ブラック・ムーン第九回


  3
 
 時枝(ときえだ)ゆらは、壁の暦(こよみ)を見上げた。
 一八七〇年、九月九日、金曜日。
 和暦でいえば明治三年だが、正確な日付はもう分からない。おそらく葉月、八月の半ばだろう。
 二カ月半ほど前の、六月二十六日。
 カリフォルニアの、デス・バレー(死の谷)の入り口に近い、ネヴァダ州の州境の町、ビーティ。
 そこから、数十マイル北側に位置するラヴァ・フィールズ、と呼ばれる峡谷の高い岩柱の上で、内藤隼人(ないとうはやと)こと土方歳三(ひじかたとしぞう)と、箱館(はこだて)でともに新政府軍と戦った高脇正作(たかわきしょうさく)が、果たし合いをした。
 その岩柱は、てっぺんが平たい円形をしており、側面が切り立った断崖になっていた。 広いメサ(台地)を、きわめて小さく縮めたような形で、狭いジグザグ状の崖道からしか、のぼりおりができなかった。
 立ち会い人は、連邦保安官マット・ティルマンの娘、ダニエルだった。勝った方が、あらためてダニエルと決闘する、という段取りになっていた。
 ダニエルにとって、正作は拳銃と居合のわざを競う、ただの好敵手でしかない。
 一方の隼人は、ダニエルの父親マットの命を奪った、憎むべきかたきだ。したがって、隼人との勝負はまさしく仇討ちの決闘、ということになる。
 ただし、隼人が正作に後れをとり、先に命を落としてしまえば、仇を討つことは不可能だ。
 その場合ダニエルは、残った正作と腕試しのためだけに、勝負しなければならない。自分でそうと決めた以上は、いやでもそれに従わざるをえないだろう。
 決闘のあいだ、ゆらは切り立った狭間を隔てた、一段高い岩山の岩棚の上にいた。
 そこから、ピンキーと賞金稼ぎのクリント・ボナー、それにダニエルの手先ビル・マーフィとともに、かたづをのんで二人の果たし合いを、見守っていたのだ。
 ころ合いを計り、ダニエルが拳銃の銃口を空に向けて、発砲した。
 それを合図に、ハヤトと正作は電光石火、刀の柄に手をかけた。
 次の瞬間、隼人は居合の達人正作が放った鋭い斬り込みを、わずかに抜いた愛刀和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)の、鍔元(つばもと)で受け止めた。
 その衝撃で、正作の小太刀は真二つに断ち割られ、刃先が宙に舞い飛んだ。
 それを見るなり、ゆらは瞬時に勝負あった、と思った。
 隼人もそう判断したとみえ、そのまま刃を抜き放つことなく、鞘に押しもどした。
 しかし正作は、一歩も引かなかった。
 とっさに、手に残った小太刀を引きつけるや、猛然と隼人に突きかかった。
 間一髪、隼人は体をかわして正作の手首をつかみ、からくもその突きをそらした。
 とはいえ、正作の勢いを支えることができず、ずるずると崖際に押し詰められた。
 正作が、隼人を仕留めようと手首をもぎ放し、小太刀を頭上に構え直した、まさにそのとき。 ふたたび、ダニエルの拳銃が火を噴いて、正作の小太刀を撃ち飛ばした。
 ダニエルもまた、隼人が小太刀をみごとに断ち割ったとき、勝負はついたと見なしたのだろう。あるいは、父親のかたきを正作に奪われたくない、という気持ちが働いたのかもしれない。
 それでも、正作の勢いはとどまらず、まともに隼人の体に、突っ込んだ。
 あっと言う間に、二人はもつれ合ったまま岩盤の縁を越え、崖から谷底へ転落して行った。
 ゆらたちは、その果たし合いの一部始終を、見届けたのだった。
 われに返ったゆらは、足元を気にする余裕もあらばこそ、無我夢中で自分たちがいる岩山から、転がるように駆けおりた。
 ついで、果たし合いが行なわれた隣の岩柱へ、掛けてあったロープ伝って、よじのぼった。
