえた。だれかが、追って来るようだ。
「ハヤト。ハヤト」
 名前を読んでいる。
 馬を止めて、向きをかえよう。
 あれはブラック・ムーン、いや、トウオムアだ。
 トウオムアは、トシタベとサモナサのいる、コマンチのキャンプに、残ったのではなかったか。
 馬を寄せると、トウオムアは鞍の上に立ち上がり、こちらに飛びついて来た。
 支えきれずに、もつれ合って鞍から地面に、転がり落ちる。
 転がったまま、トウオムアがこちらの口に、口をぶつけてきた。

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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