 ピンキーら、ほかの者たちも、それに続いた。
 思わぬ結果に、ダニエルは途方に暮れた様子で、崖の縁に立ち尽くしていた。
 ゆらたちが崖をのぞくと、すぐ下は厚い枝葉におおわれた森林で、二人はそこへ飲み込まれたごとく、影も形も見えなかった。
 岩柱をおり、崖下の深い茂みの中を一時間ほど、全員で捜し回った。
 そのあげく、木々のあいだを流れる川のそばの砂地に、隼人と正作が転落した場所を発見した。
 隼人も正作も、厚く重なった木々の葉と生い茂った下草、それに湿った砂地に衝撃を吸収され、かろうじて死をまぬがれたらしい。
 その場に倒れた正作は、体のあちこちに打ち身や切り傷を負い、意識を失っていたものの、命だけは取り留めた。
 一方隼人の姿は、その周辺に見当たらなかった。ただ、正作のすぐそばから隼人が砂地を這いずり、川の方へ向かった跡が見つかった。
 その跡は、最後に川にずり落ちたかたちで、途切れていた。
 どうやら隼人は、水を飲もうとして川に這い込んだものの、あえなく流されてしまったとみえる。
 少なくとも、そのときまで生きていたことは、確かだった。
 しかし、負傷した体で川を流されたとすれば、今でも無事でいるかどうかは、予断を許さない。溺れ死ぬことも、十分にありうる。
 ゆらたちは、ひたいを集めて相談した。
 その結果、次のように対応することで、話がついた。
 まずは、ゆらと正作とボナー、ピンキーとダニエルとマーフィの、三人ずつの二組に分かれる。組み合わせは、合議で決めた。
 二組が、それぞれ川の左岸と右岸を、前後して隼人を捜索しながら、南のビーティの町へ向かう。
 ピンキー組は、川を渡って右岸を行く。
 ゆら組は、トラヴォイ(曳行架=運搬具)を組み立てて正作を乗せ、川沿いに左岸を行く。
 二つの組は、途中隼人が見つかればただちに合流し、見つからなければ四日後の六月三十日に、ビーティで落ち合うことにする。四日後としたのは、ゆら組がトラヴォイで正作を運ぶため、ピンキー組より速度が遅くなるからだ。
 万が一、落ち合うことができなかった場合、ピンキーはビーティの町に残るか、あるいはラルストン・ホテルのフロントに、伝言を残すかする。
 ダニエルは、その場合にどうするかの判断を、保留にした。
 むろん、仇討ちを断念することはないだろうが、負傷したとみられる隼人を相手に、問答無用で決闘を挑むつもりも、ないようだ。
 手先のマーフィは、あくまでダニエルの判断に従う、と宣言した。
 こうして、ピンキーはダニエル、マーフィとともに、ビーティへ向けて先発した。正作の馬は、ピンキーが引いて行った。
 ゆらとボナーは、その場でキャンプを張ることに決め、とりあえず正作の傷の手当てをした。
 ゆら自身は、正作に好意を抱いていないどころか、不信の念が強い。しかし、同胞として放置するわけにいかず、めんどうをみざるをえなかった。
 正作に借りがあるとはいえ、他国人のボナーが見捨てずにいるのに、日本人の自分が逃げることはできない。
 致命傷は受けていないが、正作は体のあちこちにきつい打撲傷を負い、右の脛骨(けいこつ)を折っていた。
 意識を取りもどしたものの、全身に受けた衝撃はかなり大きく、当然とはいえとっさの判断力や、認識力が鈍くなっていた。
 ゆらは、手持ちの薬草で応急手当てをしたが、できるだけ早く医者に見せる必要があった。
 まずはボナーの手を借り、正作を乗せて運ぶトラヴォイを作った。
 翌六月二十七日の朝、ゆらたちは川の左岸をビーティに向けて、出発した。
 ボナーが、馬にトラヴォイを装着して正作を運び、ゆらは隼人の馬を引き受けた。その馬はイーグルといい、隼人がショショニ族の戦士イーグル・ホースから、プレゼントされたものだ。
 途中、川岸の茂みや雑木林にぶつかるたびに、その周辺を捜し回った。しかし隼人は、見つからなかった。
 川幅の狭いところ、比較的流れの緩やかなところでは、馬を乗り入れて捜したものの、手掛かりすら発見できなかった。
 右岸を先行する、ピンキー組からもとくに合図はなく、それらしき目印も残されていなかった。
 ゆらとボナーが、正作を運んでビーティに着いたのは、六月三十日のことだった。
 ピンキーたちは、二日前に先着していた。ただ、町に残ったのはピンキー一人で、ダニエルとマーフィの姿は、すでに見えなかった。
 ピンキーもまた、ビーティへ来るまでのあいだに、隼人を見つけることはできず、手掛かりもつかめなかった。
 しかしビーティに着いたあと、いち早く〈ネヴァダ・パレス〉のバーテンダー、トム・フィンチに会いに行き、隼人の消息を聞き出していた。
 隼人は、確かにビーティの町に来た、という。
 そのうえ、フィンチが教えてやった、ドク・ワイマンの診療所で、治療を受けたとのことだった。
 ピンキーは、ただちにその診療所を訪ね、ドク・ワイマンに話を聞いた。
 ワイマンによると、なぜか隼人は白人の女と、一緒だったという。
 隼人は、体のあちこちに打撲傷(だぼくしょう)、擦過傷(さっかしょう)を負い、白人の女は太ももに銃創があった。しかしいずれも、命に関わるものではなかった。
 女は、二十代半ばくらいの年ごろで、身長五フィート五インチほどの、やせ形の白人だった。英語を話し、確かに白人には違いなかったが、日に焼けた赤銅色(しゃくどういろ)の肌をしていた。
 ドク・ワイマンの意見は、こうだったらしい。
 顔や肌の色からして、その女はおもに野外で暮らす習慣が、ついていると思われる。たとえば牧畜業、あるいは金鉱や銀鉱を探す山師、といった仕事に従事する女、と考えられる。
「もっとも、カウボーイならぬカウガールは、かなり数が少ない。山師となると、もっと少ない。むしろ、インディアンと一緒に暮らした女、と見た方がいいかもしれぬ」
 それが、医師の結論だった。
 そうした話から、川を流された隼人がその女に助けられ、ビーティの町にたどり着いたもの、と推測することもできた。ただ、なぜ女が銃創を負っていたのかは、分からなかった。
 女のことはともかく、隼人が無事だったと分かって、ゆらはほっとした。
 それ以後の聞き込みで、隼人と女がその日ラルストン・ホテルに一泊し、翌朝早く南東へ向けて出発したことが、確かめられた。ピンキーたちが到着する、数時間前のことだったらしい。
 それを聞いたダニエルは、翌日マーフィを引き連れて町を立ち、同じく南東へ向かったという。 
むろん、隼人を追うためだろう。隼人が無事なうえ、正作ほどの重傷は負っていないと分かって、所期の目的を果たそうと決めたに違いない。
 そうと分かると、ゆらもほうってはおけなかった。
 そもそも隼人は、その日焼けした白人らしき女と、どこへ向かったのだろう。
 崖から転落したあと、どうにかしてビーティへたどり着いたのなら、ゆらやピンキーが自分を捜して、あとから来るかもしれないと考えるのが、ふつうではないか。
 それを、〈ネヴァダ・パレス〉のトム・フィンチや、ラルストン・ホテルにも伝言を残さず、正体不明の女と二人で町を出て行くとは、どういうことだろうか。
 むろん、よほどの事情があったに、違いない。そうでなければ、ゆらやピンキーに何も言わずに、町を去るはずがないのだ。
 いくら考えても、分からなかった。
 一方、正作はドク・ワイマンの治療を受けたあと、ラルストン・ホテルの一室を借りきって、しばらく療養することになった。
 そのあいだ、ゆらは正作をボナーの手にゆだねて、ピンキーとともに隼人と正体不明の女、それにダニエルとマーフィのあとを、追うことにした。とても、じっとしてはいられなかった。
 ネヴァダを東に移動しながら、二人は点在する町や村に行き着くたびに、隼人やダニエルの消息を、尋ね歩いた。
 ダニエルとマーフィの足跡は、ある程度つかむことができた。しかし隼人たちは、どんなルートをたどったものやら、まったく臭跡が残っていなかった。
 それはつまり、ダニエルもまた隼人に追いついていない、ということになる。
 南東へ向かいながら、隼人たちは人に知られぬ特別のルートを、たどったのだろうか。
 ドク・ワイマンが言ったように、もしその女がインディアンと関わりがあるなら、そういうこともありうる。
 結局、アリゾナとの州境で追跡をあきらめ、ゆらとピンキーはまっすぐ、ビーティに引き返した。往復二週間の行程だった。
 正作は、すでにベッドを離れており、元気に二人を出迎えた。
 傷はだいぶよくなり、いちばんやっかいな右足脛骨骨折も、クラッチ(松葉杖)と呼ぶ支えを使えば、歩けるまでに回復していた。
 そして、さらに二週間後にはクラッチなしでも、歩行できるようになった。
 ただし、いくらか右足を引きずる、不規則な歩き方に変わったのは、やむをえないことだった。
 ワイマン医師には、おいおいよくなるだろうが、完全にはもとにもどるまい、と言われたらしい。
 しかし、それで正作が落ち込んだ様子は、見られなかった。むしろ、自分を見つけてここまで運び、看病してくれたことに対して、ゆらたちに感謝の意を表した。
 その翌日、ボナーは賞金稼ぎの仕事を続けるために、ネヴァダ州やアリゾナ準州を回る、と言い残して町を去った。
 いつでも連絡を取れるように、ゆらはボナーにグロリア・テンプルの、下宿の住所を教えておいた。いずれボナーも、客船看護師の姉クレア・シモンズと会うため、サンフランシスコに来ることがあるだろう、と思ったからだ。
 この一カ月のあいだに、ゆらやピンキーに対する正作の態度が、目に見えて変わった。
 隼人に、自慢の居合を受け止められ、愛刀を断ち割られたことが、そうとうこたえたとみえる。あるいは高い崖から転落し、九死に一生を得たことで、何か悟るところがあったのかもしれない。
 口数が極端に減り、ゆらに理不尽なことを申しかけたり、迷惑な振る舞いをするようなことが、なくなった。
 また、隼人の姿が見えないことについても、何も聞こうとしなかった。しかし、ゆらとピンキーの話のはしばしから、隼人が生きていることは、分かったはずだ。
 七月三十日の午前中、ゆらとピンキー、正作の三人は馬にまたがり、ビーティを出発した。
 西側に広がる、シエラ・ネヴァダ山脈の裾に沿って北上し、九日間をかけて大陸横断鉄道の駅がある、リーノウへ行った。
 思えば昨年十一月の下旬、ゆらは隼人のあとを追って、サンフランシスコから東行きの列車に乗り、リーノウまでやって来たのだった。
 それから、早くも九カ月ほどが、過ぎてしまった。
 今ゆらは、初めてアメリカの土を踏んだ町、サンフランシスコにいる。テレグラフ・ヒルに近い、モンゴメリー通りに面した、グロリア・テンプルのロッジに、もどったのだ。
 ほかに、頼るつてがないゆらにとって、ここが唯一の慰安所だった。
 ゆらは、深くため息をついた。
 いったい隼人は、だれとも知れぬ白人の女と一緒に、どこへ姿を消してしまったのだろうか。

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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